◎黒澤明監督の映画『素晴らしき日曜日』(1947)を観た
先日、黒澤明監督の映画『素晴らしき日曜日』(東宝、一九四七)を、ビデオで観賞した。初めて観賞する映画だった。「秀作」とまでは思わなかったが、最後まで、飽きることなく観賞することができた。
これを観たあと、黒澤明の自伝『蝦蟇の油』(岩波現代新書、二〇〇一)を取り出し、『素晴らしき日曜日』について述べているところを読んだ。この本自体は、以前にも何度か読んだことがある。しかし、『素晴らしき日曜日』の箇所は、あえて、読みとばしていたのである。
読んで驚いたが、この映画の脚本を書いた植草圭之助は、黒澤が通っていた東京・小石川の黒田小学校の同級生であった。それも単なる同級生ではない。非常に親しい親友だった。黒澤が『蝦蟇の油』で回想している小学校時代の思い出の大半は、この植草圭之助との交遊に関するものである。
以下は、『蝦蟇の油』からの引用である(二八五~二八九ページ)。
「素晴らしき日曜日」
十人のスターが新東宝へ去り、私達の拠る東宝撮影所にはスターが一人もいなくなった。
東宝と新東宝の二つの撮影所は、期せずして、監督中心主義とスター中心主義の二つの旗印をかかげて雌雄を決する事になる。
まさに、兄弟相争う戦国時代である。
私達は、華やかにスターの名前を並べた作品レパートリイを発表した新東宝に対抗する ために東宝撮影所に拠る、監督、脚本家、ブロデューサー一同、伊豆の温泉宿に集って、 東宝の作品レパートリイについて協議した。
その時の雰囲気は、まるで合戦前夜の帷幕【いばく】のように勇ましく、物々しいものであった。
その伊豆の会議の結果、企画された作品は、衣笠貞之助〈キヌガサ・テイノスケ〉、山本嘉次郎〈カジロウ〉、成瀬巳喜男〈ミキオ〉、豊田四郎の「四つの恋の物語」、五所平之助〈ゴショ・ヘイノスケ〉の「今ひとたびの」、山本薩夫、亀井文夫の「戦争と平和」、私の「素晴らしき日曜日」と谷口千吉〈タニグチ・センキチ〉の第一回作品「銀嶺の果て」、である。
そして、私は、「四つの恋の物語」の中の一篇と、谷口千吉の「銀嶺の果て」と、自分の作品「素晴らしき日曜日」と、三本の脚本を書く事になった。
そのため、私は先ず、植草圭之助と「素晴らしき日曜日」の骨子について話し合い、その具体的な構成を植草にまかせ、「銀嶺の果て」は、谷口千吉と一緒に、その伊豆の温泉に残って書き上げる事にした。
【中略】
続いて、直ぐ、「四つの恋の物語」にかかったが、これは短篇だし、すでに頭の中に出来上っていた話だから、四日ほどで書き終えて、やっと私は、「素晴らしき日曜日」を書くために植草圭之助と机を並べた。
黒田小学校以来、二十五年振りで、植草式部と黒澤少納言は、また机を並べて坐ったわけだ。時に、二人は三十七歲。
しかし、脚本を二人で書き進めていくうちに、二人は表面こそ変ったが、中身は殆んど変っていない事が解って来た。
それに、毎日、顔を突き合わせていると、四十男の顔の中から少年の頃の面影が湧き出して来て、二十六年の星霜は夢と消え、二人とも、圭ちゃん、黒ちゃんの昔に帰った。
大体、圭之助ぐらい変らない奴も珍らしい。純真なのか頑固なのか、弱虫の癖に強がりで、ロマンティストの癖にリアリスト振って、はらはらするような事ばかりやっている。
とにかく、小学生時代から、私の心配の種のような奴である。
【中略】
全く、圭之助という奴は、私にとって、気になって仕方のない存在である。
この男は、如何なる前世の宿業か、或る日私の眼から忽然と消え失せて、或る日また忽然と現われる。
そして、私の眼から消え失せている間に、吃驚するような事ばかりやっているのだ。
砂利取り人夫の親方になってみたり、エキストラになってみたり、吉原の女郎と道行きをしてみたり、また、その間に突然、立派な戯曲やシナリオを書いたり――。
この神出鬼没な植草も、その放浪癖にも飽きたのか、「素晴らしき日曜日」の脚本執筆中は、至極落ちついて、毎日机に向っていた。
また、この脚本の内容も、敗戦直後の貧しい恋人達の話だから、弱い者や人生の影の部分に惹かれがちの、植草にはうってつけの材料だった。だから、脚本の上で、私と意見が衝突するような事も殆んどなかった。
ただ、最後のクライマックスで、ちょっと意見が対立した。【以下、次回】
文中、「植草式部と黒澤少納言」とあるのは、植草圭之助を紫式部、黒澤明を清少納言に擬しているのである。小学校時代の綴り方で、植草少年は「物語風の長いものを書き」、黒澤少年は、「短い感想文のようなものばかり書いていた」ことから、その当時、黒澤少年が、植草少年に向かって、「お前は紫式部で、俺は黒澤明だ」と言ったことを踏まえている。