礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

言語過程説の魅力は時がたっても無くならない(林四郎)

2020-10-13 01:01:18 | コラムと名言

◎言語過程説の魅力は時がたっても無くならない(林四郎)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十四 日本文法論」を紹介している。本日は、その七回目(最後)。

     三
 ではいったい日本文法論として橋本進吉博士の文節論と時枝誠記博士の詞辞論とはどちらがすぐれたものであるか、私はこのことを考えて結びとしたいと思う。まず時枝博士門下の林四郎氏が説かれるところに注目すると、林氏は橋本博士の高弟の一人岩淵悦太郎氏の死を痛み岩淵氏の遺したものというので、「岩淵悦太郎論」(「言語生活」昭和五十三年十二月号、特集国立国語研究所三十周年)を書かれたのであるが、その中で岩淵氏を中庸の徳をそなえた人であったと述べ、岩淵氏が師橋本博士の説を受けて文部省の中等文法その他文法教科書を記述し、これらの教科書が橋本文法を学校文法として定着させるのに大きな力となったという。それに続いて、「橋本文法の中核を、私は『文節』に見るが、この文節を土台にして、品詞論も構文論も組み立てられる学校文法を、日本語を説明しうる最も円満な文法学説として日本中に流布させたのは、橋本先生であるよりも、むしろ、岩淵さんであったのではなかろうか。文節は、説明のむずかしい、困った点をかかえているし、理論的に歯切れのよくない面をもっている。文節論よりも、時枝文法の詞辞論の方が歯切れがよくて、私は好きだ。しかし、日本語文章の調査や分析などをする時、実際的作業単位として、文節は、どうしても必要であるし、音声上の切れ目として、単語とはちがう文節の存在は、どうしても無視することのできないものである。文節は、やはり、日本文法界に君臨する偉大な単位として認めなくてはならない。つまり、文節は、日本文法において、中庸の徳をそなえた単位なのである。」と説かれている。林氏は文節論と飼辞論をこのようにいわれるのであるが、さらにまた「論文とはなにか」(「言語」昭和五十六年七月号、特集論文。レポートの書き方)を書かれて、その中で論文には攻め型と守り型の二つのタイプがあるといい、
《攻めの鋭い論文と守りの堅い論文とがある。時枝誠記氏の『国語学原論』は、攻めに非常な特徴がある。ソシュールの論を言語構成説として攻撃し、言語は頭の中に過程としてしか存在しないという説を立てる。橋本文法の自立語・付属語の区分を攻撃し、概念過程を含むか含まぬかによって、詞と辞の区分を立てる。そして、「文節」を完全に無視した入子型構造を考えるわけである。
 時枝説には、理論上の穴はたくさんあるにちがいない。概念過程とは一体何か、それを含んでいるかいないかをどうやって認定するのか、零記号の陳述というのは、あまりに苦しい説明ではないか、等々、防ぐ立場になったら、なかなかうまく言い抜けられないことがある。にもかかわらず、言語過程説のみずみずしい魅力は、時がたっても、少しも無くならない。それは、あの攻め込む勢いがもっている味なのである。
 反対に、橋本進吉氏の諸論は、どれをとっても、皆、守りの堅さに徹している。大体、守りの堅い人は容易に論文を書かないから、橋本氏の著作集も、ご存知の通り、ほとんどが講義を受講者がまとめたものになっている。『新文典』や『新文典別記』は教科書であるから、論文としては扱えないであろうが、論文かどうかは別として、そこに説かれる文法の論が、守りの堅固さにおいて他に類別を見ないものであることは、私などが言うもおろかなことである。何と言っても、この「文節」という単位の発見は、言語現象の解析に貢献するところが絶大である。入子型とは別の次元で成り立つことであるから、「入子型是ならば、文節非なり。」ということにはならないのである。》
と述べられている。林氏はこのようにいっておられるが、私は私たち日本人の思考には時枝博士の詞辞論のほうがよく適うと考える。この発想を無視しては国語の構造をうまくとらえることができないと思う。ただ時枝博士が詞と辞とに分け、その詞を包む辞を『日本文法口語篇』、『日本文法文語篇』の程度に説述するだけで、さらに深く考察されないのはなぜか、それを少しもの足りなく思う。

 明日は、いったん、話題を変える。

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