◎その本の執筆を私にゆずってくれないか(時枝誠記)
根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十六 国語史研究」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
三
このように時枝誠記博士は新しい国語史の研究を進められていたのであるが、昭和四十二年〔一九六七〕十月死去されたので中絶するのやむなきに至った。ところで、博士が晩年までこの国語生活史に愛着を感じこれの完成に意欲的であったことは、松村明氏が時枝博士の一年祭を前にして認め〈シタタメ〉られた「『国語生活史』のこと」(「国語研究室」第八号昭和四十三年十月、時枝誠記博士追悼)という文章を読むとよくわかる。
《一昨年〔一九六六〕の正月のこと、例年のとおり年始にうかがった私が、先生の御酒のお相手をしていると、ちょっと態度を改められ、真顔になった先生は、頼み事があるんだが」と言い出された。かねて私はH書房から『国語生活史』という本の執筆を頼まれていたのであるが、その原稿の執筆状況についてのおたずねなのである。私がまだあまり進んでいない旨お答えすると、それなら、その本の執筆をゆずってくれないかとのことであった。言語生活史としての国語史を提唱された先生が、東大停年後のお仕事の一つとして、その言語生活史の完成をめざしておられることは、私もよく知っていたので、先生のこのお申し出でを私は即座に承諾した。先生は大変喜ばれて、『国語生活史』の執筆の完成を当面のお仕事にしていることを話されたのであった。私がH書房から『国語生活史』を出すことはだいぶ前からきまっていたのであるが、他になすべき事などもあり、それまでついのびのびになっていたのであった。先生は同書房から別になにか単行本の執筆を依頼されていたのであるが、私がすでに 『国語生活史』を執筆することになっているので、先生としても執筆テーマをきめかねておられたようであった。そして、先生としては、一本をまとめるならさしあたり言語生活史以外にはないということで、このような申し出でとなられたのである。私としても、だいぶ前から引きうけていながら、他の仕事のために執筆が進められなかった『国語生活史』を先生の方におゆずりできて、正直のところほっとしたのである。衆目の見るところ、『国語生活史』の執筆は先生が最適ということになるからである。その後、私からもH書房へ話して、正式に先生の方へ『国語生活史』の執筆依頼がなされたはずである。
この『国語生活史』に関して私には、実は前からの思い出があるのである。そもそも私がH書房から『国語生活史』を出すことになったのは、このテーマについて私にはすでに他に書いたものがあり、それに加筆し、多少の増補をすれば比較的かんたんにまとめることができると考えたからである。それは昭和三十三年〔一九五八〕に国語関係のある講座に書いた『言語生活の歴史』というものなのである。これはその講座の編集者が私にわりあてて依頼してきたもので、この題目がどうして私にわりあてられたかわからないが、当時、私は言語生活史としての国語史という考え方には関心をもっていたので、いちおう執筆を承諾したものである。ところが、それ以前には時枝先生のいくつかの論稿を除き、国語生活史のまとまったものがほとんどなかったので、これを書きあげるのには多少私なりの苦労はあったのであるが、〆切に追われたのと紙数の制約などのために、できあがったものは、きわめて不備の多いもので、私自身決して満足してはいなかったのである。ところが、この講座が刊行されると間もなく、私は時枝先生から丁重なお手紙をいただいた。その手紙は今手もとにないので、細かいことは忘れてしまったが、とにかく先生はこれをかなり高く評価してくださったらしいのである。先生としては、御自分の提唱しておられた言語生活史というテーマについて、とにかく一つのまとまった記述をなしたことで、喜んでくださったものと思う。もっとも、言語生活史といっても、私の書いた『言語生活の歴史』は、先生のお考えとはかなり違った点のあることを、私自身よく知っていたのであるが、そういう点について先生がどのように見ておられたかはよくわからない。とにかく、先生からそのような手紙をいただくにつけても、私としてもなるべく早い機会に加筆訂正をしてこれはこれとして少しでも不備を少なくしておかなければならないと思ったのである。H書房 から『国語生活史』として出すことを承諾したのも、そのような気持があってのことだったわけである。とにかく、さきにしるしたような事情で、『国語生活史』は、一旦は私の手をはなれて、先生がH書房から刊行されることになったのである。昨年十月、先生がおなくなりになったとの報を米国の客舎で聞いて、まず気になったのがこの『国語生活史』のことであった。先生のお手もとにまとまった原稿が残されていることを念願して帰国したのであるが、残念ながらまだほとんどまとまった原稿にはなっていなかったようである。先生としては、十分に想をねり、早稲田大学の停年までにお書き上げになるつもりであったかも知れない。それにしても、晩年、あれほどまで心にかけていたこのテーマを、先生御自身の手でまとめられることなく、御他界になったことは何とも悲しいことである。》
これは松村氏の追悼の文章の八、九割である。ここで時枝博士が松村氏に昭和四十一年〔一九六六〕の正月に執筆をゆずりうけられたのは、おそらく塙書房の選書であろう。そして松村氏が博士にほめられたというのは、朝倉書房から昭和三十三年〔一九五八〕五月に刊行された『国語教育のための国語溝座第7巻言語生活の理論と教育』の中に収められた「言語生活の歴史」に違いあるまい。時枝博士は多くの仕事をし残して世を去られたが、なかんずく言語生活史の体系を企図しながらそれが成らなかったのは残念なことである。
すでに見てきた通り、『時枝誠記 言語過程説』という本は、非常に引用が多い。しかし、根来司(ねごろ・つかさ)が、こうした形で引用・紹介しておいてくれたからこそ、今日、私たちは、まず気づかず、目にする機会がなかったであろう文献を読むことができるのである。
明日は、いったん話題を変える。