◎2式複座戦闘機「屠龍」、敵艦船に体当り攻撃
二〇一七年の六月二二日から二四日にかけて、当ブログで、『日本軍用機の全貌』(一九五三)という本を紹介したことがあった。数日前、久しぶりに、この本を手に取ってみたところ、二式複座戦闘機「屠龍」について紹介している〝2式複座戦闘機「屠龍」〟という記事があった。
「屠龍」については、本年の八月二〇日以降の当ブログで、紹介したことがある。そこで本日は、この〝2式複座戦闘機「屠龍」〟という記事を紹介してみたい。
2式複座戦闘機「屠龍」
(Cキ-45改)
昭和12年〔1937〕3月,陸軍は双発複座戦闘機の研究試作を川崎航空機に下命した。これはキ-38と名附けられ,同年10月には詳細なモックアップが完成して基礎設計も終了していたが,軍はこの結果にもとずいて,新たに同年12月,キ-45の新名称による双発複座戦闘機の設計試作を命じた。しかし当時は未だ軍においても軽単座戦闘機による巴戦式の空戦思想が根強い折から,この新複座重戦の性格に関して部内でも意見対立して仲々まとまらず,会社側でも基礎設計を纏めるのに相当苦心をしたようである。
本機のような双発形式,しかも空冷発動機の装備は川崎としては最初であるので,設計,製作上に種々の難関があつたが,昭和I4年〔1939〕1月,第1号機が完成して処女飛行が行われるまでになつた。ところが本機の脚はギヤ及びチェーン使用による機械的手動式引込脚を使用したところ,この機構が非常に不具合で,その上発動機が当時試作の域を脱しない中島ハ-20乙を装備していたため充分な調子が出ず試験飛行はなかなかはかどらなかつた。同年5月に完成した第3号機からは脚を電動引込式に改良したため,幾分この不具合は除去することができたものの,発動機の不調はどうにもならなかつた。その上,本機の大きな欠点の一つであるナセルストールの問題の解決には相当手を焼いたようで,一時は苦肉の作として,川崎発動機工場でハ-20乙の改造型を試作して左右プロペラを逆回転しようとしたが,軍が,ハ-20乙を採用しないことに決めたため,この計画はお流れとなり,結局ナセル附近の翼面に小さなスリット(隙間)を設けて,幾分これを防止し得た程度であつた。
あれやこれやで,約1年も審査が続けられたが,充分な性能は出ず,これに引掛つて再び軍部内の重戦に関する懐疑思想が再燃し,徒に〈イタズラニ〉日が流れるばかりであつた。会社側では完成した3機の試作機のほかに,9機の増加試作に着手していたが,このような状況下に遅々としてはかどらなかつた。
15年〔1940〕4月に至つて発動機をハ-25(海軍の栄)に換装することが決し,これを装備した7号機は7月に初飛行した。ところが第1回飛行で離陸直後,カウルフラップを全開して上昇に移つたところ猛烈なナセルストールを起し,辛うじて着陸したもののプロペラ,脚,翼端等を破壊してしまつた。しかし昼夜兼行の修理により8月末に再飛行した時には大した問題は起らなかつたので,既に完成していた4,5,6号機も同発動機に換装した。そしてこれらの結果にかんがみ,同年10月にキ-45改として、その第2次性能向上機の試作並に整備機の生産が命じられた。
キ-45改は原型の短く丸い機首を鋭く延長し,また胴体下部右側に37mm機関砲を外装するための凹みを設けたりした外見上の変化以外に細部構造にかなりの改良がみられ,16年〔1941〕9月に第1号機完成,引続き岐阜工場において2式複座戦闘機として整備機生産を開始,明石工場でも17年〔1942〕9月の初号機完成を手始めに量産が続けられた。その後さらに発動機はより強力な三菱製のハ-105に改装され,性能も信頼性も更に向上した。
太平洋戦の前半には主として南方地域で活躍したが,昭和19年〔1944〕以後13mm斜め銃――陸軍では上向銃と称した――を背負つて陸軍唯一の夜戦〔夜間戦闘機〕として海軍の月光と並び,本土防空に奮戦した。試験機としては種々の改装機があるが,中でも機首を延長して木製枠の所のプレキシグラス張りの中に,レーダーを装備したりしたのは,珍しいものの一つであろう。機首の武装は12.7mm機銃2門と20mmもしくは37mmの機関砲を組合わせた種々の形式があり,その重武装を利して対地,対船舶攻撃用としても有効であつたといわれる。昭和20年〔1945〕初頭まで生産は継続し,総計約1700機であつた。
実戦記録 昭和19年5月27日,ニューギニア北岸沿いに進撃する敵が,ビワク島のわが守備隊に猛攻を加えたとき,高田勝重少佐の直率するわが戦闘機4機は,友軍の危急を救うべく,ビワク島南岸の敵艦船に体当り攻撃を敢行し飛行機諸とも,肉弾を以て敵艦を轟撃沈した。
この壮烈極まる攻撃精神は,たちまち全軍に伝えられ,特攻の先駆となつた。この戦闘機こそは2式複座戦闘機であつた。
本機はもともと,掩護戦闘機として誕生したものであるが,防空戦闘機,特に夜間防空に主用された。昭和19年6月15日夜,中国大陸から,B-29が北九州に来襲したとき飛行第4戦隊〔小月〕の本機8機は,これを邀撃〈ヨウゲキ〉して7機(内3機は不確実)を撃墜した。
東京防空のためには,飛行第53戦隊(所沢に配備),中部地区の防空のためには飛行機第5戦隊〔清洲〕が,本機で装備されて活躍した。
また、ラングーン,パレンバン,ハノイ,鞍山〈アンザン〉等の防空にもこの飛行機が活躍した。
文中に、「ナセルストール」という言葉が出てくる。ナセルは、エンジンの筐体、ストールは失速のことで、ナセルストールとは、エンジンの位置や、筐体の形状に由来する失速を意味する。一般に、双発機には、このナセルストールが生じやすかったという。
また、文中に、「体当り攻撃」の話が出てくる。いわゆる「特攻」である。その先駆となったのが、「屠龍」という航空機であったことは、記憶しておいてよい事実であろう。