礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

この時を境として、日本は下り坂の国となった

2021-10-05 04:13:58 | コラムと名言

◎この時を境として、日本は下り坂の国となった

 蜷川新『興亡五十年の内幕』(六興出版社、一九五三)から、「国際連盟脱退事件」の章を紹介している。本日は、その二回目(最後)。

        〇
 日本は、この連盟に加わり、永い間、有力な一国として、理事者の一員となつていた。
 満洲事件が生じ、日本ば平和の破壊者と見られた。又「支那に関する九国条約」の違反国と睨まれた。それは、連盟条約上、当然の見解であつた。日本の行動は、連盟規約の前文に、触れていたことは、云う迄もないのである。
 ジユネーヴの連盟理事会では、大いに日本を攻めた。日本の委員は、外交技術が拙劣であつて、大いに苦しめられたのであつた。
 日本から、松岡洋右〔日本全権〕が、軍部に押されて、ジユネーヴに出張し、弁明の任に当つた。併し乍ら、松岡の弁明も亦拙劣であつた。その英語も「半分は分らない」と、英人から非難された。日本に三年もいた英人ハント氏から、日本人に、そう書いて来たのである。松岡は、英語を得意としていたけれども、英人は、馬鹿にしていたのであつた。松岡は、論理の優れた人ではなかつた。「満洲は、日本が救つたのである」という昔し話を、列国人に向つてするのみであつた。そんな外交家は、世界を相手にして、勝利する理由がない。
 松岡は旅費を費したのみで、日本に帰つて来た。そして一時は、その郷里の一寒村に、引込んでいた。日本人の様子を探つていたのである。
 日本の軍部は、陸軍の発行する小冊子で、脱退を宣伝し、国民を煽動した。その文中には、「国を焦土となすも可なり」という不法激烈の文句さえ用いられた。右傾は、それに乗つて、騒いだ。毎日新聞は、脱退を煽つた〈アオッタ〉。実業家の中にも、脱退を唱えた人がいた。「脱退は、日支貿易上都合が好い」なぞと、没理のことを主張した。私は、その実業家を工業倶楽部に尋ねて、問答して見たが、学問のない実業家であつた。学者界でも、立作太郎〈タチ・サクタロウ〉氏は、平生の穏健性を脱して、「脱退しても、南洋群島は、連盟から取り上げらることはない」と論じ立て、それが新聞に出た。海軍の軍人は、「若も南群島の返却を、連盟から日本に申出でるならば、海軍は、武力で、それを拒絶する」なぞと暴言を吐いて、人民を煽つた。
 私は、「連盟脱退は、日本の孤立である。日本の友邦は全くなくなる。日本は、好んで世界を敵として、日本民族の生存は果して保たれ得るか」と考えた。そして、「脱退すれば、南洋は、連盟に戻すのが、日本の義務である」と説いた。南洋群島は、日本の領土ではない。委任統治地である。日本は、連盟から委任されていたのである。「連盟の名に於て」日本は南洋を統治していたのである。その委任者と衝突し、それと争つて、連盟から脱退するならば、法理上、その委任は一方の意思によつて解除される。日本は、還附する義務があると主張した。私の主張は、軍部や、右傾から憎悪された。公然彼等は、その新聞をもつて、私を攻撃した。立作太郎氏も、私に反対した。併し乍ら、確たる言論ではなかつた。それ故に、その論文を掲げていた時事新報の一人の記者は、私に電話して、「立さんの言論は、どうも変です」と、私に告げたのであつた。立さんの議論は、文字争〈モジアラソイ〉のようなツマヲナイ議論であつた。「as ifとasとは違う」というのであつて、それは、牧野伸顕〈ノブアキ〉が、パリで原案を修正した文句であつて、そのasの文字に修正したために、南洋は、「日本の領土として」と解釈すべきであるというのであつた。ツマラナイ文字の争であつた。
 私は、脱退を不当とした。そして、枢密顧問官数氏に、申言して、脱退の不利を説いた。副議長の原嘉道〈ヨシミチ〉は、「好く分つた」と細かに私に返書した。同顧間官石塚英蔵〈エイゾウ〉は、齋藤〔實〕総理大臣に、私の意見を伝えた。総理は、「脱退なぞは出来ない」と答えたそうである。
 私の反対のために、急には脱退論の勝利とならなかつた。延び延びして行つた。
 併し乍ら、終に、政府は、脱退を決定した。私の主張は破れた。
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 日本人は、いつも外交を知らない。日本人は感情的である。唯だ強硬のみを唱えて、自己満足するか、或は卑屈に国を外国に売るかの何れかである。
 伊太利は、アルバニヤの件で、連盟と争つた。併し脱退しなかつた。暫く、理事会と遠ざかつていた。そして終に、伊太利は、その目的を達した。孤立なしに、伊太利の外交は勝利した。私は、この外交方策を唱えたのであつた。併し乍ら、理解者が少く、敗北したのである。
 私は、日本の孤立を、日本のために、危険と感じた。或は、外国の連合によつて、復讐され、襲撃され、隣邦から軽悔され、容易ならぬ事態の生ずるのを憂えた。
 当時の英国も、米国も、その以後の政治家のような、決断がなく、幸にして、無事で済んだ。併し、私は、その時以来、軍人及右傾等は、相手にならないと考え、一切彼等と絶つた。請われても講演は行わなかつた。論文も書かなかつた。それは昭和八年〔一九三三〕のことであつた。
 日本人が、驕慢の極度に達したのは、この時であつた。
 陸軍の南次郞や、柳川平助は、若い軍人と共に、連盟脱退を大喜びして、それを声高く全国に伝えた。孤立して喜ぶなぞは、外交の落伍者である。ナポレオンも、ビスマルクも、孤立を避け、巧みに国の権威と利益とを推持したものである。彼等は、この外交の本義を知らない。彼等は、連盟から脱退すれば、外国の干渉を免れ、自由に行動し得るように思つていたのである。幼稚な政治家であるのを免れなかつた。私は当時内閣の渡邊千冬〈ワタナベ・チフユ〉とこのことを話し合い、慨歎したのであつた。
 この時を境として、日本は、下り坂の国となつたのである。前途の光明は、失われたのである。私はかく判断する。

 日本が国際連盟に対し脱退の通告をおこなったのは、一九三三年(昭和八)三月二七日である。これに先立つ同年二月二四日、国際連盟総会は、四十二か国の賛成でリットン報告書を採択、松岡洋右日本全権は、これに抗議して退場した。
 文中、「当時内閣の渡邊千冬」という表現があるが、誤りか。渡邊千冬(一八七六~一九四〇)は、浜口雄幸内閣、第二次若槻礼次郎内閣で司法大臣を務める。国際連盟脱退当時は貴族院議員で、齋藤實内閣には加わっていない。

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