◎ちょっくらちょっと話せないし……(近衛文麿)
渡辺俊一氏の論文「近衛文麿と国体主義」を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。なお、この論文は、渡辺氏の著書(論文集)『福沢諭吉の予言――文明主義対国体主義』(東京図書出版、二〇一六年四月)の一部である。
深い国際的知識のある人間は皆、三国同盟は日米戦争を招くと強く反対であった。米内〔光政〕も自分の内閣時における死を賭しての三国同盟反対が「無駄な努力」に終わったことを嘆いた(下p163)。木戸〔幸一〕も同盟には反対であった。彼はこれは必ずや日米戦争の原因になるに違いないと心配し、近衛や松岡に警告したが、「驚くべきことに」彼等は、反対にこれは米国の参戦を防止するためだと言ったと述べ、しばしば日記で危惧の念を話している(下p163)。
『木戸幸一日記』と供述書によると、天皇も三国同盟問題には深く憂慮して「此の同盟を締結すると云ふことは結局日米戦争を予想しなければならぬことになりはせぬかとの仰せあり、近衛〔文麿〕首相、松岡〔洋右〕外相にも御尋ねがあったが、両人共此の同盟は日米戦争を避くるが為めであって此の同盟を結ばざれば日米戦争の危険はより大なる旨を奏上して御裁断を願ったのであった。結果から見て陛下の御観察が正しかったのである」と木戸は述べている。天皇の観察が正しかっただけではない。後に見るように対米戦を不可避と見ていた松岡は、日米戦を避けるためなどと天皇を騙して、日本にとって致命的な決断をさせたのである。西園寺〔公望〕が心配していたように「陛下の御総聰明を蔽ふ」ことになった。後になって天皇の意見が正しかったことが明白になっても、近衛は少しも責任を感じることもなく、同盟締結の正しさを主張し続けた。
十一月四日〔一九四〇年〕に西園寺は、近衛の政治外交姿勢をいたく心配して、「一体政治の目標はどこに置いているのか、支那事変をどうこれを纏めて行くつもりなのか、なお日本外交はこのままでいいと思つているのか、という三点について近衛にきいてくれ」と、心配そうに原田〔熊雄〕に言った。十一月六日に近衛に訊くと、近衛は「そいつは困つたな。なかなかちよつくらちよつと話せないし、やつぱり自分が行つて直接お話しよう」と言った。しかし西園寺は十一月十二日から発病し、遂にそれが最後になったのである(下p165)。西園寺の日本の前途を憂慮した、その政治の根本姿勢に関する正面からの問いかけに、近衛はまともに答えることはなかった。三国同盟の衝撃が西園寺の死期を早めたことは明白である。西園寺の悶死は、日本における文明主義の死を象徴するものであった。西園寺の国葬では近衛は葬儀委員長を務めたが、国体主義者の近衛が西園寺の文明主義を葬り去る象徴的な儀式となった。
非政治的ながらも、フランス文化に造詣の深い西園寺には例外的に好意を寄せていた作家の永井荷風が「怪しむべきは目下の軍人政府が老公の薨去〈コウキョ〉を以て厄介払いとなさず、却て哀悼の意を表し国葬の大礼を行わむとす。人民を愚にすることも亦甚しというべし」とその偽善性を鋭く批判していた。そして、西園寺もその標的とされていた二・二六事件の「叛乱罪にて投獄せられし兇徒は当月に至り一人も余さず皆放免せられたるにあらずや。二月および五月の叛乱は今日に至りて之を見れば叛乱にあらずして義戦なりしなり。彼等は兇徒にあらずして義土なりしなり。」と述べている。目下の「軍人政府」の愧儡たる近衛が、二・二六事件の犯人達の大赦に執念を示し、彼等の国体主義の過去を継承するような政治を実行しているという本質を荷風は見抜いていた。【以下次回】
以上、二二九ページ下段から二三一ページ上段まで引用した。
「最後の元老」と呼ばれた西園寺公望が亡くなったのは、一九四〇年(昭和一五)一一月二四日である。
文中、永井荷風の言葉が引用されているが、『福沢諭吉の予言』の巻末にある「註」によれば、典拠は『断腸亭日乗 五』一〇六ページ(引用者は未確認)。