◎東條大将、過去の誤りを述懐する
机上に、種村佐孝『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社、一九五二)がある。念のため、東条の「反省の弁」を引いているところを開いてみた。「二十年二月十六日」の項がそれで、その全文は、以下の通りだった(二一二~二一三ページ)。
二十年二月十六日 東條大将過去の誤を述懐
昨夜来敵機動部隊が本土に近接し本朝七時から午後四時にわたり艦載機十波約二〇編隊、延〈ノベ〉にすると一、四〇〇機が関東及び東海地区に来襲し、主として飛行場及び港湾を攻撃した。機動部隊は五群、空母十五を基幹とするもののようであつた。
この大機動部隊が帝都の玄関先で、猛威を振う間、これに一矢も報いるものもない。国民の戦意を喪失せしめるものこれより甚しきはなかつた。今後の帝都の物的、国力、戦力の激減が予想せられた。
この空爆下私は、世田谷用賀の自邸に東條大将を訪れ、現下の情勢を説明し、重臣としての心構えの一端に資するところがあつた。この日は東條大将も、かみしもを脱いでつくづく内外の国事を憂えて語つていたが、裸の東條大将は、真面目そのものであつた。同大将は、今後の問題に関しては次のように語つた。
『食糧事情が逼迫〈ヒッパク〉し国民大衆の戦意が低下していることと知識階層の敗戦必至感はまことに憂慮すべきものがある。四月以降ソ連の動向は注意を要する。殊に敵が本土に上陸したならばソ連の対日参戦は必至である』
また総理在職間の誤を回想して、次のようにしみじみと語つた。
『開戦の可否に関しては、今でも日本はあれより外に進む途がなかつたと信じている。しかしその後の戦争指導に関しては大いに反省しなければならぬ点が多い。私は開戦前わが海軍の実力に関する判断を誤つた。しかも緒戦後海軍に引きずられてしまつた。一方わが攻勢の終末を誤つた。緒戦後のわが攻勢は印度洋に方向を採るべきであつた。また石油に関する観察も誤つた。日満支の燃料施設を、全部南方に送つてしまつたのは誤りであつた。更に独ソ戦の推移に関する判断を誤つた。独ソ和平斡旋のチャンスもあつたのに惜しいことをした。三国同盟の功罪は今日自分からは何ともいえぬが、単独不講和の条約は帝国の戦争終末施策を束縛したことは事実である』
要するに現下日本の進べき道は、陸海軍が一体となつて行くより外はない、という結論だつた。
激しい空襲の中、種村佐孝は、わざわざ、英機大将の私邸を訪ねている。「現下の情勢を説明し、重臣としての心構えの一端に資する」ためである。重臣たる東條英機のために、現下の情勢を説明し、その「心構え」の参考にしてもらおうとしたのだという。おそらく種村にとって、東條は尊敬すべき将軍であり、重臣だったのであろう。
「現下の情勢を説明し」とは何か。要するに「敗戦必至」の旨を伝えたのであろう。さすがの東條も、空襲によって帝都が危機に瀕しているという現実の中で、「敗戦必至」という種村の説明を受け入れざるをえなかったはずである。
昨日のブログでも、私は、そのように書いた。しかし、『大本営機密日誌』の「二十年二月十六日」の項を読むと、東條は、「知識階層の敗戦必至感はまことに憂慮すべきものがある」と述べている。軍人たる東條英機のメンタリティは、「知識階層」とは違う。ホンネではともかく、「敗戦必至」を認めるわけにはいかなかった。そうした軍人のメンタリティに災いされ、戦争は、そのあとさらに六か月間も継続することになった。
さてこの日、東條は、種村の心くばりに謝するとともに、種村に向かって、しみじみと「過去の誤りを述懐」したのである。これは、この時点における東條の「反省の弁」であり、事実上の「敗戦の弁」であったと思う。
東条が認めた「誤り」の中には、「独ソ戦の推移に関する判断」の誤り、「独ソ和平斡旋のチャンス」を逃したことの誤りが含まれていた。しかしこれらの誤りは、むしろドイツ側に指摘すべきことであった。ドイツは、日本を裏切って、独ソ不可侵条約を結び、さらに、その条約を破ってソ連に侵攻した。これによって、ソ連は連合国側に回ることになった。また、日本が斡旋を働きかけた「独ソ和平」を拒んだのは、あくまでもドイツであった。
もし日本側に誤りがあったとすれば、そのようなドイツを信じたことである。そのようなドイツに依存しながら、英米に対抗するという戦略を選んだことである。端的に言えば、「三国同盟」を締結したことに誤りがあった。東条は、その誤りを自覚していたと考える。
「三国同盟の功罪は今日自分からは何ともいえぬが、……」と東条は言う。その真意は、「今になって、自分からこんなことを言うのはどうかと思うが、三国同盟を結んだことが、日本の最大の誤りだったと認めざるをえない」ということだろう。
「自分からは何ともいえぬが」という表現が、何とも歯切れが悪い。責任回避である。東條は、第二次近衛内閣の陸相として、三国同盟締結に関与している。こういう歯切れの悪い表現をしたとき、おそらく東條の意識には、三国同盟推進の中心人物たち(松岡洋右、大島浩、白鳥敏夫)の存在があったのであろう。