◎ドイツには、ドイツ式の芸当がある(蜷川新)
蜷川新『興亡五十年の内幕』(六興出版社、一九五三)から、「三国同盟の排斥」の章を紹介している。本日は、その二回目。
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ヴエルサイユ条約は、不法どころではない。独逸人も、これを承認して調印したのである。列国は、独逸人の意思を奪つたのでもなく、その腕をひねり上げたのでもなかつた。当時ヴエルサイユにいた人は、その証人に立つであろう。凡そ〈オヨソ〉戦に敗北した国は、不利な条約を承認す可きものであることは、古今東西同一の道理である。独逸は、ヴエルサイユ条約を拒否すれば、国は亡びかけていたのである。それを結んで、初めて救われたのであつた。世界の人々も、この条約が成つて、初めて平和となり、幸幅を恢復し得たのであり、全世界は其締結を歓喜したのであつた。但し当時欧洲にいなかつた人は、この感じが、比較的少いのは、一般である。亜弗利加〔アフリカ〕の土人なぞには、何の感じも無かつたものでもあろう。この条約には、日本も五大国の一として、初めから参加し、責任は十二分にあるのである。後年になつて、ヴエルサイユ条約破棄を、適当の如くに云う日本人のあるのは、健忘性の人か、又は独逸人化した人か、又は後から生れた少年の連中でもあろうけれども、それは、日本人としては、余りにも、「軽卒なり」と云う可きである。
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凡そ条約は重んず可きものである。それを破ることは、秩序の破壊である。又不道徳である。条約の変更を必要とするならば、それには、手続がある。又合議して改む可きものである。合議して無効となしても好い。時代に適合せずとの一方的云い草を以て、条約を蹂躙するのは、不法であり、允す〈ユルス〉可らざることである。
独逸は、大戦前にも、「条約は反古紙なり」との暴言を、放つた国である。そして大戦争の張本人となり、その制裁として、ヴエルサイユ条約が出来上り、独逸は、これに、自由に調印したのである。然るに、独逸は、又この条約破棄を唱え出し、これを実行したのである。かゝる事が、若し世界の是認することゝなるならば、世界に、正義なく、道徳なく、秩序なく、平和なく、人類は、殺人の承認者となり下り、野獣の如き暴力国のみが、 独り生存し得ることゝなるであろう。日本人は、かゝる不逞思想を是認する程に、堕落したものとは、何人〈ナンピト〉も考えないであろう。
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独逸は、独逸の方式を以て立つが好い。国は独立であり自由である。日本人は日本人として、正しく立つことが大切である。
独逸が、蘇聯〔ソビエト連邦〕と結んだに付ては、独逸の為めに利益であると独逸自ら認めたからであり、それは独逸の自由である。日本と結ぶと云つて見たり、英国と結ぼうと申出でて見たり、又蘇聯と固く手を握つて見たりしたのである。即ち独逸には、独逸式の芸当がある。
蘇聯は、当時日本とは戦争していたのであり、独逸は「ノモンハンの英雄」として、蘇聯の勇士を、公然独逸の新聞紙上に、賞揚していた程である。この蘇聯と独逸は結びつき、蘇聯をして、後顧の憂なからしめ、大兵を西より東に送らしめ、又恐る可き機械や多くの飛行機を送らしめたことは、日本の為めには、非常な危険であり、日本は、現実に、前古未曽有と云わるゝ不利を蒙つたのである。独逸は、日本に対し、お気の毒と云つたことも、我等は未だ聞かないのである。
日本人としては、独逸のこの不信の行為に接して、歓喜し得ないことは勿論である。この行為ありしにも拘わらず、「独逸は盟邦なり」なぞとは、云つていられないのである。これは感情論ではなくして、正しき理義である。独逸を誹る〈ソシル〉のではない。日本民族の自存の為めに云うのである。
独逸人としては、日本人を味方としようとの外交掛引の上から、日本人に、秋波を送るのである。その秋波を、「難有〈アリガタシ〉」として、独逸依存の説を立てる人が、日本にある。それは果して日本人らしい主張と云えたものであろうか。
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独逸依存の説を為す日本人は、『防共協定は未だ廃棄されない、従つて独逸は盟邦である』なぞと唱える。併し乍ら、防共協定と、独蘇結合とは、相容れない性質のものである。それは独逸の大官も、独逸に於て断言したと云われて居り、日本にても、独逸に対して、公に抗議して見たり、いや味を公言したりした事実がある。道理上、相容れない条約は消滅したものである。法理的に云えば、無効となつたのである。この理は、「露仏同盟条約は、独蘇の結合に由りて無効となつた」との、世界的解釈と同じことである。特に廃棄の宣官なくとも、無効となつたとの解釈で終末するのである。日露戦後に出来た第一第二第三の日露協商は、特に無効の宣言はなかつたけれども、夙に〈ツトニ〉無効となつて、今は存在しないのである。何人も知つているであろう。【以下、次回】
若干、注釈する。一九三九年(昭和一四)八月二三日、ドイツは、ソビエト連邦との間に、独ソ不可侵条約を結んだ。日本と独逸は、一九三六年(昭和一一)一一月二五日に、日独防共協定を結んでいたので、これは、日本に対する裏切り行為に当たる。しかも、独ソ不可侵条約が結ばれたのは、満洲・モンゴル国境で、日ソ両軍が激突したノモンハン事件(一九三九・五・一一~九・一五)のさなかだった。