礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

スターリンは松岡を小児扱いして愚弄した

2021-10-06 01:21:04 | コラムと名言

◎スターリンは松岡を小児扱いして愚弄した

 蜷川新『興亡五十年の内幕』(六興出版社、一九五三)の紹介を続ける。本日は、「日独伊三国同盟の欠陥指摘」の章を読んでみたい。
 以下は、その全文である(二四一~二四四ページ)。

日独伊三国同盟の欠陥指摘

 松岡〔洋右〕が結んだ日独伊同盟には、大きな穴があつた。松岡外相は疎漫な人であつた。そんな細いことは、気のつかない人であつた。私は、それを論文で攻撃したが、松岡は、その当時議会で、「三国同盟を悪く云う奴がある」と公言していた。それは、私の攻撃に付ての憤り〈イキドオリ〉であつた。松岡は、私の攻撃によつて、初めて、三国同盟に欠陥があるのを知つたのである。当時松岡は、故人田中義一氏の法要会〔ママ〕に於て、「以前の内閣は、三国同盟を結ぶことに付て、三十数回も、会議を開いたが、併しいつも、議決し得なかった。そしてお流れとなつた。僕は、唯の一回で、この問題を決定したのだ」と、頗る得意に放言していた。列座の軍人や、同人の一味は、「それは結構であつた」と賞めていたが、それを私は、末座に聞いていて、不快至極であつた。私は彼等とは話も交えずに、席を立つて、帰り去つたのであつた。松岡は、重大時機の外相なぞを勤め得る人間ではなかつた。私は、大正四年〔一九一五〕の頃から松岡を知つていた。田中義一氏と、米国に旅した時に、松岡は日本大使館の下級の一書記官を勤めていた。そして田中の為めに、通訳の労を取つていた。田中と私と松岡と三人で、有名な国務相のブライアンに招かれ、一夕〈イッセキ〉饗応をも受けたのであつた。同人は長州の人であり、田中には、接近していた人である。私は、その時から、同人には、敬服する所があるのを見出さなかつた。ヴエルサイユ会議の時にも、松岡は、外務省の役人として、巴里に来ていた。私も折々顔を合せたことはある。
 三国同盟の条文が疎漫であることは、石井菊次郎子も、非難していたが、松岡は、思慮周密の人間ではなかつた。但し世渡〈ヨワタリ〉の巧みな人であつた。
 三国同盟は、独伊の為めには、大きな利益のある同盟であつた。松岡は、独伊のために、尽力した人間であつた。松岡は、ヒツトラーや、ムツソリーニに、翻弄せられたのである。同条約に依れば、日本と露国と、交戦した場合には、独伊は、日本を援助する義務を有していなかつた。条約は、そのように制定されていた。独露の間には、「現状維持の状約」が成立していた。従つて、独伊は、露西亜を後方から衝くことは、条約上出来ないのであつた。これに反し、若も〈モシモ〉独露が交戦すれば、日本は条約上、独逸に味方して、露西亜を後方から、攻撃する義務を有していたのである。即ち日本のためには、甚だしい拙劣な条約 であつた。私は、この点を指摘して、攻撃したのである。松岡は、初めて、その迂濶さに気がついた。そこで、遽か〈ニワカ〉に、独逸に飛んで行つた。そうして、独逸人の様子を探つた。更らに、帰途には露西亜に立ち寄り、そしてスターリンと会見した。そうして、「日露不可侵の条約」を締結した。この不可侵の条約によつて、露西亜は、日本から襲われる憂〈ウレイ〉を、消すことが出来た。露西亜は、大いに利益した。松岡を翻弄したのであつた。この不可侵の為めに、日本は、露独が、交戦した所で、露西亜を、後方から攻める権利はないことになつた。これにより三国同盟に依るこの点の日本の義務は、それで免れ得ることになつた。そして独逸との均衡は取れた。私の非難は、先づそれで解けた。併し乍ら、この為めに、独逸人は、日本の行動を、背信として、激しく憤つたものである。三国同盟は、 それからは、独伊の為めには、価値のないものとなつたのである。松岡の一時の誇りは、中立条約の締結によつて消滅せしめられたのである。利益したのは実にスターリンのみであつた。
 スターリンは、巧みに松岡を小児扱して、甚だしく愚弄した。そうして又日本が、愈々敗北した時には、日本の「仲裁要求」を蹴り、英米の主脳と、相応して、不可侵条約の一方的破棄を、断行した。そして日本を窮地に追い込んだのである。
 英米露の外交は、巧妙であつた。日本の外交は、迂愚〈ウグ〉極まるものであつた。日本の降伏は、軍事の無能と共に、外交の無能から、生じた結果なのである。当時の日本人は、右の事情は、知らなかつたであろう。当時言論は圧迫され、公然立つて充分に、三国同盟の欠陥を、指摘することは、不可能であつた。
 私は、当時から、「独逸必敗」を、友人や知人に向つて公言していたものである。このことは、多くの人が知つている。
 私は、当時雑誌々上に、「独逸に依存するの危険」を論じていた。その論文は、政府の役人から、強く叱られたものである。但し、その編輯者が叱られたのであつて、私には、何人〈ナンピト〉も干渉しなかった。その論文を、別に再録して、私の言に偽りのないことの証明とする。松岡等は、独逸の必勝を信じ、それと同盟を結んだのは、甚だ不明であった。松岡は、三国同盟締結の折に、独逸の政府人と、秘密に約束して、南洋群島の委任地に関し、独逸をして、「日本の領土となすこと」を、認めしめ、同時に、独逸に対して、賠償を仕払うべきことを、定めたのであった。枢密院に於ては、これが、大問題となつたのであつた。私は、石塚〔英蔵〕顧問官から、当時そのことを、極秘に話されたのである。松岡の外交は、独逸本位であった。日本の外交ではなかつた。
 松岡は、ジユネーヴに於て、国際連盟脱退を、明確に宣言したのでもなかつた。唯だ、満洲は、日本の力によつて、露国の占領から、救われたことのみを述べた。そして不得要領〈フトクヨウリョウ〉に、日本に帰還したに過ぎない。然かも、その英語演説は、「半分しか分らない」と、英人から、日本人に報告されている。松岡は、この事実を偽り、「連盟脱退は、自分が行つたのである」と後には、宣伝していた。私は、その虚偽に対して、松岡に、一書を送つて、その欺瞞を非難してやつたものであつた。松岡を用いたのは、荒木〔貞夫〕始め軍人であつた が、人物を見る明〈メイ〉を有していなかつた。当時の軍部は以前の軍人に比べれば軽率であつた。近衛の如きは、松岡を外相に取り立てたが、その松岡のために、苦しめられていたのである。近衛も、不明の人であつた。日本の失敗は、首相外相に、人物を得なかつたことが、大きな原因であつた。
三国同盟条約は不備の条約であった。日ソ中立条約は、その不備を、独逸の意思に反して塡め合したものであった。
 この二条約は、ボロ布のようなものであつた。誠に価値のないものであつた。それであるから、それは日本のために全く役に立たなかつた。二条約共に、無効となつた。一は、独逸が破り、他はソレンが、破り棄てたのである。破られるような拙劣な条約であつたのである。「ソレンは、中立を破つた」と、攻撃する日本人が、幾多いる。併しそれは、外交を知らない村夫子〈ソンプウシ〉の怨言と評せらるべきものである。

 文中で蜷川は、当時、雑誌に「独逸に依存するの危険」を論じたとし、「その論文を、別に再録して、私の言に偽りのないことの証明とする」と述べている。その論文「独逸依存の言説の非理」(一九四〇年二月)は、『興亡五十年の内幕』の「三国同盟の排斥」の章に、全文が引用されている。明日以降、この「三国同盟の排斥」の章を紹介する予定である。

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