◎東条英機、「反省の弁」を述べる(1945・2・16)
牧野邦昭氏の『経済学者たちの日米開戦』(新潮選書、二〇一八年五月)を読んでいたところ、その一七二ページに、東条英機が、一九四五年(昭和二〇)二月一六日に述べたという「反省の弁」が引用されていた。同日、東条の私宅を訪ねた参謀本部戦争指導班長・種村佐孝(たねむら・すけたか)に対して述べたもので、出典は、種村佐孝『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社、一九五二)である。
まず、『経済学者たちの日米開戦』にある文面を、そのまま紹介しよう。
開戦の可否に関しては、今でも日本はあれより外に進む途がなかったと信じている。しかしその後の戦争指導に関しては大いに反省しなければならぬ点が多い。私は開戦前わが海軍の実力に関する判断を誤った。しかも緒戦後海軍に引きずられてしまった。一方わが攻勢の終末を誤った。緒戦後のわが攻勢は印度洋に方向を採るべきであった。また石油に関する観察も誤った。日満支の燃料施設を、全部南方に送ってしまったのは誤りであった。更に独ソ戦の推移に関する判断を誤った。独ソ和平斡旋のチャンスもあったのに惜しいことをした。三国同盟の功罪は今日自分からは何ともいえぬが、単独不講和の条約は帝国の戦争終末施策を束縛したことは事実である[。]
東条のこの「反省の弁」について、牧野邦昭氏は、次のようなコメントを付している。
ただ戦略というのは実行できなければ意味が無く、結論から言えば、そうした常識的な戦略を効果的に実施することは様々な理由で困難であった。そして根本的には、そもそも戦略で解決できる問題ではなかったのである。
この牧野氏のコメントに私は、物足りないものを感じた。東条の「反省の弁」のうち、最も注目すべきは、「三国同盟の功罪は今日自分からは何ともいえぬが、……」という部分ではないのか。東条はここで、歯切れの悪い形ながら、「三国同盟」という戦略に誤りがあったことを認めている。
牧野氏は、「常識的な戦略を効果的に実施」できなかったことに問題を見出しているが、問題の本質は、そこではない。「戦略」が実施できなかったことに問題があったのではなく、「戦略」そのものに誤りがあったのである。ドイツと結んで、英米に対抗するという「戦略」そのものに、あるいは、三国同盟という「戦略」そのものに。東条は、一九四五年二月の時点で、ようやく、そのことに気づいたのではないだろうか。【この話、続く】