◎中山太郎、宮城電気鉄道で松島遊園地へ
土俗学者の中山太郎(一八七六~一九四七)は、「旅行嫌ひ」を自称していた。その中山が、珍しく遠路、宮城県石巻まで旅行したことがある。そのときの見聞を記した文章を見つけたので、紹介してみたい。タイトルは「松島から石の巻へ」、出典は『旅と伝説』第二年第九号(一九二九年九月号)である。
松島から石の巻へ
――電車の窓から見た伝説の研究―― 中 山 太 郎
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石ノ巻に嫁してゐる妹を、一度、訪ねて見たいとは私の長い間の宿題であつた。然しながら性来の旅行嫌ひ、それに毎日執筆に趁はれて〈オワレテ〉ゐる身とて、その宿題かいつ解決されるのか、自分ながらも見当さへ付かぬ有様であつた。それが不図した機縁から急に出懸ける事となり、上野駅を発したのは酷暑に喘ぐ〈アエグ〉七月三十日の夜行列車であつた。寝苦しい半夜を将棋で明かし、一ノ関に着いたのは翌朝の九時半であつた。
藤氏三代の栄華を偲ぶ中尊寺の堂塔は、余りにも荒廃してゐて、芭蕉の「夏草やつはものどもの夢の跡」の一句に総てを尽し、五月雨の降り残したと詠んだ光り堂も、今では徒ら〈イタズラ〉に廃墟気分を雑草の莠るにまかせ、遊ぶ吟客の涙をそゝる何物も存してゐぬほどであつた。私は同行の友人の都合でその日に仙台へ戻り、車中の苦熱を旗亭〔酒場〕で洗ひ、その夜に仙台から松島へ赴いたのである。
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松島は私にとつて三度目の馴染〈ナジミ〉である。汽車で往つたこともあるし、汽船で往つたこともあるが、今度は近く開通した宮城電気鉄道(昨年〔一九一八〕十一月に仙台から石ノ巻まで開通)に由ることゝした。私は起点である仙台駅に着いて先づ驚いたのは其処が地下鉄になつてゐることであつた。地下鉄と云へば全国に東京の下谷〈シヤヤ〉浅草間より外には無いものと思つてゐた私は、宮城電鉄の此の実際を見て自分ながら見聞の狭いのに恥ぢざるを得なかつた。然もその地下鉄の上には省線十六条が敷設されてゐると聞いて、益々その工事の大規模であることが考へさせられた。
電車の乗り心地も頗る〈スコブル〉良かつたが、それにも増して嬉しかつたのは宮城野【みやぎの】の原を吹きまくつて来る涼風が、車窓を動かしながら酔顔をかすめて行く気持であつた。駅夫が「原ノ町」と呼ぶ声に窓外を見ると、鼻の先に名勝標が立つてゐる。読むと「乳銀杏〈チチイチョウ〉」、「比丘尼塚〈ビクニヅカ〉」、「蒙古碑」などとあつた。電車の軋【きし】り出すと共に私の脳裏は是等の名勝の事蹟を追ふて、忽ち伝説の国を描き出さずには置かなかつた。銀杏が乳授けの霊樹として全国的に民間信仰を集めてゐることは言ふまでもないが、その信仰の起原が此の樹の特徴として乳汁の如き樹脂を分泌することに由るのも又説明するまでもない。たゞ問題として考へて見なければならぬことは、人間が非類の樹木に同情悲願を求めたその心の動きである。これは従来の説明によると、万有精霊【アニミズム】時代の樹木にも人間と同じやうな霊魂があると信じたゝめであると云はれてゐるが、これはかく民族心理学的に考へるよりは、更に宗教学的に同じやうな事象は同じやうな結果を生むと云ふ、一種の交感咒術的の思想から見る方が適切のやうである。即ち銀杏が乳汁に似たものを分泌するから、これに祈つたら人間にも乳汁を授けてくれるだらうと考へた結果と思ふこそ、却つて古代人の心持をよく説明するものではあるまいか。明治落語界の大先輩であつた三遊亭円朝の創作した「怪談乳房の榎」といふ人情話は、よく此の機微を捉へたものだと信じてゐる。
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比丘尼塚は平将門の娘が十六歳で得道し、甘酒を売つた故地だと俚伝に残つてゐる。元より伝説のことであろから深く言ふ必要もないが、将門の娘があつたか否かそれも怪しいもので、然もその娘が剃髪したか否かは更に眉唾〈マユツバ〉の話である。私の知つてゐるところでは将門の娘が遊女となつたといふ伝説もあるが、これとても信用することは出来ぬ話である。それよりは民間伝承学の立場から見れば、将門の娘云々といふ実際は古く関東北にも居つた唱門師〈ショウモンジ〉と称す念仏聖【ねんぶつひぢり】の徒と解する方が学問的である。私の生れた下野〈シモツケ〉には将門の子孫とか未裔とか云ふ家筋が各地に存してゐるが、然もその職業を尋ねて見ると殆ど言ひ合せたやうに巫覡〈フゲキ〉か山伏であつて、遠く唱門師が土着したことを偲ばせるものが多い。将門の娘とあるのも此の唱門師の血を承けた者と見るべきであらうと考へてゐる。たゞ私の此の考への欠点は、将門をシヤウモンと音読したことがあるか否かの一事であるが、これも私に言はせると左迄〈さまで〉に大きい問題だとは考へられぬ。比叡山で将門調伏〈チョウブク〉の祈祷をしたところを今に将門堂と呼んでゐることを知れば、此の欠点は容易に救はれることゝ思ふ。【以下略】
中山太郎には、難字を用いて読者を悩ませるヘキがあった。この文章にも、「莠る」という難字が出てくる。「しげる」と読むのだろうか。
さて、仙台に着いた中山は、宮城電気鉄道の仙台駅が「地下鉄」になっていたことに驚いた。ウィキペディア「宮城電気鉄道」によれば、宮城電気鉄道の開業は、一九二五年(大正一四)六月五日で、仙台駅(地下駅)から数百メートルは地下鉄区間であった。東京地下鉄道が「浅草駅―上野駅」間で開業したのは、一九二七年(昭和二)一二月三〇日であって、日本最初の「地下鉄」は、「宮城電気鉄道」ということになる。
中山は、仙台駅から宮電石巻駅まで、宮城電気鉄道の全線に乗ったようだが、同鉄道とその周辺についての語りは、とても「紀行文」とは呼べない。日時は記載なし、下車駅も記載なし、見学場所も判然としないからである。ただ、このあとの記述によって、松島遊園地駅で下車して松島遊園地に赴き、そこで高村光雲作の聖観世音像を拝したことだけは確かである。
「松島から石の巻へ」というタイトルだけを見ると、いかにも紀行文風だが、それにだまされてはいけない。サブタイトルは、「電車の窓から見た伝説の研究」となっている。陸前原ノ町駅に停車中、窓から「名勝標」を見た中山は、そこから話を「乳銀杏」や「比丘尼塚」に持ってゆく。まさしく、「電車の窓から見た伝説の研究」である。
ちなみに、この文章の末尾には、「宮電社長山本豊次」への謝辞がある。この旅行は、宮城電気鉄道社長・山本豊次からの「ご招待」だったのではなかろうか。だからこそ、「旅行嫌ひ」の中山太郎も、重い腰を上げたのではなかったか。