礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国が二つ出来るようなことじゃあ困る(西園寺公望)

2021-10-20 01:36:15 | コラムと名言

◎国が二つ出来るようなことじゃあ困る(西園寺公望)

 渡辺俊一氏の論文「近衛文麿と国体主義」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。なお、この論文は、渡辺氏の著書(論文集)『福沢諭吉の予言――文明主義対国体主義』(東京図書出版、二〇一六年四月)の一部である。

 それでも、近衛はあくまでも自分の非を認めずに、同盟反対論を感悄論と言い募る。主観主義の対外硬論者は、客観的な事実によって体験から学ぶことが出来ずに、破滅するまで同じ事を繰り返す。弱腰では相手に嘗められる、強く出れば相手は折れてくると考えて、蒋介石を「相手とせず」と声明して、日中戦争を泥沼化し、日の出の勢いに見えたドイツと結んで米国を脅すつもりで、米国との自滅的戦争を不可避のものとした。それでも、近衛は、同盟反対論者の日米開戦の原因は三国同盟であるという主張は、「法理に反し又事実に反する。」(下p171)とさえ主張している。
 しかし「事実」は、「三国同盟に対する米英側の反撥は、極めて強いものであった」(下p173)と伝記は次のように伝える。
「同盟成立するや否や、米国は、即座に重要物資の禁輸強化を以て酬い、十月にはカナダは銅の、印度は屑鉄、屑銅の対日禁輸を行った。(中略)十月八日には英国はビルマ・ルートの再開を通告し、チャーチル首相はその日、日本攻撃の演説を行った。(中略)十二日ルーズヴェルト大統領は
《欧洲及びアジアに於ける独裁国家が、如何に協力しても、米国が背水の陣を布いて抵抗し、自由なる国民のため米国が最後まで援助を与えることを阻止することはできない。米国は、西半球の海岸に侵略者が近ずくのを喰い止める国家に、あくまで援助を続ける。我々の方向は既に明白で、政策は既に決定されている。我々は妥協政策を排斥する。それは独裁国家を援ける最大の武力だからだ》
と叫んだ」(下p174)
 この様に考えているルーズベルトが、たとえ昭和十六年〔一九四一〕に近衛との首脳会談が実現しても、妥協に転じる可能性はなかった。英米の首脳も国民も、三国同盟をもって日本が公然と敵のファシズム陣営に加わり、戦争は不可避となったと見ていた。三国同盟締結によって、日本は米国との衝突の道を下り始めた。
 第二次近衛内閣の外交方面の主役は、三国同盟締結を主導した外相の松岡洋右であった。松岡は外相となって「現在の難局は旧式な宮廷外交で切抜けられるものでないという理由」(下p192)で、松岡旋風と呼ばれる出先外交官の大異動を実行した。古い経歴のある外交官を大量に更迭して、その後任に軍人などの素人を任命した。在外外交官は本国政府の目となり耳となる情報源としての重要な役割がある。重光葵は英国大使として、ドイツ軍の英国本土上陸は不可能で英国は不敗と、正確な欧州情報を本国に送り続けていた。経験も知識もある専門の外交官を辞めさせ、軍人などを任命した結果は、日本の国際情報収集能力に大き な損害を与えた。軍人出身のドイツの大島〔浩〕大使やソ連の建川〔美次〕大使は、独ソ戦争で一方的にドイツ有利の報告を本国に送り続け、日本の国際情勢の分析や判断を大きく狂わせることになった。この自ら目を潰すような松岡の人事は、対外盲である対外硬の本質を示すものである。この人事には近衛も賛成であり、国民はそのような松岡の外交政策に喝采した。国際連盟脱退の主役である松岡を英雄のように迎えた日本人は、三国同盟を熱狂的に支持した。松岡は当時の日本を風靡した対外硬の気風を象徴する存在であった。
 この様に近衛内閣が三国同盟を締結し、国内では戦時体制の強化を進めている昭和十五年〔一九四〇〕の末に、宮中における文明主義の支柱で国体主義の侵潤への防壁となっていた西園寺〔公望〕と湯浅〔倉平〕が、十一月と十二月に相次いで死去した。この二人はともに松岡〔洋右〕に強い警戒感を抱いていた。日本における国体主義の全面勝利と文明主義の滅亡を象徴するような二人の死であった。西園寺が病気になってから、侍医の勝沼〔精蔵〕博士は、「自分は何十年か公爵に附いてゐるけれども、病気になられて、国事について自分にまでいろんなことを言はれたのは、今度が初めてだ。どうも内外の政情に対する心配が、非常に公爵の身体に利いてゐるやうだ。『どうも新体制とか言つて、国が二つ出来るやうなことぢやあ困る』とか、『外交もどうもこれぢやあ困る』とか、いろんなことを独りで言つてをられた。」と言っていた。近衛の内外の革新政策に対する憂慮が西園寺を殺したと言っても過言ではない。

 以上、二三二ページ上段から二三三ページ下段まで引用した。
 文中、「伝記は次のように伝える」とあるが、この伝記とは、矢部貞治『近衛文麿 上・下』(弘文堂、一九五二)を指す。
 また文中、勝沼精蔵の言葉が引用されているが、『福沢諭吉の予言』の巻末にある「註」によれば、その典拠は『西園寺公と政局 八』三九六ページ(引用者は未確認)。

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