◎片山病(日本住血吸虫病)と漆船の伝説
先月、『旅と伝説』のバックナンバーをめくっていたところ、「NM生」という署名のある文章が目にとまった。『旅と伝説』第二年五月号(一九二九年五月)に載っている「漆船と片山病との話」である。
片山病(日本住血吸虫病)に関する研究は多い。かつて、『病いと癒しの民俗学』(批評社、二〇〇六)を編んだとき、可能な限り、片山病関係の文献に当たったが、このNM生の文章には気づかなかった。また、このNM生の文章を紹介している文献にも出会わなかったと記憶する。
さっそく、引用してみよう。
漆船と片山病との話 N M 生
山陽線を福山駅で降りて、両備線に乗り換へ、玩具〈オモチャ〉のような軽便鉄道〈ケイベンテツドウ〉で、ガタガタと三十分ばかしもゆられると、横尾駅に着く。そして横尾駅を出て間もなく小さな川を左にして、一寸〈チョット〉した平野の中へ汽車は進んで行く。此の時、平野の中に周囲十町〈ジッチョウ〉ばかしもあらうかと思はれる丘が丁度島のように崛起〈クッキ〉してゐるのを見る。これこそ日本の医学界で有名な地方病の発生地片山である。
此の地方は地質学上から云へば、大古は穴の海と称せられて、瀬戸内海の一部であつたことは事実らしく、此処から西北方数里をへだてた即ち海からは六七里も離れた山地の岩上 に数年前迄蠣【かき】の殻の附着してゐたことによつても証せられるのである。処で芦田川と高屋川との二川が日となく夜となく中国山脈から押し流した土砂は何時の間にか此の片山地方をも埋め尽して今や川口から七八里もの上流にして了つたらしいのである。従つて周囲十町足らずの片山は太古島か又は暗礁を形成してゐたことは一見その地勢からしても想像がつくのである。
扨て〈サテ〉、年代は何時〈イツ〉の事か不明であるが、此の地方がまだ穴の海と称せられてゐた頃、一艘の漆を積んだ舟が此の地方を航海してゐた時、突風の為めかそれとも暗礁に乗り上げたものか、此の片山附近で難船したのである。しかし、そこは前にも云つたようにやがて高屋川と芦田川とから押流した土砂によつて陸地となり、立派な水田となつて了つた。だがどうしたことか此の漆は余程沢山あつたと見え、その附近の水田に一度足を入れた者をことごとくかぶらすのである。いやそれだけならよいのであるが、一度かぶれると、漆船と運命を供にした船頭の悪霊が祟る〈タタル〉のか、その者はやがて顔色蒼白に変じ、腹がふくれ出して所謂腸満【ちやうまん】と同一症状を呈して来るのである。かくて一年もすると体質の弱い者なら大概はあの世へと旅立たねばならなくなるのである。以上は人間だけの話であるが、此の片山附近の水田に働く牛馬までが同じ運命をたどらねばならないと云ふのだから、漆の祟〈タタリ〉もなまやさしいものではないのである。で、此の片山の山麓に十数軒の農家が昔からあるが、徴兵制度開けて〈ヒラケ〉以来徴兵に合格した者はたつた一人しかないと云ふのを見てもどんなものかゞ想像されるのである。
だが、明治になつて科学の進歩は決してこうした伝説をそのまゝ継承するわけには行かない。全国の学者は此の不思議な謎を解く為めに、此の病気を片山病と命名して、数年の研究を続けた。その結果、一種の寄生虫から起る病気とだけは明瞭になつたが、その寄生虫の生態に就いては容易に判明するまでにいたらなかつた。某博士の如きは猿その他の動物試験をやつたのみで満足出来ず、自分自身の身体を実験台にして、一切口から入れる物を煮沸した後飲食するようにして、毎日片山地方の水田内を素足で歩いて見たりしたのであつた。その結果、遂に自からも足の皮膚がかぶれてやがて片山病になつたといふ美談めいた話もあつた。兎に角〈トニカク〉、こうして十年近い研究の後、遂に彼の有名な宮入慶之助【みやいりけいのすけ】博士は、片山病の病原虫がその地方の俗称ニナ(学名宮入貝〈ミヤイリガイ〉)と称する田にし〔田螺〕にしてずつと小さく、そして細長い淡水産の貝を中間宿主〈チュウカンシュクシュ〉とし、皮膺を通して人間に寄生するといふことを発見したのである。
そこで永年の伝説は科学の光の下に曝露はされたが、如何にして此病原虫を駆除するかと云ふ事は仲々発見されなかつた。或る時には水田に石灰を播いたこともあつたが、此の 中間宿主たる貝を絶滅することは仲々容易のことでなかつた。しかし、科学の研究は蛍の幼虫が此の貝を食物としてゐることを発見するにいたつて、此の地方では数年前から蛍の捕獲を禁止すると共に、積極的に繁殖させようとしてゐるのである。その結果か同地方には近年源氏蛍が非常に繁殖し、今や蛍の名所にならうとしてゐる。
因み〈チナミ〉に此の片山を左に見て汽車が次に停車するのが神辺〈カンナベ〉駅である。此処は産業的には備後木綿〈ビンゴモメン〉の産地として知られてゐると同時に、頼山陽の師であつた幕末の有名な学者菅茶山〈カン・チャザン〉先生の塾を起されてゐた所で有名である。
筆者のNM生については未詳。文中、「片山地方の水田内を素足で」歩いた某博士というのは、京都帝大の松浦有志太郎(うしたろう)教授のことであろう。教授は、一九〇七年(明治四〇)に、この「感染実験」をおこない、一九〇九年(明治四二)の病理学会で、その実験結果を発表したという。
鉄道関係について、若干、コメントする。このとき、筆者のNM生が乗った「軽便鉄道」の名称は、「両備鉄道」である。ウィキペディア「福塩線(ふくえんせん)の項によれば、福塩線の前身「両備軽便鉄道」が開業したのが、一九一四年(大正三)七月、その後、一九二六年(大正一五)六月に、「両備鉄道」に改称されたという。
同じく「福塩線」の項によれば、一九三〇年(昭和五)一一月一四日に、昭和天皇による陸軍大演習統監があり、このため、両備鉄道「道上(みちのうえ)駅―万能倉(まなぐら)駅」間に、この日のみ、正戸山(しょうとやま)臨時乗降場が開設された。そして、「両備福山駅―正戸山駅」間をお召し列車が走ったが、これは、軽便鉄道としては史上唯一の「軽便用御料車」だったという。【この話、続く】