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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明治末期に足尾銅山まで徒歩旅行

2021-10-14 00:11:33 | コラムと名言

◎明治末期に足尾銅山まで徒歩旅行

『旅と伝説』の第七年八月号(一九三四年八月)に、「夏の旅の思出」文章が載っていた。筆者は尾崎斯水魚。「斯水魚」は、たぶん、「しすいぎょ」と読むのであろう。どういう人物かは知らない。
「夏の旅の思出」は、「通じぬ村名(足尾の旅)」、「清水の誘惑(伊吹登山)」、「法度の理由(南湘の旅)」の三話からなっているが、特に、第一話が面白かった。そこには、筆者とその友人が、明治三九年(一九〇六)に、徒歩で足尾銅山まで旅行したときの思い出が綴られている。さっそく、引用してみよう。

 夏の旅の思出  尾崎斯水魚

   通じぬ村名(足尾の旅)
 話は旧い〈フルイ〉ことになるが、足尾銅山に争議大暴動があつた後の間もない明治三十九年〔一九〇六〕、僕がまだ書生の頃だつたのである。書生友だちのF―が群馬の前橋に居るので夏の休暇を「居候」と出かけた。すると又F―の従弟S―が足尾通洞〈ツウドウ〉に居るので彼を訪ねて足尾銅山の見学をさせて貰をうと云ふことで、真夏の一日、僕とF―との二人は草鞋〈ワラジ〉ばきで出かけたものだ。兎も角、前橋から 伊勢崎、国定〈クニサダ〉、桐生と、鉄道に乗つて、結局、大間々〈オオママ〉の町迄は鉄道で出た。それから通洞、足尾へは山道を歩くことにした。今では間藤〈マトウ〉まで「足尾線」が通じてゐるが、略ぼ〈ホボ〉あのコースなのである。恰度〈チョウド〉小一日の旅で、F―君も旅好なのと、まだ初めてだと言ふので、こゝを歩くことにしたのである。二人の草鞋はその為であつたのだ。道はかなり淋しい山道だ。馬の脊のような山々が右と左に近く迫つて、白い真夏の入道雲がのぞいてるところなぞは如何にも夏の旅の気分を与へてくれた。畑には桑畑、森には杉の森が多かつた。宿【しゆく】(村)は通洞までに五ツ六ツあるのだが、との間は、くたびれやすい山路のせいか、存外遠いやうだつた。「入道雲に蒼く黒く暗く明るく照る山々の眺め」と云ふまではよかつたのであるが、やがて午後の二時三時頃からは、文字通りの「一天俄かにかき曇り」で、甚だ穏かならぬ景色に変つて来たのである! 遂に大粒の雨はバタバタと行く手の白い道を濡らしてゆく。先刻から聞こえてゐた遠雷は頭上に来たつてピカツピカツと目もくらむやうな光を全山に浴びせる! 雷鳴降雨沛然轟然とやつて来た! 見れば道はまだはるかで、家はない。黒い杉の森の尖がつたあたまに引く電光に二人は幾度か震え上りつゝ、「生死の境」を行く気持で、ズブ濡で歩いた。歩いたと云ふより駈けだしてゐた。ふと路傍に発見した茅屋〈ボウオク〉―ほんとの茅屋に、一人の小娘が糸を繰つて〈クッテ〉ゐた。二人は太田道灌をきめて、一時の雨宿を娘に乞ふた。娘は茶も汲んで呉れた。「僕たちは東京のものだが、こんな雷は恐【こ】わくて仕方ないが、土地【こつち】の人たちは平気なものだらうね?」と私が話かけてみた。「いや、そうでねえ、此辺ではよく落ちるだから、もう皆引込むだよ」と云ふので、二度びツくり! 私たちの前途は頗る心細いことになつて来た。そこは花輪の宿【しゆく】を出て間もない地点だつたので、かねて足尾のSから書いて貰つてあつた略図によつて、次の宿場の「神土」までは幾町〈イクチョウ〉位かを尋ねてみた。ところが、この「神土」を「カミツチ」とやつたので、さつばり相手には通じない。ではカミド?ジンド?カンド!何れも一向に通じない。「一体、次の村はどこだ?」と訊ねたら「ゴウド」と云つたので、初めは道でもふみ違へた〈タガエタ〉かと心配した二人はホツとした。それから二人は雨の小止みに又歩き出した。神土【ごうど】を過ぎてから、いよいよ急いで、次の沢入(サワイリ)までは幾らか! と逢ふ人に訊ねたが、これが又前の「神土」の伝で一寸通じない。弱り切つてると「ソウリかね?」と少し頭の光つたのが云つて呉れたので、「ソウリ」と呼ぶ事に気付いた。結局は日暮れて、通洞に着いて、S―家の名入提燈〈ナイリチョウチン〉に迎へられた時は、二人は地獄で仏に逢つた思ひをしたのだつた。
 土地変れば言葉まで変るのは止むを得ないが、凡そ旅をする時は其地方の村落の名は土地なみに知つて置くか、又は相手が目に文字のある連中であつたなら一層【いつそ】、文字を示して話すことだと思つた。「神土」の「ゴウド」はまだしも、「沢入」の「ソウリ」ぢや困らされてしまふ。それも雷雨に気の焦【せ】く旅であつたのだから敵は〈カナワ〉ない!

 最初に、「足尾銅山に争議大暴動があつた後の間もない明治三十九年」とあるが、いわゆる「足尾暴動事件」が起きたのは、一九〇七年(明治四〇)二月である。「明治三十九年」という記憶が間違ってないとすれば、ここは、「足尾銅山に争議大暴動が発生する少し前の明治三十九年」などと訂正されなくてはならない。
 私鉄の「足尾鉄道」、のちの「足尾線」が開業したのは、一九一一年(明治四四)四月一五日である。尾崎とその友人Fが、足尾銅山に赴いたのは、それより五年も前である。
 開業当時の足尾鉄道の営業区間は、「下新田(しもしんでん)連絡所―大間々町(おおまままち)間」であったという(ウィキペディア「わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線」)。
 文中、「大間々の町迄は鉄道で出た」とあるが、これは、両毛線で大間々駅まで出たという意味であろう。両毛線の大間々駅は、一九一一年(明治四四)五月一日に、「岩宿駅」と改称している。すなわち、同年四月一五日に開業した足尾鉄道に「大間々町駅」ができたので、名前を譲ったのである(四月一五日から四月三〇日までの間は、大間々駅と大間々町駅が併存していたことになる)。なお、足尾線「大間々町駅」は、一九一二年(大正元)一二月一日に、「大間々駅」と改称され、今にいたっている。
 参考までに、足尾鉄道(私鉄)は、発足から二年半のちの一九一三年(大正二)一〇月一三日に、国がこれを借り入れ、「足尾線」(桐生―足尾間)と改称した。さらに一九一八年(大正七)六月一日には、国がこれを買収し、国有化した(桐生―間藤間、間藤―足尾本山間〔貨物線〕)。
 また、両毛線は、一九〇六年(明治三九)夏の時点では、日本鉄道(にっぽんてつどう)という私鉄の一路線だった。日本鉄道は、その年の一一月に、国有化されたという(ウィキペディア「日本鉄道」)。

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