礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

新聞の多くは刺戟的記事を載せて軍部に迎合した

2021-10-29 01:28:07 | コラムと名言

◎新聞の多くは刺戟的記事を載せて軍部に迎合した

 重光葵『昭和の動乱 上』(中央公論社、一九五二年三月)から、「三国同盟 その二」の章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

     五
五相会議と三国同盟賛否 五相会議は、開かれるごとに、同様の議論を繰り返して結末はつかず、新聞の多くは、宣伝入りの刺戟的記事、論評を載せて、軍部に迎合した。満洲事変以来、識者は漸次姿を匿し、新聞雑誌は、どれも、これも軍部の意向を迎ふるにただこれ急であつて、軍に対する反抗気勢は弾圧を怖れて、何処にも表面には現れなかつた。かやうな一般情勢にあつたにも拘らず、裏面における反対勢力は、決して弱いものではなかつた。天皇は三国同盟には強く反対され、元老上層部も、また在外使臣も、反対の意見が圧倒的であつ た。五相会議は、数十回にわたつて開かれ、有田〔八郎〕外相は終始よく奮闘し、米内〔光政〕海相はこれを支持して、全面的同盟には強く反対した。
 しかし、五相会議が七十回以上も続けられ、親独運動が激烈となるとともに、政府の態度も、とかく軍に押されがちであつて、平沼首相は、ヒットラーに親交の電報を発したりした。欧洲の形勢の切迫するにつれ、リッペントロップ外相の大島〔浩〕大使に対する交渉促進に関する督促は、甚だ急なるものがあつた。
 日本政府は、ドイツ側の意向をも斟酌〈シンシャク〉して、形式上一般的同盟、即ち締約国の一方が、第三国より挑発なくして攻撃を受くるときは、他の締約国は直ちにこれを援助する義務がある、と云ふ形式の条約に同意するも、その第三国と云ふのは、ソ連に限るとか、または援助の時期方法及び形式は、各締約国自身が独自の見地により決することとしようとか、あるひは条約文の解釈によつて問題を切り抜けんともしたが、ドイツを満足せしむることは出来なかつた。軍中央部は、三国同盟締結に重きを置き、第三国がソ連であらうと、満洲事変以来日本に敵意を示して、現に支那を極力援助してゐる英米であらうと、戦争の場合には、他の締約国に当然軍事上の授助義務を発生せしむべきであつて、最近の支那における情勢から見ても、英米とソ連とを区別して考ふる必要はないとして、戦争と云ふことを極めて軽率に見た意見であつた。交渉の任に当つてゐた大島大使は勿論、白鳥〔敏夫〕大使も、三国同盟成立によつて、英仏は屈服すると云ふドイツの主張に同調した。
 意見が纏らぬ間に、欧洲の形勢は急転して行つた。ドイツは、ミュンヘン〔会談〕後間もなくチェッコを合併し、更にポーランドに侵入するに当つて、三国同盟交渉の主たる対象として、談が始められたそのソ連との間に、不可侵条約を締結してしまつた。英仏はドイツに対して宣戦した。ここにおいて、日独伊三国同盟の交渉は、ベルリンで空中分解をしてしまつた。
 平沼内閣は、欧洲政情は複雑怪奇であると声明し、ドイツに対し、ソ連との不可侵条約締結は、防共協定に違反すると抗議して、退陣するに至つた。欧洲情勢を十分に考慮しなかつた三国同盟の交渉は、これまで木を見て、森を見ないやうなものであつた。爾後欧洲におけるドイツの勝利のみに眩惑されて、世界の情勢を無視した三国同盟論は、森を見て山を見ざるやうなものとなつて行つたのである。
平沼内閣によつて、複雑怪奇とされた欧洲の形勢は、果してどんなものであらうか。

「三国同盟 その二」はここまで。明日は、引き続き、「三国同盟 その三」を紹介する。

今日の名言 2021・10・29

◎欧洲政情は複雑怪奇である

 平沼騏一郎の言葉。三国同盟を推進していた平沼内閣は、平沼首相のこの言葉を残して退陣した。上記コラム参照。

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