礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

近衛公の性格と地位は軍部の利用するところとなった

2021-10-26 02:12:29 | コラムと名言

◎近衛公の性格と地位は軍部の利用するところとなった

 本日以降は、重光葵『昭和の動乱 上』(中央公論社、一九五二年三月)から、「三国同盟 その二」の章を読んでみたい。この章は、同書の第五編「「複雑怪奇」(平沼中間内閣)」に含まれている(二一三~二二〇ページ)。

     三国同盟 その二

       一
板垣陸相 近衛〔文麿〕公が、参謀本部石原〔莞爾〕第一部長等の進言を容れて、杉山〔元〕陸相を排し、満洲事変の中心人物板垣〔征四郎〕中将を内閣に入れたことは、単に支那問題の処理のためばかりでなく、北方派たる参謀本部の勢力を利用して、対支強硬派の拠る陸軍省を押へんと意図したものであつた。しかし、これは不可能なことであつた。板垣新陸相は、単に口ボット的存在であり、中堅将校の計画はそのままに進行し、満洲事変や、日支事変の関係者が、つぎつぎに要路に進出して来た。元来、近衛公は、組閣の当初は、陸軍の宣伝した北方に対する 国防の危機を避けることに腐心し、軍部内の支那派を利用したのであつた。これがために、支那事変が拡大して行つた。今度は、支那派を制するために、北方派を利用し、皇道派の勢力も恢復させて利用せんとした。しかし、この方法により事変の収拾は出来なかつたのみならず、軍部内における個人的勢力の消長はあつたが、軍主流の意図するところは、何等故障なく遂行せられ、近衛公の性格と地位とは全く軍部の逆に利用するところとなつた。
 支那問題を解決することは、参謀本部側の熱心な主張であつたが、さらばと云つて、統帥権を握つてゐる参謀本部に、支那より直ちに撤兵すると云ふ決意はない。支那問題の解決と云つても、結局、対支強硬派をもつて主流となす軍部の解決条件を緩和することは、容易でないのであるから、如何ともすることが出来ない。而して、蒋介石の態度も、ますます硬化する一方であるので、支那戦争はつひに、奥へ奥へと展開した。
 ドイツの仲介による、和平解決は失敗したが、日本のドイツに対する信頼感は支那事変を通じて、米英に対する反感に正比例して昻上して行つた。ドイツは、満洲国を承認し、蒋介石政権に派遣してあつた、有力なる軍事顧問の引揚を断行し、また対支通商の利益をも犠牲にすることを厭はなかつたことは、前に一言したところである。ドイツの対日政策は、満洲事変以来の、日本軍部の取つた大陸政策を是認して、これを支持するにあることが明瞭に観取せられるに至つた。これに反して、英米の政策は、徹頭徹尾日本の政策に反対し、支那を援助して、抗日戦争を継続せしめんとするにあつて、日本の軍事行動に対しては、事ごとに故障を設け、妨害をなすものであると感ぜられた。この際、ドイツ側の日本における反英米の宣伝策動が、如何に有効であつたかは想像の外である。ベルリン及び東京におけるドイツ側との連繋はますます密接となつた。
 日独伊三国軍事提携は、満洲事変以来、軍部の主張するところであつて、皇道派も統制派もこの点には異論なく、又北方派の特に主張するところであつたが、支那派においてもまたその実現に熱心となるに至つた。これが指導推進に当つたのが板垣陸相であつた。【以下、次回】

 以前、近衛文麿の『近衛日記』を読んだことがあるが(共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』共同通信社、一九六八)、「画策」を弄する近衛の言動に、いささか辟易した。『昭和の動乱』のうち、本日、紹介した箇所によれば、近衛は、「支那問題」で、軍部に対して画策をこころみ、結果、それが裏目に出たもようである。重光のいう「近衛公の性格」には、こうした「画策好み」も含まれる、と私は理解した。

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