礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

神社制度調査会と神祇院は、同時に廃止

2022-09-03 00:33:51 | コラムと名言

◎神社制度調査会と神祇院は、同時に廃止

 本日は、「神社制度調査会」について、若干の補足をおこなう。
 ウィキペディア「神社制度調査会」の項を見ると、次のようにある。 

神社制度調査会(じんじゃせいどちょうさかい)は、内務大臣の監督の下に、その諮問に応じて神社制度に関する重要事項を調査審議する諮問機関である。また、神社制度に関する重要事項について関係各大臣に建議を行うことができる。
概要
昭和4年(1929年)12月9日、神社制度調査会官制(昭和4年勅令第347号)が公布され、同日から施行された。
会長は1人、委員は30人以内で組織される。特別の事項を審議する必要があるときは臨時委員を置くことができる。会長は内務大臣の奏請によって勅命し、委員および臨時委員は内務大臣の奏請によって内閣において命じる。会長は会務を総理し、会長に事故のあるときは内務大臣が指名する委員がその職務を代理する。若干名の幹事は内務大臣の奏請によって内閣において命じ、会長の指揮を承け庶務を整理する。若干名の書記は内務大臣が命じ、会長および幹事の指揮を承け庶務に従事する。
昭和4年(1929年)12月17日、第1回総会が開会された。初代会長は山川健次郎、初代特別委員長は江木千之〈エギ・カズユキ〉である。
昭和21年(1946年)2月に、行政整理実施ノ為ニスル内務省官制中改正等ノ件(昭和21年〔1月31日〕勅令第59号)により、神祇院などと共に、廃止された。

 一応のことは記されているが、この調査会が設置された経緯、審議の内容、審議の「成果」などには触れられていない。
 これらについて触れている参考文献のひとつは、すでに紹介した赤松徹真教授の論文〝総戦力下の神仏問題と本願寺派「宗制」〟(『眞宗研究 眞宗連合學會研究紀要』第五二巻、二〇〇八年三月)である。
 さらにもうひとつ、鈴木紀彦氏の論文「神祇院の成立過程の研究」(『明治聖徳記念学会紀要』復刊第五一号、二〇一四年一一月)を挙げておかなくてはならない。この論文は、神社制度調査会における審議と神祇院の成立との関わりについてまとめた労作である(インターネット上で閲覧可)。
 いま、鈴木紀彦論文を詳しく紹介する余裕がないが、神社制度調査会が設置された経緯、審議の「成果」に触れている部分があるので、本日は、それを紹介させていただきたい。

 明治二年の時点では太政官と対を成す「神祇官」の名称で存在していた神社行政であったが、時が経つにつれて名称とともに規模が縮小し、最終的には内務省内の一部局で仏教その他諸宗教と同列に扱われることになった。神仏分離によって幕府時代の仏教への隷属状態から脱出し、神祇官の設置によって祭政一致が実現されることを望んでいた神道人および敬神家、すなわち神官神職、神道学者、帝国議会議員らは、神祇官を復活させるべく長年にわたって運動を行ってきた。神祇院の成立は、五十年以上に渡る運動の精華であったのだ。
 神祇院成立に繋がる流れは、昭和四年に内務省に誕生した「神社制度調査会官制」が根源となっている。全国の神職によって組織された全国神職会は昭和三年に「皇道ニ関スル建議附神祇会議要綱」を発表し、総理、宮内、内務、陸海軍の各大臣にその建議書を提出した。翌四年八月、内務大臣安達謙蔵は「神社制度調査会官制制定の件」を閣議に提出し、十二月十日に「神社制度調査会官制」として成立した。会議は有識者および神道関係者からなる委員と監事で構成され、委員は「学識アルモノ」五人、内閣一人、宮内省二人、内務省五人、大蔵省一人、司法省一人、文部省一人、貴族院議員四人、衆議院議員四人、神官・神職等六人の計三十人が規定された。
 委員構成を見てみると、調査会の性格ゆえに政府側の委員の中では神社局を擁している内務省委員が五人と一番多く、他省の委員は人数の少なさ故に相対的に発言力が弱くなっている。また、実際に選出された委員には全神〔全国神職会〕関係者が多く加わっていることから、実質的には内務省と全神の折衝の場としての性格を帯びていくこととなった。
 翌五年からの本格始動以来、調査会は人事の交代を繰り返しつつ、氏子制度や神祇制度の整備充実、あるいは神職制度、招魂社制度などの諸案件について調査、審議活動を続けた。しかし、神社界の悲願である神祇特別官衙設置問題が議論の俎上に上がるのは、設置から六年も経った昭和十年であった。調査会での議論の結果、政府に対して特別官庁設置の建議が行われるのであるが、そこに至るまでには紆余曲折があったのである

 若干、注釈する。「神社制度調査会官制」の成立を、昭和四年「十二月十日」としているが、ウィキペディア「神社制度調査会」の説明と、一日、ずれている。どちらが正しいかは不明。
 神社界の悲願であった「神祇特別官衙」の設置が、「神祇院」という形で実現したのは、一九四〇年一一月九日のことであった(内務省神社局が昇格、同省の外局として設置)。廃止は、一九四六年(昭和二一)二月(神社制度調査会の廃止と同時)。
 神社制度調査会については、「神社非宗教」をめぐってなされた議論など、なお論じなければならない問題があるが、調べが進んでいないので、しばらく後にまわす。明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2022・9・3(10位の伊藤博文は時節柄か)

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