礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

土肥原機関長は、まず宋哲元に手を差し伸べた

2022-09-07 02:03:56 | コラムと名言

◎土肥原機関長は、まず宋哲元に手を差し伸べた

 専田盛寿の「親日華北政権樹立の夢崩る!――土肥原工作の失敗」という文章を紹介している。本日は、その四回目。

  土肥原、工作に着手す
 前に述べた冀東地区の行政専員は冀東地区(総面積は日本の九州と略々同じ)を東、西の二つに分け二人の専員が置かれていて、一人は唐山に一人は通州に夫々の行政機関を設けていた。その後唐山に居た一人の専員が病死したので、通州に居た専員が東西の両地区を併せて一地区として行政を担当していたのであつて、この専員が殷汝耕〈イン・ジョコウ〉という政治家である。殷汝耕は稲田大学出身の留学生で、彼の夫人は日本人であつた。彼は当時、冀東全地区の行政専員で、行政もやれば、直接冀東保安隊全部の指揮も執るといつた具合だつた。彼は、関東軍から直接いろいろと指導や援助を受けており、この地区には、協定以後は支那正規軍は駐屯しないので、自然彼の勢力は非常に強いものになつていたのである。
 土肥原機関長は、この殷汝耕の勢力に眼を付けたのだ。殷汝耕は、日本の事情に通暁しているし、そのうえ、華北の安泰を心から願つているということがまえまえからよく判つていたから、土肥原機関長は殷汝耕を第一に脱得し得ると確信していた。第二段階は、あとの四人をどうして協調させるかということなのだが、多田軍司令官のような方法はむだなことである。そこで土肥原機関長はこの際思い切つて、この四人のうちの先ず誰かひとりを完全に掌握して、これと冀東を結びつけた勢力で一の新政権を樹立させ、他の勢力は後からでも結びつけて次第に大きな勢力に発展させるという方法がいい方法ではないかという考えに落ちついた。
 そのころ、この四人のうちで、比較的弱体の商震が都合のよい口実を設けて部下軍隊を華北に残したまま南京へ赴き蒋介石には日本の圧迫に堪えられぬといつたような訴えをして、その後遂に華北に復帰しなかつた。従つて残るものは、宋哲元、閻錫山、韓復渠三人になつたのである。この三人は何れも蒋は冀東地区の外様軍隊で、そのうち、宋哲元の勢力範囲を除いた河北省北部と察哈爾〈チャハル〉省だから所謂華北全体からみれば狭い範囲のものであるが、北京、天津という華北政治、経済の大要地を占め、満州国に最も近く、殷汝耕の冀東地区とは一番手を握り易いので土肥原機関長は第一にこの宋哲元に手を差し伸べたのである。あとの閻錫山、韓復渠は宋哲元が起つたあとこれについてくれば、上々であるが、もしついてこなければとりあえずはそれでもいい。とにかく、先ず宋哲元一本の線で、徹底的に新政権樹立工作をやらせようということに、土肥原機関長の腹は決つたのだ。
 そこで、土肥原機関長は、多田軍司令官の意見とは対立しながらも、具体的にこの工作に乗りだそうとしていた。
 土肥原機関長が天津に到着してから十日ほど後(十月二十日頃)に満州の関東軍司令部から、土肥原機関長あてに連絡があつた。それは、土肥原機関長が、華北に到着して以来既に十日も日数がたつているのだが、工作の段階はどうなつたかという催促であることは判り切つたことだつた。土肥原機関長が奉天を出発する前に多田軍司令官から「華北新政権はもうすぐに出来る」という通知が関東軍に届いたことは前に述べたが、関東軍ではこれを「真【ま】」に受けていたのだから土肥原機関長に対するこの催促は当然だつたと云える。
 私〔専田盛寿〕は、すぐに、土肥原機関長の命令で、この華北の現状をつぶさに報告するため、関東軍に連絡にいつた。そして、まえに述べたように宋哲元、閻錫山や韓復渠を全部合同させて一挙に大勢力の華北新政権を樹立させることは到底むりだから、第一段階として先ず殷汝耕とそれに朱哲元の合同一本で新政権工作をやらせようという土肥原機関長の決意を、私は綿密に報告したのだ。
 その結果、関東軍司令部も宋哲元一本の線でまずやつてみる方針に同意したのである。私は、すぐにその返事を持つて、十月の末、土肥原機関長の許に帰つてきた。

  大阪商人の密貿易
 満州事変以来蒋介石のとつた反日抗日政策は益々激しくなり、これは同時に反満抗満でもあつた。
 元来、わが国と支那との間には、れつきとした通商条約があつて、こと通商に関しては確とした規約が存したわけなのだが、いまや蒋介石の反日政策のために、日本の貿易は、関税の点で相当に困らされていた。というのは、蒋介石の方では、じぶん側にどうしても必要なものは規定の関税率で取入れるけれども、あまり必要としないもの、または日本側が売れなくなると困るというようなものにはその関税を思いきり高めて意識的な貿易拒否をしたのだつた。
 そのために、日本商人は支那という顧客を一挙に大部失つてしまうような結果になつた。そのなかで特に困惑したのは大阪商人であつた。彼ら大阪商人たちは、たくさんの商品を大阪から大連に持つてきていたのだが、この蒋の関税攻勢のためにどうにも動けなくなり、北京、天津、上海だけの商品が急にはけ場を失つてしまう形になつてしまつたのだ。これを何んとか処置しなければならない。大阪商人たちは思案投首〈シアンナゲクビ〉の状態だつたのである。
 そんな事情にあったときに、支那の主権外にあるこの冀東地区に、大阪商人たちが眼を付けたのは当然かもしれなかつた。彼らは大連に山積みにしてある商品をどうにかして処理しなければならないドタン場に追いつめられていたので、考えついたのが、密輸という方法だつたのだ。冀東と大連とはその距離も近いことだし、これはもつてこいのことだつたのである。
 やがて、日本商品は、大連と営口〈エイコウ〉から中、小型船舶でどしどしと渤海湾を通つて秦皇島〈シンコウトウ〉付近に運ばれたのだ。これが冀東貿易と呼ばれたものである。有名な渤海湾というのは、その名前こそ荒々しいが、特別の季節風などが吹き荒れない限り、普段はしずかなところなのである。
 さて、この秦皇島一帯(即ち冀東地区)を支配しているのが、まえにも述べた通り、行政専員の殷汝耕という男だつた。殷汝耕はここに運ばれた日本商品を大いに歓迎した。というのは蒋介石の日本品ボイコットであらゆる物資不足に苦しんでいた支那民衆の手に安価で便利で良い日本品が行き渡つたからだ。彼は、ここにきた日本商品に、おどろくほど安い名目上の輸入税(査検料という)を徴収して、どんどんと国内に流しこんだのだ。そのために、ここしばらくのうちに冀東貨易は非常な繁栄ぶりをみせた。そのために当の殷汝耕政権は好個の財源を握つたのである。と同時に、一方日本側の商社も、一息ついたという形であつた。
 こんな関係が、日本と殷汝耕との間をいつか非常に緊密にしたことはいうまでもなかつた。【以下、次回】

 文中、「この三人は何れも蒋は冀東地区の外様軍隊で」というところがあるが、意味がとれない。「蒋は」を、「蒋にとっては」と解釈すると意味が通じるが、その解釈が妥当なのかどうかは不明。

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