◎特務機関長・土肥原賢二と「土肥原工作」
二〇一八年の九月六日のブログに、「いちばん可哀そうなのは土肥原賢二だった」という記事を書いたが、アクセスが多かった。その後も、何回か、土肥原賢二(どいはら・けんじ、一八八三~一九四八)に関する記事を書いたが、いずれもアクセスが多かった。その理由は、よくわからない
土肥原賢二については、通り一遍の知識しか持ち合わせないが、たまたま最近、専田盛寿(せんだ・もりとし、一八九七~一九六一)が書いた「親日華北政権樹立の夢崩る!」という文章を読んだ。筆者は、土肥原特務機関長の補佐官だった人で、土肥原が華北でおこなった工作について、わかりやすい説明をおこなっている。
本日以降、何回かに分けて、この文章を紹介してみたい。出典は、雑誌『別冊知性』第五号「秘められた昭和史」(河出書房、一九五六年一二月)である。
親日華北政権樹立の夢崩る! ――土肥原工作の失敗――
関東軍の野心と、親日政権樹立の重責を
負つた土肥原特務機関長の華々しい活躍
当時土肥原特務機関長補佐官 専 田 盛 寿
ここに謂う土肥原工作というのは昭和十年〔一九三五〕の秋から冬にかけて土肥原奉天特務機関長が関東軍司令官南〔次郎〕大将の命令で北京に赴き多田〔駿〕天津駐屯軍司令官に協力して華北の地に親日親満の政権を樹立した工作だけを指すのであつて土肥原機関長のやつた数多い工作を全部意味するものでない。
【一行アキ】
昭和八年〔一九三三〕早春満州事変の軍事行動が一段落したときには、張学良の軍隊は、万里の長城を越えて華北の地に逃げのびていた。日本軍は満洲と所謂支那本土の国である長城線まで進出したのだが、それより先には進まずにいた。
いったい、北京、天津を南北に結ぶ線と、万里の長城との間の地区がいわゆる冀東〈キトウ〉と呼ばれるのであるが、『冀』というのは河北省の別名で、その『冀』の東の部分というわけであるが、わが軍は前述のように長城線以南及び西には前進することをじつと自重していたのである。ところが、華北の地に踏み止まつた張学良軍は日本軍が長城を越えて進攻してこないとみてとるや、ここに根拠を構え、満洲とは目と鼻の冀東の地区から満州の建国妨害、特に治安攪乱〈コウラン〉のため色々な工作を開始したのである。このため国境に近い地区の満洲側は絶えず少なからぬ迷惑を蒙つた。
そこで、満州国の建国に全面的に協力し、その治安維持に全責任を托されていたわが軍は、ついに治安攪乱の禍根を一掃するため華北の地に進攻することに腹を決め、昭和八年初夏の候、一斉に長城を越えて敵の根拠を覆滅しながら通州、塘沽〈タンクー〉えと押し進んだ。そして、いまや、北京、天津も指呼の間に望むという段階にたつた矢先、北京、天津を占領されては一大事と見た敵が俄に〈ニワカニ〉態度を変えて和を請うに至り、七月初旬塘沽で、いわゆる塘沽協定なるものができあがつた。支那側は日本軍に北京、天津まで進攻されては大いに困る、そこで、この協定を結んだわけなのだが、この協定の一項目で、この冀東地区(丁度日本軍が進攻した地区の全部に当る)へは支那側の正規の軍隊を駐屯させないという約束ができあがつた。そして、この地区の治安を保つために、警察と軍隊との合の子〈アイノコ〉のような形でできている保安隊が、この地区の治安を推持し、冀東地区の行政は河北省長から分離した特別の行政専員を置いて保安隊もこの専員に指揮させるということになつた。
これが昭和八年の春から夏へかけての出来事であつた。
さて、正規軍が冀東地区から退き、保安隊でここの治安を保つようになつて以来、満洲の辺境も漸く平静になり、しばらくはこの状態がつづいたのだ。【以下、次回】
ウィキペディアによれば、特務機関とは、「日本軍の特殊軍事組織をいい、諜報・宣撫工作・対反乱作戦・秘密作戦などを占領地域、作戦地域で行っていた機関」をいう。土肥原が機関長を務めていた特務機関は、関東軍に所属しており、「奉天特務機関」、「土肥原特務機関」、「土肥原機関」などと呼ばれていたようだが、正式な名称は不明。