礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山田孝雄博士の『古事記講話』(1944)を読む

2022-09-14 00:35:09 | コラムと名言

◎山田孝雄博士の『古事記講話』(1944)を読む

 先日、深い考えなしに、山田孝雄著『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を手に取った。この本は、一九四一年(昭和一六)から翌年にかけて、大阪府の依頼で山田孝雄がおこなった講演の速記録をもとにしているという。
 読んでみると、文字通り講演調である。また、しばしば話が脱線している。いかにも、講演を、そのまま再現しているふうであった。
 この本(この講演)で最も興味深かったのは、「脱線している部分」であった。本日以降、同書を、その「脱線している部分」を中心として紹介してゆきたいと思う。本日、紹介するのは、「第一 古典の意義」の一部。

 余談でありますけれども、是は実は余談でない。ことに触れ、折に触れて私は御参考になることを申上げて置く方が良いかと思ふのであります。昭和十二年〔一九三七〕年の夏か、十三年の夏であつたと思ひますが、文部省で高等学校の教授要綱を改正した時のことでありますが、其の教授要綱を改正したことに付て、協議会と云ふ名前で一種の講習会を文部省で開いたことがあります。其の時の国語漢文科の協議会の時、漢文の方の人と国語の方の人が出て協議会を開いたことがあつたのであります。其の最後の日に国語担当の高校の先生方に当時の或る大学教授の漢文の方の先生が講演をした時に、少し強いことを言はれたらしいのであります。私は、始めの日は他所〈ヨソ〉へ何か文部省の用事で行つて居りまして其の話は私は知らないのであります。二日目と三日目と私は出たのであります。其の席上で漢文の先生と国語の先生が喧嘩でもしさうな大議論を初めてしまつたのであります。納まりが着かない。さうして漢文の先生に国語の先生の中の或る人々が喰つてかかつて居る。どつちもどつちである。我々委員の仲間の先生も少しは言ひ過ぎたのである。国語の方の先生も言ひ過ぎたのであつて、両方で煽動したやうな形になつて居る。是が別々になつて居ればそれはそれで済んだのでありますが、一緒になつてしまつたものだから、そこで議論が沸騰したのであります。――それですから私が立つて斯う云ふことを言つた。「御承知の通り私は国語を専門にやつて居る。さうして漢文は大嫌ひなんだ。併しながら今我が国語教育から漢文を除いてしまつたら国語はどうなるか。大嫌ひな僕が之を重要だと認めるのだ。今我々はそんなことを言つて争ふべき時ではない。国文の為に漢文の教育は極めて重要であつて、今現在の状態に於て漢文を排斥したら、国語の教育はどうなるのだ。大嫌ひだけれども、賛成だ」と云ふ演説をして、それで納まつたのであります。今も其のことを申上げて見る。今古典を研究するとか、或は古事記を重要視するとか申しますと、極端に走りまして漢文排斥、漢語排斥などを致しますとする。若しさうなれば古典と云ふ言葉はそれ自体がもう分りはしませぬ、古典の本義と云ふものが分らない、我々が古典と云ふ言葉を使つて居る以上は漢文、漢語の古典と云ふ意味を応用して居るのであります。〈六~八ページ〉

 山田孝雄(やまだ・よしお、一八七三~一九五八)は、国語学者、国文学者、文学博士。『古事記講話』刊行時は、神宮皇學館大學長、文部省教学局神祇院参与。

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