◎アウグストゥスは「現に生ける神なる皇帝」を意味した
松木治三郎の『新約聖書に於ける宗教と政治』(新教出版社、一九四八)を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
かくてユリウス・カエサルはその死後、後継者オクタヴィヤヌスによつて神ユリウス(Divo Juliuo)として祭られた(前四四年)。更に元老院は神ユリウスの祭を法律をもつて決定した(前四三年)。しかしそこには尚未だ生けるカエサルは礼拝されてゐなかつた。が諸民族は征服せられ領土は拡大せられ、しかもオクタヴィヤヌスの治世よろしきを得て何処も所謂「ロマの平和」である。そこには武力によらず精神的に帝国を統一すべき、国民の忠誠を生命づける具体的対象が必要であつたらう。ここにまづロマそのものを神化する「女神ロマ」(Dea Roma)の観念が現はれた。ロマ市民と属州民とは国家の神聖なる力〈チカラ〉ゲニウスを「女神ロマ」に於いて礼拝したのである。しかしこれは所詮抽象的で人為的観念である事はまぬがれない。そこで皇帝の人格が忠誠の具体的対象として現はれて来たのである。勿論そこには「ロマの平和」の創設者としてあらゆる点で偉大なオクタヴィヤヌスの、個人的人格と徳と功とに対する尊敬と讃美とがあつた。しかしかかる要求は、始めロマ本国に於いてではなく地方の属州に於いて起つた。本来のロマ市民には往時の共和的民主的精神が残つてゐる。先述せし如く皇帝は第一市民であり、最高官吏である。そこから東洋的絶対君主に至るには尚相当の距離がある。しかし属州に於いては事情が異つてゐる。特に東方地方に於いては現に生ける皇帝を神と崇めることは伝統的精神であつた。本国を遠く離れてゐただけにそのロマ中心の愛国心は具体的対象を切に要望したであらう。かくてかの地からオクタヴィヤヌスを眺める眼には彼が「平和の神」、「人類の救主〈スクイヌシ〉」として映じたであらう。遂に東方の小アジヤは皇帝の神殿を建立したいとオクタヴィヤヌスに出願した。しかしロマ人たる彼は神として崇められ礼拝されることに躊躇を感じた。彼は決して阿諛を好まなかつた。しかし、彼は賢明なる政治家である。ロマ人の性格を熟知してゐると共に、その広い領土を統治する為にはそれぞれ土地の事情に応じた政策が必要である事を知つてゐた。かくて彼は小アジヤからの要望に答へた(前二九年)。が、彼は属州に於いてロマ市民が「女神ロマ」の礼拝に彼アウグストゥス皇帝の礼拝を加へてよいといふ彼の特別な恵みとして許可したのである。この答へは非常に歓迎せられた。「アウグストゥス」或ひは「口マとアウグストゥス」の礼拝はまれたく間に州より州に伝はり、小アジヤよりすべての属州にひろまり、遂にスペインにまで達したのである。がイタリヤ本国とロマ市内にはこれが要求はされず、計画もされなかつた。しかし彼の死後アクグストゥス第一世――神なるアウグストゥス(divus Augusus)の為に特別な礼拝が法律として元老院を通過し(紀元後一四年)、彼の為に各地に多くの神殿が建立せられた。更に「ロマのアクグストゥス」のアウグストゥス即ちギリシヤ語のセバストス(Σεβαστοζ)は、常に「現に生ける神なる皇帝」を意味した。かくてやうやく皇帝礼拝が盛んになり、半ば気狂へるカリグラ、又はネロが自らこれを要求した。特にドミティヤヌスは自ら「主にして神」(Dominus et Deus)と称し、スエトニウスによれば彼が一度離婚した妻を復縁した時「彼女は神々の位に呼びもどされた」と云つたといふ。さうして人々に「主にして神」と録する事を求め、彼を祀る神殿を建立せしめ、その像の前で犠牲を供へしめ、これに服しない者は反逆罪として処罰した。そこには政治と宗教との混同が見うけられる。しかし何れ〈イズレ〉かと云へばロマの皇帝礼拝は政策的の意義が本旨であつた。それは忠誠や愛国心の熱烈な表現であつて、特別に宗教的教義的信仰に依存するものではなかつた。随つてイシス、ミトラの信徒、ガルデンやホルクの懐疑的な弟子達は、ロマの官令による祭や礼拝を無視し、ロマの神々を心では少しも信じてゐなかつたのに、唯これを激しく惜んだり拒絶したりはしなかつたといふ丈〈ダケ〉で、大きな迫害は受けずにすんだのである。がこの皇帝礼拝を偶像崇拝の恐るべき罪として拒絶したものがある。それはユダヤ教徒と原始キリスト教徒とであつた。
文中、「かくて彼は小アジヤからの要望に答へた(前二九年)。が、彼は」というところがあるが、原文のまま。ここは、途中の句点(マル)を削らないと、意味が通らない。
今回、紹介したのは古代ローマ帝国の話だったが、戦前・戦中の大日本帝国の話ではないのか、と思えるところがある。もちろん著者も、それを念頭に置きながら論じているのであろう。