礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

関東軍が北支那駐屯軍に土肥原機関長を貸す

2022-09-06 00:47:48 | コラムと名言

◎関東軍が北支那駐屯軍に土肥原機関長を貸す

 専田盛寿の「親日華北政権樹立の夢崩る!――土肥原工作の失敗」という文章を紹介している。本日は、その三回目。

  土肥原、天津に派遣
 まえに述べたように、塘沽協定によつて治安維持のために保安隊だけが駐屯することに協定されて居る冀東地区はその保安隊の内面指導という形で、関東軍が山海関〈サンカイカン〉に設けた特務機関が直接に全般の指導援助を実施して居た。これは昭和八年〔一九三三〕関東軍が一時的に軍事占領した結果こうなつたのである。つまり冀東地区の指導援助というものは天津の多田〔駿〕軍司令官がやるのではなくて、満州の関東軍が握つていた。考えてみると、これは少々不合理なことであつた。天津側としては、地許〈ジモト〉の冀東地区の保安隊内面指導が遠方の関東軍の下に握られているということは、あらゆる場合において不便で仕方がない。そのうえ、さらに、天津側から言えばその鼻先ともいえる山海関や、後には次第に通州、唐山といつたところにまで、関東軍は特務機関を作り、これらを完全に掌握しているので、天津軍司令部側では、何をするにつけても、事々にやりにくくてたまらなかつた。
 当時奉天にあつた土肥原特務機関長(土肥原機関長は奉天の特務機関長を二度動めて居る。第一回は昭和六年〔一九三一〕満州事変発生の頃。第二回目が丁度この時である)は、関東軍司令官の隸下で、その任務は奉天のみならず、熱河省、及び前記の山海関、通州、唐山などに配置された特務機関を全部掌握して広範囲な指導権を持つて居た。
このようなわけで、問題の土肥原機関長が関東軍司令官――当時、関東軍司令官は南次郎大将だつた――の命を受けて、その年の十月初旬、満州側が最も熱望する親日、親満政権の樹立促進工作のためいよいよ華北に派遣されることに決つたのだ。
 すると、この頃天津の多田軍司令官から「問題の新政権は、近く樹立できる情勢になつた。わざわざ土肥原機関長がやつてきて促進工作をするまでの要はない」といつた連絡が、関東軍に届いた。
「――華北の新政権を、天津の軍司令官が工作して樹立を促進したのは結構だが、その内容に対しては関東軍としての希望もあり、又両軍の連絡を一層緊密にするため土肥原機関長を天津に貸してやろう」という関東軍南軍司令官の意図で、つまりは、土肥原機関長が多田軍司令官を手伝うといつた形でもつて、天津に派遣されたのである。
 多田軍司令官としては、大きな関東軍という勢力をバックにして自分よりも先任の土肥原機関長が乗りこんできて存分に腕を揮われては大いに困るのだ。いくら関東軍司令官の命であつても、土肥原の着任を多田軍司令官は非常に迷惑がつたのはいうまでもなかつた。

  見当はずれの多田工作
 このような複雑な事情のもとに、とにかく土肥原機関長は、天津に乗りこんできたのだつた。
 で、土肥原機関長の仕事を補佐する任務で、私〔専田盛寿〕も土肥原機関長に随いていつたのだつた。
 さて、私たちが、天津について、種々の情報や話をきいてみたのだが天津側の新政権樹立促進工作は具体的にはまだ進んでいなかつた。で、土肥原機関長は、これではいけないといよいよ新政権樹立促進工作に積極的に一歩を踏みだす気になつたのである。
 土肥原機関長は、当時、陸軍切つての支那通で、支那語はペラペラと自在に喋れるからむろん、通訳などは要らなかつた。支那の風俗習慣、思想歴史、あらゆる点で支那研究をしてきたひとであつた。私よりも、十四、五年先輩であつたが、私などの支那研究とちがつて、彼地〈カノチ〉の日常茶飯の冗談事まで支邡語で自由に喋れるほどだつたから、その研究の深さも、とうてい私どもの比ではなかつた。
 そんな土肥原機関長だつたから、この新政権樹立の任務にも、確〈カク〉とした自信があつたということができるのだ。
 さて、当時、華北で代表すべき勢力を持つていた軍権者連といえば、北京にいた宋哲元(これの部下が後に日本軍と芦溝橋事件を起したのだが)山西省の閻錫山、済南の韓復渠、さらにお膝元の保定の地にいる商震を加えたこの四人が、数えあげられるべき勢力者たちであつた。
 この四人を何らかの方法で掌握し、たがいに手を握り合わせさえすれば、大きな政権ができあがる。これは常識的に考えてみて当然のことであつた。
 まえに天津の多田軍司令官が「もうすぐに新政権ができあがる」と、関東軍に報知したのにもまた、一面の理由もあつたのだ。すでに多田軍司令官は、この代表勢力者を一束にしようという方針のもとに、それぞれ、宋哲元、閻錫山、韓復渠、商震と、ひとりひとり別個に当つてみていたのであつた。そのとき「満州と手をしつかり握り、きみら四人の合意の許に新政権を作るべきではないか。新政府が樹立さえすれば、華北もいちだんと栄えるだろう。万一、その間に蒋介石との摩擦があれば、日本側で新政権を十分に援助するから、その点は安心して大丈夫である。南京の中央政府の息のかからない、新生の中立政権を作るその原動力に、きみたちはなつてくれる意志はないか」といつた意見を、多田軍司令官が個々に、これら四人の勢力者にむかつて提出したところ、彼らはたち所に、「自分は、あなたのいう中立政権樹立の意見に大賛成である。自分は排日ではない。日本が懸命になつている満州の育成に、自分も諸手をあげて協力しよう。ほかの三人の有力者が賛成さえすれば、自分もそれに協力する気持は充分にある」といつた返事をしたのだ。
 このような返事が、この四人からみんな個個に得られたので、多田軍司令官は、早急にこの工作は成立するばかりにあると考えた訳だが、いささか見当はずれであつた。
 土肥原機関長は、このような話を多田軍司令官からきいたのだが、これでは残念ながら不首尾に終ると断言したのだつた。
 土肥原機関長の多年の経験から推してみて支那人とは、ひとりひとり個々に当つた場合ははつきりと返事を確約するが、ふたり以上顔を突き合させると、「おまえがやればおれもやるぞ」という態度をとるものだ。それだからこれらの勢力者のひとりひとりを納得させただけでは、新政権を樹立させることは難しい‥‥というのが、支那通である土肥原機関長の言分であつた。
 それで、土肥原機関長は、早速、宋哲元と商震とを北京で一堂に会合する席を作り、ふたり顔を合させて、果して双方協力して新政権樹立に努力してくれるかどうかと問いつめたところ、結局は、予想通り、双方ともが瞹眛漠然とした返答になつてしまい、物別れという結果を得たのである。
 次に、こんどは、宋哲元と韓復渠を直接顔合せさせてみた。が、これも同様な結果になつてしまつたのだ。
 こうなつてみると、多田軍同令官がやつたような、個々の説得工作は無駄に終つた。で、それに代って、いよいよ、土肥原機関長が、違つた構想で、中立政権樹立への工作を練る段階に立ち至つたのである。【以下、次回】

 文中、「芦溝橋事件」は原文のまま、この時代であれば「蘆溝橋」、今なら「盧溝橋」と書くところである。なお、「芦」は、「蘆」(あし)の俗字。

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