◎伊勢では、家の中へ小さい蟹が入ってきます
山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その八回目。本日、紹介するところも、「第三 古事記の由来と内容」の一部である。
私が伊勢へ参りまして、今居ります所が市内で、大部海に遠い所ですけれど私の居ります前の小さい溝のやうな川は潮の満干の多い所でありまして、時々満潮で水が一杯になることがあります。そんな処ですから家の中へ小さい蟹がどんどん入つて来ます。初めて参りました時分には驚きましたが、殆ど蟹と一緒に生活して居る位で、寝て居る所も何処へでも入つて来る。其中〈ソノウチ〉に、中に入つて来る原因は、子供が御飯粒〈ゴハンツブ〉をこばすその御飯粒をさがすことが最大の目的であるといふことがわかりました。御飯粒がありますと蟹は一生懸命取つて参ります。その有様を考へて見ると、御伽噺〈オトギバナシ〉の中に蟹がにぎり飯を喰べると云ふ所があリますが、是は本当の御飯粒を沢山かためるとにぎり飯になる。唯〈タダ〉話を大仰〈オオギョウ〉にしただけのものである。それから猿と蟹との話をそこでまあ覚えたことですが、猿と云ふものは蟹を見ると云ふと非常に驚いて狂人みたいに騒ぐのであります。非常に猿と蟹とは仲が悪い。どうもさう云ふやうな日本人の昔の生活が此の猿と蟹との話を起して来た原因だらうと、斯う云ふ風に考へるとどうも古代の我々の先祖の生活が私共は今目の前に見えるやうに思ふ。是などは何にも大したことはない話でありまずが、あの文正草子〈ブンショウゾウシ〉と云ふ御伽噺がある、是は鹿島の大宮司の家に奉公して居つた文太と云ふものが独立して塩焼になつて大金持になつた話であります。その文正草子と云ふのは昔正月に御目出度うと言つて皆んなが読んだものださうです。所で鹿島の大宮司の子孫として今も鹿島何某と云ふ人があります。その人は今札幌神社の禰宜〈ネギ〉をして居られる。其の鹿島の総本家になる鹿島氏に私が聞いたことがあります。塩焼文太と云ふ者と鹿島大宮司家とは必ず関係があるに相違ない。此の話は唯の拵へ話〈コシラエバナシ〉ではないと私は思ふ。断じて是は拵へ話ではないと思ふが、あなたの鹿島家とは関係ないのですか」と聞いた時に、其の鹿島氏がいはれるには「ありますとも、今でも私の家には関係があります」といふことであつた。その話を聞くと、昔から引きつゞいて今でも茨城県の何某と私は名前も聞いて居りますが、其の家から正月に塩を一俵づゝ持つて御年賀に来る。処が塩が専売になつてから塩を持つて来ることが出来から、塩代と称してお金を一円づゝ持つて来る。「是ば今でも持つて来ます」と、斯う言つて居られます。斯う云ふことを考へで見ましたら、我が国に於ける此の昔話と云ふものには、皆んな何等かの根拠があると云ふことには間違ひない。〈六九~七一ページ〉
山田孝雄には、男女あわせて九人の子どもがいた。伊勢市に住んでころも、年少の子どもたちを育てていたのであろう。食卓からゴハン粒がこぼれることも多かったと推測される。なお、山田孝雄の長男は、国語学者の山田忠雄(一九一六~一九九六)、次女は、俳人の山田みづえ(一九二六~二〇一三)である。