◎日本酒での祝杯はたいへん結構です(殷汝耕)
専田盛寿の「親日華北政権樹立の夢崩る!――土肥原工作の失敗」という文章を紹介している。本日は、その五回目。
殷汝耕、蒋に叛旗を翻す
私〔専田盛寿〕が、関東軍への連絡から華北に戻つたのが十月の末だつた。まずとにかく、宋哲元一本の線で工作をやつてみろというのが関東軍の意向で、それに遅くとも十一月中には何とか目鼻をつけるようにという命令だつた。
私はすぐに土肥原機関長に復命し、土肥原機関長から関東軍のこの意向を多田軍司令官に伝えたが多田軍司令官は不満の体〈テイ〉だつた。多田、土肥原両者の意図する工作手順には、はじめから喰い違いがあるので、どうもうまくいかない。
そんなわけで、土肥原機関長は、その後は主として北京にあつて関東軍の意図に基くだけの工作をやろうという腹を決めたのだつた。
当時北京の日本大使館付武官は高橋〔坦〕中佐だつた。この高橋中佐は私と学校友達だつたので非常に懇意の間柄であつた。これは私にとつてはいろいろの点で万事好都合であつた。高橋中佐は土肥原機関長の工作に積極的に協力して呉れたし私とは気心もよく合つていたので、私は彼に頼みこんで毎日満州の関東軍に連絡の電報を打つてもらつたり、支那全般の状況なども彼を通じていろいろと傍受することができたのだつた。
そのうちに十一月も半ば過ぎになつた。こちら側の宋哲元への工作もなかなかはかどらなかつた。これは当の宋哲元の意向がいつこうにはつきりしないからだつた。
そこで、土肥原機関長は宋哲元の説得はひとまず差しひかえておき、それより先にこちら側のかねての計画通りに、かの殷汝耕〈イン・ジョコウ〉だけでも、南京政府の方へ尻を向けさせ、新中立政権樹立を決行させようと誘いをかけることにしたのである。殷汝耕がこのことに積極的な態度をみせたら、宋哲元もいずれこれに刺戟されてなびいてくるかもしれないというのが、土肥原機関長の腹だつたのだ。
それでこちら側の意向は、早速、殷汝耕に伝えられたことはいうまでもない。
意向を伝達されるや、殷汝耕の方では、待ち受けていたとばかり、二つ返事だつたのである。元来、殷汝耕は、冀東貿易などの関係もあり、関東軍とは縁浅からねものがあつたので、南京の蒋介石政権に叛旗を翻すくらいは当然といえば当然だつたが、そのときは、こちら側の予期以上に徹底した反南京態度であつた。そして、これもまたすさまじい勢いで、「冀東防共自治政府」を樹立して堂々と反蒋、親日的政策を宣言したのだつた。
これが、〔一九三五年〕十一月の廿五日のことであつた。
殷汝耕が「冀東防共自治政府」の樹立を宣言したその前夜、私は土肥原機関長と天津のあるホテルにいた。そこへ殷汝耕以下が参集していたので土肥原機関長から新政権の樹立を呼びかけた。
「善は急げと申します。明日は新政府樹立宣言をしますから、私は今夜はいまからすぐ通州に帰ります」
という意気軒昂たる殷汝耕に、土肥原機関長は、
「じや、その前夜祝いにシャンパンでも抜いて祝杯をあげようじやないか」
と答えて、私にシャンパンを取り寄せるように促された。
私は、すぐにシャンパンを持つてくるようにと、そのホテルに頼んだのだが、あいにくとシャンパンが切れているとのことだつた。イギリス租界か、フランス祖界にいけば、シャンパンくらい取り寄せることは容易なのだが、夜分のことなのでそれも一寸間に合わない。結局、土肥原機関長は不承知だつたが、仕方なく、私は、「あいにく日本酒しかないが、どうだろうか」と殷汝耕に話したところ、彼は、
「日本酒で祝い酒をするのはかえつてたいへんに結構です」
とよろこんでくれたので、私たちは、あり合せの日本酒に、スルメのおかずで、内輪に乾杯し合つたのだつた。いま考えると、このホテルの一室での内祝いの光最が印象的に浮んでくる。殷汝耕は、この乾杯をすませると、大急ぎで、自動車を飛ばして通州に帰つていつた。これは、当時の冀東政府樹立前夜の一エピソードといえるだろう。
さて、殷汝耕が帰つてしまつてから、土肥原機関長は、多田軍司令官に、この事後報告にでかけていつた。ところが土肥原機関長はなかなか軍司令部からは帰つてこなかつた。多田軍司令官は、勝手に殷汝耕だけで新政権を樹立させたことに不同意で、土肥原機関長に長々と不満をもらしたものらしかつた。
翌二十五日には、殷汝耕は、予定通り堂々と反蒋宣言を行つたのである。それは、こちら側で予想したよりも力強い言葉の宣言であつた。その日の新聞は、たいへんセンセーショナルにこれを騒ぎたてた。
すると、早速、蒋介石から殷汝耕に対し逮捕令が飛んでさた。こんなことは、当の殷汝耕にしてみれば覚悟のうえのことである。だが、蒋介石側で、彼をいくら逮捕しろと呼びたてたところで、日本軍という垣根が高く、到底逮捕などはできぬことであつた。
文中、「高橋中佐」とあるのは、高橋坦(たかはし・たん、一八九三~一九八六)のことであろう。また、「高橋中佐は私と学校友達だつた」とあるのは、陸軍大学校で同期(第三八期)だったことを指しているのであろう。なお、ウィキペディア「高橋坦」の項によれば、高橋坦の「当時」における肩書は、「支那公使館付武官補佐官(北平)」である。