◎一番悪い教育は「わかったか」と問う教育である
山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一一回目。本日、紹介するところは、「第五 古事記序文第一段」の一部である。
なお、本日以降は、「脱線している部分」を中心とした紹介となろう。
我々の先祖は直覚力が強い、直覚力が強いから直ぐに呑込んでしまふ。現在の教育は直覚力が余り強くない、強くないやうにしてしまつた。其のしてしまつた一番悪い所の教育は「分つたか」と云ふ教育である。是は此の頃私も一番喧しく云ふ、「分つたか」と云ふと「分りました」といふ。しかし、凡そ〈オヨソ〉ものは分けられてしまへばその生命は終ひです。其の時は死んでしまふ。幸にして口ばかりで分つたので実際には分けられぬから生きて居るものの、先生も分けなかつたが、生徒も能く分らなかつたからよかつたのである。小包郵便に致しましても分けてしまへば納りが附かない。慰問袋にしましても、是は帳面、是は紙、是はシヤボン、是は何と言つて皆んな並べてしまへば、成る程あなたの出す慰問袋には結構なものが入つて居りますなあと言つて分る。分つた侭で放つて置いては何時迄経つても慰問袋にならない。是が現在の「分つたか」の教育である。それには一番大事な魂が入つて居らない。さうではありませぬか。其の中に入つて居るものは是だけと云ふことは能く分ります。けれども分つたと云つたまゝでそれを放つて置いては何時〈イツ〉迄経つても戦地に行きませぬ。それを纏めて一つの袋に入れてすつかり封をして、宛名を書いて郵便局へ持つて行かなければ小包になりはせぬ。分つただけでは小包にならない。私は「分つたか」教育が全然いけないとは申しませぬ。分ると云ふことは必要だ。「何が入つて居るか」「分らぬ」と云ふことで「お金をよこせ」と言はれたつてだしませぬ。調べた後「それだけ入つて居るならば能く分つた、それだけ払つてやれ」と云ふことになります。かやうなことでそれは分る必要はありますけれども、分つた侭では小包の一つも出来はせぬ。処が明治以後今日に至る迄の教育は「分つたか」「分りました」だけで、それで終ひだ。人間ならば事実として実際にそのからだを分けたならば死んでしまふと云ふことになる。此処は胴だ、此処は足だ、此処は手だと言つて「能く分つたか」と言つて切つてしまへばそれで終ひだ。分つても分らぬでも、それが人間として活きてゐるといふことが大切である。この生きてゐるといふ点が大事なのです。我々の先祖が直覚力が強くて訳が分らぬでもすぐに事実をさとつた。仏教にも釈迦が大勢皆様がおいでになるやうな所で花をひねつて、につこり笑つた、魔訶迦葉〈マカカショウ〉がそれを見てにつこり笑つた。それでその道が伝はつた、それが禅宗の源だといふことである。それから何代目かが達磨と、斯う云ふ訳になる。訳も何にも分りはしませぬ、につこり笑つただけである。笑ふのはさとつたので分つたのではない。明治迄の教育は其の訳が分ると云ふことにばかり力を入れてさとらしめることが足りないのです。昔の教育は訳が分るといふことが足りなかつたらうが、兎に角〈トニカク〉受け継ぐことが出来る。例へば三味線の例でいへば、こゝは感所〈カンドコロ〉だと言つて三味線の師匠が教へる。習ふ者は感所といふことは何の事やら分らぬけれど、まあピンピンとやる。やつて居る内に三味線が旨く行く。処が今の教育は三味線がろくに弾けもしないのに感どころとは何ぢやといふ理窟をやかましくいふ。さうして感どころとは是である。あれであるといふ。その話は能く分る。しかしながら弾いて見ると何にも弾けないといふやうな有様である。是が現代の教育の弊だ。之を根本的に改めて、正しい皇国の教育にしようといふのが昭和十一年〔一九三六〕十月の教学刷新評議会の答申の精神である。その精神が具体化して来て居るのが今日の国民学校の制度であり、又高等学校の教授要目なり、或は中等教育もの教授要目等の改正の趣旨は此処にあるのである。〈一〇八~一一〇ページ〉
何ともよく「分らぬ」話である。しかし、「わかったか」と問う教育が「一番悪い」というのは、何となくわかる。
教えられる側に立った経験を振り返ると、教える側の方から「わかったか」と問われると、つい「わかりました」と答えてしまう。わかっていなくても、「何となく」などと答えてしまう。
しかし、それにしてもこの山田孝雄の話は、わかりにくい。特に、慰問袋を例に引いているあたりが、よく「分らぬ」。
そういう「分らぬ」話をしておいて、山田は、聴衆に向かって、「さうではありませぬか」と問いかけている。山田もまた、無意識に、「分つたか」の教育をおこなっていたのではないか。