◎学問をした馬鹿程始末の付かぬ者はない(山田孝雄)
山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。ただし、「脱線している部分」を中心とした紹介である。本日は、その三回目。本日、紹介するところも、「第一 古典の意義」の一部である。
……其の時分の常識と云ふことがわかれば我々は其の常識を以て其の時分の書物を読み取る。萬葉集の歌などと云ふものは何も学問の結果よんだのではない。唯常識ある人間が歌つたのです。いはゞ何でもない話であります。唯其の時分の常識が今の私どもに十分に分らない。常識さへ分かれば何でもないのと思ふ。処が其の時分の常識と云ふものは今の人が常識を働かせば大体ば分ることを余り学問があり通ぎると云ふか、何と云ふか、学問するとかへつて分らなくなつてしまふ。だから私は学問するならば徹底してしなさい。なまはんかな学問をするならばしない方が良いと云ふのです。学問をした馬鹿程始末の付かぬ者はない。常識をはたらかせれば分るといふことはそれはどう云ふ訳かと云ふと例へて申しますと、萬葉集の中に是は二ノ巻にあるのでありますが、石川郎女〈イシカワノイラツメ〉と云ふものが、或る男の所へからかひに行く、是は大納言の息子の所、大納言と言つたら今でいへば大臣です。其の息子の家へ若い女がお婆さんに化けて侵入する事実がある。所が其の若い男は若い女だと云ふことを知らずに帰してしまふ。その後での歌でありますが、其の歌のことは問題ではありませぬ。其の時に隣の婆さんが火を呉れと言つてその家へ行くのであります。さうるとそれでは火を上げますと言つて火を呉れてやる。貰つたから仕方ないから其の女は帰らざるを得ないので帰つてしまふ。さう言つて近附かうとしたけれども、向ふの方がぼんやりして居るから若い女とは知らないで火を呉れと言つたら、上げますと言つて火をやつた。そして帰つた、斯う云ふ話は是はどう云ふことを物語つてゐるのであるか。斯う云ふことは今でもするが、皆さん御存知であるかどうか。大抵の人は恐らくは氣が附かないかも知れぬ。私は現在の事実で萬葉集のこの事が説けると云ふのです。それはどう云ふことかと申しますと、火と云ふものが今マツチがありますけれども、多少統制で喧しかつた時分にはマツチも困つたでありませうが、昔は火と云ふものと水と云ふものは人間の生命の源なんだ。だから火を呉れと言はれると、どんな人からでも火を呉れと言へばやらなければならぬ。だから其の火を呉れと云ふことを手段として言へば貴賤男女の差別なく接近することが出来る。そこで其のお婆さんに化けて火を呉れと言つてその家に往つたのだが、それを本当のお婆さんだと思つたから火をくれて帰してしまつた。斯う云ふ事実があります。これは現在もある事実です。其の風習が今残つて居るのは煙草の火です。どんな立派な服装をして居る人でも、どんなきたない服装をして居る人でも、煙草を喫んで〈ノンデ〉居ると「一寸」と云ふとお互に黙つて貸す。是は神代以来の風習が残つて居るのだと私共にはさう見える。さう云ふ風にして見ますと云ふと、何も千年前も今も変りはない。それは古いことだ、古いことだと思ふから分らない。決してさう云ふものでない。私は是から古事記を御話致しましても、決してそんな古いものだとして取扱ふのではありませぬ。〈二六~二八ページ〉
山田孝雄は、ここで、石川女郎(いしかわのいらつめ)が大伴宿禰田主(おおとものすくねたぬし)を訪ねたエピソードを引いている。このエピソードに関わる歌は、『萬葉集』巻二の一二六(石川)、および一二七(大伴の返歌)。返歌において大伴は、石川が婆さんに化けていることに気づいたが、あえて気づかない振りをしたのだという強がりを言っている。