◎宋哲元は病気を口実に西山の別荘に籠った
専田盛寿の「親日華北政権樹立の夢崩る!――土肥原工作の失敗」という文章を紹介している。本日は、その六回目(最後)。
用心深い宋哲元
土肥原機関長は、かように殷汝耕に新政権を樹立させた後に、こんどは宋哲元の方に強く呼びかけていつた。
ところが、最初あれほどに政権樹立に賛成していた筈の宋哲元も反蒋を唱える殷汝耕の冀東政府の旗に巻きこまれて、その後塵を拝して立つたのでは蒋介石にも民衆のも信望を失うから、殷汝耕が樹立した「冀東防共自治政府」をすぐに取り消して、じぶんと歩調を合せるようにさえしてくれるならば、じぶんは、南京の方向ばかり顔を向けるのを止めてかならず満州の方へも顔を向けるようにする‥‥といつた意向を、宋哲元は頑強に主張するのだつた。
これは、日本側と蒋介石側の中間に立つた宋哲元が、どちらの側にもいちおうの顔を立てておこうという苦肉の発言なのであつた。それが証拠には、宋哲元は、蒋介石側に対しては、じぶんは叛旗を翻した殷汝耕の新政府は遠からず解消せて、かならずじぶんの傘下にひき入れるから待つていてくれといつた意見をもらしていた。要するに宋哲元の腹は、双方の話を五分五分にきいて、双方の顔を潰さぬような状態を探していたのである。
さて、土肥原機関長の態度としては、いちど殷汝耕が独立宣言したものを、いまさら解消するなど以つての外であるといつた態度であつた。だから、繰返し繰返し、なおも、宋哲元に、できるだけ早急に殷汝耕と合流するように勧誘したのである。合流すれば宋哲元の傘下に殷汝耕を部下として参加するようにさせよう、南京の武力干渉は日本が引さ受けるなどと、いろいろとこの勧誘に応ずるような話を差し向けてみた。が、宋哲元はわが方のこの話には、容易には応じてこなかつた。
十二月〔一九三五年〕の初旬のことだつた。
蒋介石側の特別の使者がわざわざ北京にやつてきた。むろん、この特使は宋哲元に会つて、いろいろと蒋介石側の要望を述べ宋哲元が殷汝耕と合作しないように説得するのが使命である。「第一に、できるだけはやく、冀東の新政権を取り消すように工作すること、冀東政権が解消出来ればある程度宋に華北統治の権限を委せるから、日本側の息が余りかからない適当な華北政権を樹立してもいい」といつた、妥協性をふくんだ案をたずさえて、その使者は宋哲元に会いにきたのである。
ところが、宋哲元は、病気にかこつけて北京郊外の西山〈セイザン〉の別荘に逗留して北京を留守にし、わざわざでむいてきた蒋介石側のこの特使に会うことを避けたのである。その代り、彼は、じぶんの腹心の部下を面会させて、いろいろと話し合いをさせたのだつた。
蒋介石側の使者が北京にくるということがわかると宋哲元からこちらに連絡があつた。
「私は、蒋介石側の使者には会わないからよろしく頼む」
といつた宋哲元の伝言であつた。
で、彼は病気だというふれこみで、北京の西方にある西山の別荘に引き籠つてしまつた。又蒋介石の特使は儀礼的な意味で土肥原機関長を訪問し土肥原機関長も答訪した。
宋哲元が蒋の特使との面会を避けたのは宋の小狡い腹芸であつたともいえるのだ。彼がもしこの使者に直接に会つたとしたら、日本側に対して今後一寸顔向けが出来なくなる。一方、蒋介石に対してはどうしても何等かの言質〈ゲンチ〉を与えることになるので宋としては、この二つともを避けた訳である。つまり、波は依然としてどつちの側にもいい頭を持していられるようにと、この際、使者との面会を避けたのだつた。
芦溝橋にて日華両軍衝突
蒋の特使が三、四日で南京に帰つた後、間もなく宋哲元が、急に、じぶんは北京に冀察政務委員会という新政権を樹て、その委員長に就任することになつたということを土肥原機関長に通知して来た。
こちら側でも、それまでの宋哲元側の様子からして、だいたいは察知していたのであるが、間もなく正式に声明されたこの冀察政務委員会という政権は、その性格が漠然としていて旗幟〈キシ〉甚だ不鮮明なものであつた。
冀察政務委員会を組織する人的要素とか、その組織条例だとかが、型通りに示されているだけで、その根本問題である蒋介石依存の政権であるのか、日本に依存のものなのか、或は親満的な匂いのあるものなのか、無いものなのか、その辺のことはまつたく示されてはいなかつた。いわばたんに従来あつた河北政務整理委員会というものの「看板の塗り換え」に過ざないものといえたのである。ただ多少異る所はこの冀察政務委員会は、あくまでも宋哲元が、日本側にも蒋介石側にも、時と場合に応じて、いい顔ができ得るような余裕を或程度持つていたということができた。
従つて、日本側のいい分も、この委員会では、相当な程度にきき入れられるわけであつた。結局、そんな緩衝地帯が、新たにできあがつたといつてよかつた。
要するに、結果的にみると、土肥原機関長の工作で、ふたつの政権、すなわち、前述の「冀察」と、その隣りの親日、親満に徹底した「冀東」というふたつの政権が、どうやらできあがつたということができるのだ。で、これは、全面的な成功とまではいえなかつたが、冀察政権は芦溝橋事件迄一年八ヵ月の間、曲りなりにも兎に角〈トニカク〉満洲と蒋介石との緩衝地帯としての機能を保つことに役立つたのであるから土肥原機関長が乗りこんで腕をふるわなかつたら、まるでこれすらもできなかつたと思われるのである。
土肥原機関長は一応の目的を達成したので、十二月の末奉天に帰任し、翌昭和十一年〔一九三六〕春にはこの冀察、冀東両政権への内面指導は参謀本部の命令で関東軍の手から多田〔駿〕天津駐屯軍司令官の手に移された。
世に、「冀東」「冀察」の土肥原工作が失敗したといわれる理由は、考えてみるのに、後々の問題にかこつけていわれるのだ。それは派出的な、半ば宿命的な成りゆきともいうことができる。
後になって、宋哲元の軍が日本軍と些細な衝突を起し、これが、昭和十二年〔一九三七〕七月芦溝橋事件となつて発火したわけだが、これは土肥原工作とは直接の関係はない。宋哲元自身は、日本との聞係を熟知していただけに、日本との争いは絶対にいけないということを身を以て知つていたということができるだろう。ただ、下部の連中がこの間の事情がわからずに、この芦溝橋事件を大きな渦にしてしまつたといえるのだ。
その証拠には、芦溝橋事件が一段落した後、宋哲元の軍隊は、ほとんど無抵抗に、北京を 撤退した事実からみてもよく判ることであつた。
不運な宋哲元は、後に蒋介石にだいぶ脂〈アブラ〉をしぼられた揚句、結局は、自分の軍人としての地位をすべて部下に譲り、引退しなければならない破目になつた。が、とにかく、彼は、冀東政権が出来る前からも又冀察政務委員会が出来てからも、日本と種々の折衝をしていた関係上、日本の事情にはかなり通じていた、と考えることができる。
一方、殷汝耕の作りあげた「冀東」政府は満州とよく提携して相互に有無相通じ、立派な緩衝地帯の役目を果たしたが、芦溝橋事件後には、日本軍の華北占領によりその存在の意義がなくなり政権樹立から約二年の後華北政務委員会という完全な親日政権に融合した。
殷汝耕の部下の一部が、芦溝橋事件直後通州事変を起し通州にいた日本人を虐殺した。 その責任を感じて、当の殷汝耕は引退してしまつたのだ。
以上、歴史の線に沿つて回願的にみれば、「冀察」「冀東」の土肥原工作は見方によつては失敗であつたかもしれないが、当時の状勢下にあつては、時宜に適合した、敏腕な工作だつたといえるのではあるまいか。そしてそれは土肥原という個人の力に俟つ所が大きかつた事を認めねばならない。
筆者の専田盛寿は、華北における土肥原賢二の工作を、「当時の状勢下にあつては、時宜に適合した、敏腕な工作だつた」と肯定的に評価しているが、果してそうか。
この文章を読んだ限りの印象だが、華北における土肥原機関長の工作は、宋哲元という「小狡い」人物を活用しようとした時点で、すでに失敗していたのではあるまいか。また、その工作の途中、殷汝耕に乗り換えたあたりは、どう考えても一貫性に欠ける。
愛新覚羅溥儀を満洲国に招き寄せるなど、数々の謀略に関わってきた土肥原賢二だが、そもそも、民族や人物を捉える眼力に、欠けるところがあったのではないだろうか。