◎関東軍は、華北に親日政権ができることを望んだ
専田盛寿の「親日華北政権樹立の夢崩る!――土肥原工作の失敗」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
満州国周辺の緩衝地帯
しかし、やがて、また年経るにしたがつて支那軍から派遣された秘密工作部隊が国境近くで、いろいろ治安攪乱行動を起すような状態に立ち戻つてきた。で、昭和十年〔一九二五〕春、当時天津〈テンシン〉にいた梅津〔美治郎〕駐屯司令官は、支那側の軍事代表何応欽〈カ・オウキン〉と折衝の上、梅津・何応欽協定という協定を取り結んだ。(註 梅津駐屯軍司令官の指揮した北支那駐屯軍という日本軍は明治三十三年〔一九〇〇〕北清事変の際、清国と列国との間に締結された条約で列国軍隊⦅日本も含む⦆が北支に駐屯することになつたので、日本も列国と共に少数の部隊を派遣駐屯させて居たのである)
当時、支那側の軍隊には、中央軍、地方軍、雑軍などいろいろの種類の軍隊があつた。中央軍というのは、蒋介石直系軍で、この中央軍も、満洲事変後は河北省に入り込んできて直接、間接に反満抗日の工作に出て居たのだ。そこで梅・何協定では蒋介石直系の中央軍は、河北省すなわち『冀』からいつさい立ち退くことを第一の条件とした。このことは満洲国と支那本土との間に、ひとつの緩衝地帯を設けるということを意味したのであつた。
この満洲の周りをほんとうの緩衝地帯にするためには、従来どおりのような支那側中央 政府の息が強くかかつた統治の仕方では何の役にも立たない。満支のどつちにも傾かない ものが華北の政権を握ることがいちばん理想的なはずであつた。だが、この理想的な新政権への工作は非常に困難なことであつたのだ。
さきに塘沽〈タンクー〉協定や、梅津・何応欽協定ができあがつた当時は、蒋介石の直接息のかかつた黄郛〈コウ・フ〉が北京にいて、この地区の政治の元締めをやつていた。この黄郛は、軍人ではなくて、政治家と名の付く存在だつた関係もあつて、軍を確かと〈シカト〉握ることができなかつたためにこの地区の行政には、やはり不充分なものであつた。そのようなところへ、新たな協定で中央軍が退いてみると、雑多な軍隊が割拠する華北を統治することが益々難しくなり、いつか黄郛は南京へ引きあげてしまつたのだ。
そうすると、河北即ち冀の統治者はいつたいだれなのかわからなくなつた。頼りになる統治者、それも、ほんとうに真底からこの地区の統治に貴任を持つてくれる人物がだれからも望まれていることはいうまでもなかつた。
黄郛がここで政権を握つていたときに、彼は河北政務整理委員会(河北政整会)というのを作つて、その委員長をやつていた。が、黄郛が南京に去つて華北に常駐せず事実上華北を総代表する主人公を失つて無政府状態になつてしまい、ここに新たな政権が一日もはやく樹立されねばならない状態に立ち至つた。むろん、そんな具合だから、河北政務整理委員会そのままでは新たな時勢には適合しにくいのは当然のことだつた。‥‥結局は、後になつて新事態を処理していくために、冀察政務委員会という政権の誕生を見たのであつたが‥‥満洲の治安に重大関係を持つこの地区にしつかりした政権が早く樹立されることは日本の大きな願いであつた。その年(昭和十年)の八月、梅津軍司令官に交替した多田〔駿〕軍司令官が天津に赴任し、当時華北各地方の軍隊指揮官であつた宋哲元、商震、閻錫山〈エン・シャクザン〉、韓復渠等の要人と接するに及び益々その感を深かくしたわけである。
しかし、元来北京、天津というところは、国際的にもいろいろな複雑な事情が錯綜しているところであつた。第一、ここには、れいの北清事変以来の条約に基づいて、列国軍隊が駐屯している。そんななかで、多田司令官としても日本側の希望を満たすような独断的に思いきつた新政権工作への手はなかなか打てるものではなかつた。
一方、満州の側では、わが関東軍が満州治安維持の重大責任を托されて居るので関東軍としては一番痛切に華北に確かり〈シッカリ〉した親日親満的の政権が速かに樹立されることを念願して居た。従つて関東軍からみると新任の多田天津駐屯軍司令官が、なかなか新政権樹立のため先手を打たないのが歯がゆくて仕方がなかつた。度々関東軍から連絡しても、多田司令官からは「時期が熟さぬからもうしばらく状況を観望する」という態度をつづけていたのだつた【以下、次回】。