礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

立憲主義を否定した憲法学者・穂積八束

2014-03-03 08:02:40 | 日記

◎立憲主義を否定した憲法学者・穂積八束

 昨日のコラムで、「次回は、明治の日本で、立憲主義を否定していた、ある憲法学者について紹介する」と書いた。この憲法学者は、穂積八束〈ホヅミ・ヤツカ〉のことである。
 今日、ウィキペディアの「穂積八束」の項には、次のようにある。

穂積 八束 (ほづみ やつか、1860年3月20日(安政7年2月28日)-1912年〔大正元〕10月5日)は、日本の法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。/民法典論争に際し発表した論文『民法出デテ忠孝亡ブ』で非常に有名である。また、日本法律学校(現在の日本大学)の設立に参画したことでも知られる。

 穂積八束は、一八八三年に東京大学文学部政治学科を卒業、一八八四年に文部省留学生としてドイツに留学、ハイデルベルグ大学・ベルリン大学・ストラスブルグ大学・ライプツィヒ大学で学んで、一八八九年に帰国した(ウィキペディアによる)。
 穂積が留学から帰国した一八八九年(明治二二)というのは、大日本帝国憲法が公布された年であった(二月一一日公布。施行は、翌年一一月二九日)。穂積が帰国した日付は不明だが、本人が書いているところでは、帝国憲法の公布の数日前で、全国の人民が「憲法発布式ヲ祝賀スルノ準備」をしているところだったという。
 そうした中で、穂積は、『国家学会雑誌』第二四号(一八八九年二月一五日発行)のために、「新憲法ノ法理及ヒ憲法解釈ノ心得」という論文を草した。
 穂積は、この論文の中で、「我邦ノ新憲法ハ余未ダ拝読スルノ栄ヲ得ズ」としている。しかしこれは、タテマエであって、実際は、関係者から得た情報で、その概略を知っていたのではないだろうか。
 それはともかく、穂積がこの論文で主張したかったことは、この新憲法を、「立憲主義」的に解釈してはならないということであった。すなわち、穂積八束の立場は、非立憲主義であり、その大日本帝国憲法に対する解釈も(まだ読んでいないと言いながらも)、これを「立憲主義を定めたものでない」とするものであった。【この話、続く】

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