礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

そこで私は杉山陸相と梅津参謀総長を呼んだ(東久邇宮稔彦王)

2020-07-26 05:25:06 | コラムと名言

◎そこで私は杉山陸相と梅津参謀総長を呼んだ(東久邇宮稔彦王)

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その十回目で、「Ⅱ」の「18 東久邇宮と繆さん」を紹介する。

   18 東 久 邇 宮 と 繆 さ ん

 繆斌工作に努力した人々には、工作の中心となつた小磯〔国昭〕総理と緒方〔竹虎〕国務相とがあつた。また東久邇宮〔稔彦王〕は熱心に支持され、石原莞爾中将は心からその実現を希望していた。
 当時の微妙な動きについては、東久邇宮の語られたことを、そのまゝ次に記すことにしよう。
【一行アキ】
 繆斌氏が東京に来た時、彼はその即夜、だれにも会わない前に私〔東久邇宮〕に会いたいと通じて来た。それで翌日、麻布の家に来てもらつて会つた。
 「日本では、誰も信用出来ない。頼りになるのは、たゞ天皇御一人だけである。しかし直接お会い出来ないから、殿下により雑音なしに自分の考えを取りついでもらいたいと考えた。」
 「もともと日華は共存共栄であるべきはずで、日華の和平はもとより望むところであるが、私の願いは、日華和平から日米和平、さらに世界平和にまで発展させることである。蒋〔介石〕主席が音頭をとつて、世界平和を提唱してはどうか。」
 繆氏は、非常に感動して、
 「今日のお話を、直接今すぐにでも、蒋主席に打電したい。無電機を東京に携行することを、日本側が禁じたことが残念である。」
 「同じ東洋人として、蒋主席が世界の傑人となることは、われわれ日本人は心から望んでいる。」
 繆氏は非常に喜んでいた。繆斌氏には、最初会うまでは、実は相当に警戒もしていたのだが、会つて見ると、術策をろうするといつた謀略型の人ではなく、卒直に胸禁をひらいて話し合えると思つた。
 繆斌工作は日米の和平を目的としていた。それだけに、軍をはじめ各方面の反対の嵐に直面せざるを得なかつた。
 また、繆斌が原則として提示した、南京政府の即時解消と中国からの日本軍の全面的撤退――とは、当然、現地の日本軍と南京政府関係者の猛烈な妨害運動となり、ひいては軍中央部と外務省側の反対に遭つたのである。
 繆斌に会つた日、緒方国務相を通じて、小磯総理に、繆斌工作に全幅の努力を傾けるように忠告した。同時に、私は側面からあらゆる助力をしようと決意した。
 そこで、私は杉山〔元〕陸相と梅津〔美治郎〕参謀総長を呼んだ。
 杉山陸相は
 「繆斌は肩書がない。蒋介石の委任状をもつて来ていない。こんな人物で日華の和平交渉は出来ぬ。」 
という。私はこういつた。
 「最近〝戦国策〟を読んでいる。ところで中国では、一国と一国との和平交渉とか、同盟、連合とかにはいきなり国王が直接交渉をすることはない、はじめは布衣〈フイ〉の士が内々に国王にたのまれたり、大臣にたのまれたりしてやる。そしていよいよ話がまとまつたところで、はじめて公式に談判が開始される――これが中国の建前だと思う。特に、今日の日本と重慶とは、戦争をしている。おまけに〝相手にせず〟などといつている時に、どう考えても重慶から正式の使者が来るわけがないではないか。
 第一に蒋介石の立場として、委任状を日本に持たしてよこす――と考えることすら誤りである。委任状なく、地位もないところがかえつて面白い。信用が出来るとか、出来ぬとかいうが、よしんば欺されてもよいではないか。」
 杉山陸相も、ようやくなつとくして、
 「なるほど、その通りです。」
と賛成したので、私はさらに、
 「繆斌氏が上海から飛行機で来ることについては、あなたは、陸軍大臣として賛成したのではないか。それに今になつて反対というのは、どういうわけか、私にはわからぬ。小磯総理を助けて 大いに努力してもらいたい。」
 次に、梅津総長に対しても、同じことをいうと彼も同意した。
 小磯総理が、いよいよ最高戦争指導会議で発言しようとすると、重光〔葵〕外相がまず真向〈マッコウ〉から反対し、陸相も参謀総長も一向に総理を支持した模様もなく、そしてこれが主なる原因になつて小磯内閣は瓦解したのだ。
 繆斌氏の話がだめだと決まると、陸軍では手のひらをかえしたように冷淡になつた。
 私は再び杉山陸相に注意した。
 「飛行機の座席はない。汽車の切符もないで帰れ――と、まるで追い返すにひとしい冷遇をするとは、全く礼を知らぬ恥かしい話だ。現地軍が反対しているからだそうだが、何でも軍は横車を押して勝手なことをしている。今日はそれでもよいかも知れないが、いずれは国民の指弾の的となりますぞ。少しは反省したらどうか。」
 繆斌氏は、使命は失敗に終つても、せめて日本の桜の花盛りを見て帰りたい――というので、私は
 「何か圧迫でもあつたら、――東久邇宮に用事があつて、もつと日本にいるのだから――と、返事をするように。」
と、どんなことがあっても繆斌氏を庇護するつもりでいた。

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場合によっては僕が重慶に使してもよい(緒方竹虎)

2020-07-25 00:01:21 | コラムと名言

◎場合によっては僕が重慶に使してもよい(緒方竹虎)

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その九回目で、「Ⅱ」の「17 最高戦争指導会議」を紹介する。

   17 最 高 戦 争 指 導 会 議

 繆〔斌〕さんは〔一九四五年〕三月十六日に、単身で上海を出発して同日午後羽田に着いた。私はおくれて、やつと海軍機の便を得て、福岡まで飛行機で、それから汽車で上京した。大阪大空襲の後で、車窓から見る大阪は、まだブスブスと燃えていた。緒方〔竹虎〕さんは、私の東京到着がおそいので、憲兵隊に逮捕されたものと心配して、朝日新聞の支局を通じて、私を探してくれていた。繆さんは緒方さんの世話で 麻布広尾の迎賓館の一室にいた。
 繆さんは、東京に着くとすぐ緒方さんと会つた。
 「私は上海で過日、山県〔初男〕さんに会つた時、小磯〔国昭〕総理は真剣に中日全面和平について考慮していると聞かされた。御承知の通り、戦局は日に日に進展しているので、至急小磯総理に会い、かねて懸案の中日全面和平問題解決を促進したいと思つた。渡日の方法について山県さんと相談した。山県さんがこの私の要望を日本に帰つて、小磯総理に伝えたものと思うが、南京総軍はついに私に飛行機の座席を与えることを許可した。しかし私が同行を予定した無電の技師には座席が許可されず、止むなく私一人上京せねばならなかつた。無電の技師を連れて来たかつたのは、日本政府との話合い如何では、東京から直接、重慶と無電交信し、東京・重慶の直接折衝に移したかつたからである。もとより南京総軍は私を信用していないし、私はより以上に南京総軍の軍人を信用していないので、私の要求は冷淡に総軍から一蹴された。
渡日については、蒋〔介石〕委員長の諒解を得ている。中日全面和平の実現については、日本政府との折衝の期限について、蒋委員長から内命を受けている。中日全面和平はもとより、日米和平の前提として考えている。これによって中日両国が戦争の徹底的荒廃から救われ、東亜の保全を維持し得るのみならず、世界の平和克復に資することが出来る。小磯総理と話を進めたい。」
【一行アキ】
 繆さんが戦局の見透しで協調した点は
一、米国の次期作戦は必ずや琉球への上陸作戦である。日本を孤立させ艦砲射撃と空襲で、日本本土を徹底的に叩いた後で最後に日本本土に上陸作戦を敢行するだろう。
一、米国は中国大陸には作戦しない。
一、ソ連は、米国の対日攻撃が決定的局面を展開した場合、必ず武力をもつて満洲に進入して来る。
繆さんは重慶側の意見として
一、日本はまず南京政府を解消して日本側の誠意を示すこと。
一、中日双方より代表者を出して、停戦撤兵を協議し、それに基づいて日本軍は逐次撤兵すること。
を伝えている。
【一行アキ】
 政府内部における繆斌工作のいきさつについては、直接この工作の中心として努力した緒方国務相の談に聞くのが一番明白である。
【一行アキ】
 「小磯総理はその位置上、すぐ繆斌と会見することを控えたいというので、僕が代つて二日にわたり種々繆斌の意向を叩いて見たが、彼は蒋主席よりの電文写しその他の証拠品を所持しており、彼の有する案についても、重慶の意向が明瞭にされていた。勿論、日本としても対中国政策の百八十度の転換であるから、繆斌の提案をそのまゝ吞込むことは内外の事情で困難であるが、所謂重慶工作を開く基礎には十分であると考えた。
 そこで僕は一切を小磯総理に応答し、場合によつては僕自身重慶に使してもよいというと、小磯総理は非常に乗気になり、最高戦争指導会議を開くから、一つ原案を用意し、且つ君も会議に出てくれとのことだつたので、繆斌の提案たる南京政府解消、停戦撤兵、引継機関としての留守府開設案とともに、〝専使を派遣し、蒋主席の真意を確むべき〟の意見を付して原案を用意した。然るところ、最高戦争指導会議においては、重光〔葵〕外相先ず、南京大使館清水書記官の情報にもとづいて、真向〈マッコウ〉より反対し、(繆斌の経歴を述べて信用すべからずとするもの、周◆なる名を用いてわざと繆斌と云わず)、ついで杉山〔元〕陸相、梅津〔美治郎〕参謀総長、及川〔古志郎〕軍令部長、米内〔光政〕海相も皆反対又は賛否を留保し、会議は極めて白けた空気のなかに散会した。
 要するに、最初より事態を真面目に検討する意思がないのである。
 僕は事の余りに不可解なるを見て、最初から熱心にこの工作を支持された東久邇宮〔稔彦王〕殿下に、以上の経過を申し上げ、一方米内海相にも助力を求めた。殿下は、杉山陸相、梅津参謀総長を個々に招じ、熱心に事態の収拾を勧説されたが、陸相、総長共に一向にえ切らなかつた。
米内海相には僕自身、今や戦争のみを以てしては局面の打開は殆ど不可能である。万一敗戦の場合、顧みて打つべき手が残されていてはお上に対し申し訳ない次第ではないかと、切に海相に共鳴を求めたところ、海相は、君〔緒方〕の誠意は認められるが、事こゝに至つては内閣は最悪の場合に陥る外なかろうとのことであつた。
 こゝにおいて小磯総理は聖断を仰ぐべく参内したが聴かれず、こえて四月三日、陛下より改めて重光外相、杉山陸相、米内海相に対し御下問があり、三相ひとしく反対意見を奉答したためこゝに小磯内閣の瓦解となつた。
 繆斌と重慶と如何なる関係にあつたかは今以て明白でない。が、繆斌自身は、はじめより自分の権限は三月三十一日を以て期限とすること、自分は直接重慶を代表するものにあらず、重慶の代表者は目下上海にあつて総ての指示を与えているのだと卒直に語つていた。
しかしいずれにせよ、彼が重慶との連絡を確保していたことは事実で、東久邇宮殿下は、既に万一の場合を予想され、この路線を通じ、対米交渉にまで発展せんことを熱心に期待され、僕も同様の考えでいた。
 繆斌も亦、米国の同意又は参加なき直接交渉の不可能なることは暗に語つており、沖縄失陥とともにソ連は必ず満洲に進出するという見透しで極度に焦つていた。
 勿論この工作完成には当時の国内情勢から見て非常の困難が予想されたが、一種のとらわれた感情から、全然着手されなかつたことは遺憾であつた。」

 緒方竹虎の発言の中にある「周◆」は人名。◆は、サンズイに杉という漢字である。
 同じ緒方の発言の中に、「重慶の代表者は目下上海にあつて」とある。これは、繆斌に発言を引いている部分だが、この上海にある「重慶の代表者」というのは、たぶん、「藍衣社のK」のことであろう。

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歓送会を開いて日本軍を送ります(繆斌)

2020-07-24 02:48:32 | コラムと名言

◎歓送会を開いて日本軍を送ります(繆斌)

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その八回目で、「Ⅱ」の「16 日本の敗戦と中国の内情」の後半を紹介する。前回、引用した部分のあと、一行おいて、次のように続く。

 こうした時に、たまたま上海からの路線があつた。この路線が、さつそくとりあげられて検討された――日本軍の謀略路線とは本質的に違つていた。現に日本の軍閥によつて迫害を受けていた。この路線には、朝日新聞社の緒方〔竹虎〕主筆、日本皇族の東久邇宮〔稔彦王〕が関係していることがわかつた。
 またこの路線には石原〔莞爾〕将軍と辻〔政信〕大佐が関係していた。石原将軍の周囲には、満洲の政治、軍事、経済に明るい人達がいる。辻大佐は、日本軍との接収交渉に役立つ。この路線に、念に力を入れ出した重慶のねらいは、この特殊な関係にあつた。
 私は、日本の運命は、黙つてこの手に乗つて、活を求めるよりほかに途〈ミチ〉はないと思つた。
【一行アキ】
 汪兆銘が既に死んだ後の、名ばかりになつた南京政府を、解消することは、問題でない。既にベルリンの陥落が迫つているドイツと手を切つて、日独伊三国同盟を脱退することも、問題でない。しかも、これは対外的には「南京政府解消」「日独伊三国同盟脱退」という大きな政治的な表明として役立つ。
 中国からの撤兵も、それと同時に、仏印、ビルマ方面の兵力の撤兵にも、中国側が同意するならば、日本の本国から遮断されて、ビルマにひつかつゝて動きがとれなくなつている日本の大兵団を、南方から引き揚げさせることに出来る。(Kは暗にこれに同意を示していた。)しかも、この撒兵は、「日本が中国から手を引いた」「南方に進駐した兵力を撤退さした」という日本の意思表示になる。
 これは、太平洋戦争を起した大きな原因を、解消したことになり、アメリカとの和平を開く素地をつくることになる。これらのことも、硫黄島で日本軍が持ちこたえているうちに、急速にことを決しなければ、意味がなくなる。
【一行アキ】
 具体案としては
一、南京政府を即時解消する。
 (周佛海等要人八名は日本側が日本内地で保護する。)
二、国民政府の南京還都まで南京に臨時に留守府を置く。
三、中日双方は内密に即時停戰命令を出す。日本軍は中国から完全に撤兵する。
 即時停戦は連合国との和平を前提とする。
四、中日双方から軍事代表者を出して撤兵と接収に関する委員会を設置する。
五、国民政府は南京還都後において日本の和平希望を連合国側(アメリカ)に伝達する。
【一行アキ】
 私はこの案が具体化され、実行に移された場合、満洲と華北とに対しては、日本軍の撤兵と国府軍の接収とは、そう急速に行われるものでないことが見透された。
 日本軍閥の「反共滅党」は、中国共産党を有利にする結果を生じていた。国民党と国府軍とは黄河以北から後退を余儀なくさせられたが、中国共産党は依然として延安の本拠に布陣していた。
 日本敗戦の瞬間をねらつてソ連が満洲に進出して来た場合、中共軍は延安から陸路、満洲に急行することが出来るが、国府軍は華北に軍事拠点を持つていなかった。重慶側は完全に北方への手がかりも足がかりも失つていた。満洲の争奪戦は明らかに中共側に分があつた。
 重慶側が多年呼号して来た満洲の失地回復もソ連が満洲に進入して来ればおしまいである。こゝに重慶側の焦躁が見られた。重慶側としては、何よりも先ずソ連の満洲進入を防止しなければならなかつた。
 華北においては、延安を中心とする中共軍に対する包囲作戦が完成されねばならなかつた。この二つとも日本軍の協力なしには到底現実出来ない現状にあつた。
 重慶は満洲に対してはソ連の侵入に備える意味からも日本軍の駐屯を希望していたし、華北に対しても、延安の中共軍勢力に対する重慶側の対策が完成するまで、ある期間の駐屯を希望していたからである。
 繆さんは意味深い笑いを浮べながら私にいつていた。
 「満洲と華北とはなかなか複雑です。重慶側から今度はあべこべに日本軍にもう少しいて下さいとたのむようになりますよ。」
【一行アキ】
 重慶側は撤兵、接収に当つては、辻政信大佐を日本側の代表に加えることを希望していた。武裝を解除しない日本軍の撤兵後退であるが、重慶側が日本軍との円満なる接近をのぞんでいる以上、私はさしたるトラブルなしに実行に移され得ると考えた。
 Kは「撤兵接収は円満に行きますよ」といつていたし、繆さんは「歓送会を開いて日本軍を送ります」といつていた。この歓送は早く帰つてくれという歓送であろうが、この日本軍の撤退に当つて示される日本軍の粛然たる態度如何によつては、あるいは過去の日本軍の行跡をつぐない得るか も知れぬと考えた。
【一行アキ】
 この案に対して、重慶側は内諾を与えていた。繆さんの東京行きに対しては、重慶は二様の構えをしていた。もし日本側が、誠意を示して乗つ来るならば、こちらも応じよう。もし日本側が誠意を示さない場合は、これは単なる繆さんの単独の行動であつたとして、葬り去ろうというのである。そして「三月底」即ち三月三十一日限りという期限を付していた。
 もし、この案がとりあげられて実現した場合、満洲の事情は今日とは変つていたかも知れない。そして中国側では更に大きく事情が変つていたことだろう。

*このブログの人気記事 2020・7・24(9位のセイキ術は久しぶり)

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なぜ日本はロシヤを信用して中国を信用しないのか(藍衣社のK)

2020-07-23 04:20:19 | コラムと名言

◎なぜ日本はロシヤを信用して中国を信用しないのか(藍衣社のK)

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その七回目で、「Ⅱ」の「16 日本の敗戦と中国の内情」を紹介したい。
 この章は、やや長いので、本日は、その前半を紹介する。

   16 日本の敗戦と中国の内情

 Kは改めて、私と会談した。繆さんと三人だけ、繆さんが通訳の労をとつた。
 Kはいう
 「アメリカは勝つている。日本は敗けている。そうして中国の勝利は〝虚勝〟である。われわれは、決して中国が勝つているのではないことを知つている。
 日本が、いよいよ敗けると決まると、近くロシヤが必ず出て来る。そのロシヤに、日本はすがりついている。われわれ中国人は、ロシヤとはながい間つきあつて、ロシヤにさんざ裏切られた。 ロシヤに信用はおけない。日本もロシヤを信用していては危い〈アヤウイ〉。何故、日本はロシヤを信用して、この中国を信用しないのか。日本が中国を信用するなら、中国も誠意をもつて相談に乗ろう。繆さんの今度の東京行きは、日本が中国を信用するかしないかを定める試験である。」
 雑談に入ると、Kは、
 「日本の特攻隊には、感心している。私も軍人だ。部下達には、日本の特攻隊の記事の出ている新聞を示して、君達もこのようにあれと訓示している。しかし、こんな立派な日本の青年達が、 次ぎ次ぎに死んで行くことは、悲しいことだ。」
 Kと私との間では、お互に和平以外の情報を聞かないことが、不文律になつていた。私は新聞記者時代に、陸軍省詰めを担当していたので、軍人には知り合いが多かつた。私はつとめて軍の作戦行動に関することは、聞かないようにしていた。私さえ知らなければ、よしどんなことになつても知らないことは言えない――と思つていた。Kはこのとき、私に、若い日本の軍人で、中国に好意を持つている人達のグループをつくつて、中国に協力してくれ――ということだつた。私はこれには、返事をしなかつた。それは祖国を裏切ることに«ならないだろうけれども、私には出来なかつた。
【一行アキ】
 繆さんとKと私との間に、月余にわたつて具体案が練られた。この会談の間に、私の皮膚にひしひしと感じられたことは、国共の対立ということである。もちろん藍衣社のKは、共産党との対立 で、重慶側の先端に立つている組織の一人であるが、国共の対立は、われわれが想像していたよりも、深刻なものがあつた。
 日本との抗戦のためになされた国共合作が、日本の敗戦につれて、現実の問題として、もとの国共対立にもどりつゝあることが、感じられる。国共合作後の国共の勢力分野の優劣を決定するものは、日本敗戦後の処置如何にかゝつていた。
 中国が満洲を失つてから、既に十数年を経過している。中国の本土の主要な大半を日本軍に占領されてからでも、既に七年になる。中国側では満洲の実情に関しては、全くわからなくなつてしまつている。日本軍占領地区の実情も、不明である。そして満洲にも占領地区にもまだ傷つかない日本軍の大兵力がいる。
 くだいていえば、重慶の肚〈ハラ〉は、満洲に、ソ連が進入して来ない前に、中国本土で、日本軍が混乱におち入らない前に、中国共産党に乗ずるすきをあたえないで、順序よく満洲と中国の日本軍占領地区とを、国民政府の手に回復したかつたのである。
 重慶では、どうしたらその接収が、安全に、合理的に、確実に、実行出来るかに苦悩していた。重慶から北京、上海、南京は、遠かつた。政治的にも、軍事的にも、一時に一度に、ことを決するわけには行かない。中国側は急速なる軍の移動は困難である。もし日本軍が重慶側に関係なく、勝手に兵力を引き揚げたら、その後には必ず共産勢力が侵入するだろう。
 重慶の中央軍であつても、それぞれ特殊な事情があつて、地区的な考慮がなされねばならない。出来得れば日本軍との間に、接収機関を設けて、双方の円満な了解の下に、重要な地点と地区から漸次接収を開始したい。
 以上が重慶の肚であつた。【以下、次回】

 藍衣社のKという人物が何度も出てくる。この人物の実名は、たぶん、顧敦吉(こ・とんき)であろう。顧敦吉の名前は、本書一一八ページに一度だけ出てくる。

*このブログの人気記事 2020・7・23

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柴山陸軍次官は小磯総理にニセ電報を見せていた

2020-07-22 04:32:12 | コラムと名言

◎柴山陸軍次官は小磯総理にニセ電報を見せていた

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その六回目で、「Ⅱ」の「15 「重慶路線」」を紹介したい。

   15 「重 慶 路 線」

 繆〔斌〕さんと山県〔初男〕氏の間では、繆さんの邸で、連日協議が開かれた。Kが、繆さんの広い邸のどこかに来て、連絡しているらしい。Kの顔を山県氏の一行は知らない。山県氏の一行には、中国人もいるのだが、Kのことはわからない。
 〔一九四五年〕一月に入ると、繆さんの広い邸の裏側の部屋に、Kの部屋が出来る。私は、たゞひやひやしているばかりだ。無電連絡だけは、繆さんのところに置かないことを忠告する。私もKを知っているだけで、K以外の中国人の顔は会つてもわからない。秘密室で何が行われているか、繆家の人にもわからない。繆さんも遠慮している。
 東京に繆さんが行くことにきまると、繆さんは、日本語は出来るが、中国語で日本側と交渉することになり、通訳を一人連れて行くことになる。その通訳に、蒋という人が内定したという。私に会つてくれとのことで、顔合せをすることになる。
 繆邸の洋風の広い応接室で顔合せをする。繆、私、蒋、Kの順で腰をかける。蒋は、私も顔だけは知つていた。日本軍に接収された紡績会社のことで、よく日本側との交渉に来ていた日本語の上手な中国人である。今、見ると彼は緊張しているのか、ブルブル小ぎざみにからだをふるわしている。Kがそばにいるので、身をかたくして、こわばつた表情である。日本語で話をするので、Kだけは一人離れたかたちである。私がKと顔を見合わすと、ニヤニヤ笑つている。このKがそんなにも恐しい人物なのだろうか。
 夜おそく、蒋の自家用の三輪車に、二人で乗つて帰る。その路で蒋が話すのである。
 「Kさんから正式に話がありました。私はどうしたものかと考えました。妻に相談しました。うしたら私の家内が――国家のためだ。あなたはこの命令を受けなければならない――というのです。それで決心しました。」
 蒋が昔書いた日本語会話の本が、現在重慶で、藍衣社の日本語用の教科書として、使われているのだそうである。その後、蒋が二三度、私のところに連絡に来たが、よほど小心な男とみえて、からだも顔も相変らずこわばらせてぎごちない態度だつた。私は蒋の緊張振りが気の毒でもあり、吹き出したくもあつた。
【一行アキ】
 繆さんと東京に行く一行は、繆さんと蒋と私を入れて七名と決つた。他の四名もそれぞれ紹介があつた。無電技師、暗号係等である。四名の中に一人若い女性がいた。この四名は繆家で一度も顔を見たことがない人達である。繆さんとは関係のない、K関係の人達であろう。地下工作をつゞけている人達らしい、たくましい顔つきである。見ているとKとの応答には全部軍隊式のはきはきした動作で答えている。この人達は日本側の山県氏に対しては、まだ正式に紹介されていない。「和平工作に溝通〔情報伝達〕する一切を検挙しないこと、身分の保証と保護を約すること」が要求されている。
 既に出発の準備は出来たが、まだ飛行機の問題でごたついている。小磯総理は情報入手という名目で繆さんを呼ぶことに、外務、陸、海軍と諒解をつけているのに、依然陸軍側がぐずぐずしている。小磯は、柴山〔兼四郎〕陸軍次官に何回となく督促したが、柴山は、総理には「繆斌に便宜を与えよ」という偽せ電報を見せ、現地軍には「便宜を与える必要なし」との電報を打つていた。
【一行アキ】
 時はいらいらしたしょうそうのうちに、徒らにたつて行く――一月六日アメリカ側はフィリッピンのリンガエンに上陸した。サンフランシスコからの短波の日本語放送を聞くと――兵士とともに上陸用舟艇に乘り組んだマッカーサー司令官は、まつ先きに海岸にとびこみ、膝まで海水にひたつて上陸した――と報じている。
 力だのみにしていた山下奉文も、どうしたのかあつさり敗けて、二月五日にはマニラに突入された。一方ドイツには、ベルリンの危機が迫つている。硫黄島の攻防戦が、はじまつた。胆国が空駿 でどれだけやられたかわからない。たゞ新聞の記事で判断するだけ。上海の日本側の新聞にも、爆災地の焦土に立たれた天皇の写真が大きく出る。
 南京大使館の清水書記官が、南京総軍の小川参謀と二人で繆さんを訪問に来る。私も立ち合つて、そばで会話を聞いている。ずるそうなさぐりを入れている。繆さんは、万事は日本の総理大臣にお会いした上でお話しする――と相手にしない。繆さんは、南京の大使館には昔ひどいめにあつてこりごりしている。二人は不服そうに帰つて行つた。
 もともと清水書記官は、通訳あがりの男で、中国語の上手な通訳官以外にとり得のある人物ではない。それがたまたま、南京政府の成立の時に、汪兆銘と日本側との通訳を彼が一手にやつたために、エラクのしあがつてしまつた。こんな内容のない男からの現地報告を基礎にして、国家存亡に関する重大な危機に、重光〔葵〕外相が重要会議で発言するのである。
 軍の情報は、意識的に最初からでたらめだつた。清水書記官の報告には、政策以上に繆さんにはねつけられた、こつぱ役人の腹いせが感情的に追加されている。
【一行アキ】
 三月に入つた。小磯総理のやつきの催促で、軍はしぶしぶながら、繆さん一人だけの飛行機の座席を許可した。中国側が要求した繆さん一行七名の「専機」は案の定、軍が猛烈に反対して貸してくれなかつた。
 私は繆さんが、重慶側の無電と一緒に取京に行くことは非常に面白いと思つていた。交渉が、手つとり早く連絡されることもよいし、その内容を、日本側で傍受することも出来た。軍閥どもは、敵性の無電を東京に持つて行くことを怖れていたが、もうB29が毎日のように東京を空襲している時に、無電一台をそんなに警戒する必要はなかつた。残念なことであつたと今でも思つている。
 一人でも行くかどうか、ということに関して、Kとの間に、打合せがあり、Kと重慶との間に、連絡があつた。Kは一々無電で連絡して、重慶側の指令によつて動いていた。Kの話では、最近のKの無電報告には、至急特秘を表わす赤紙がはられ、戴笠の手から直接に蔣介石に連絡されているとのことであつた。
 重慶におけるアメリカ側との交渉も一切、戴笠の手を通じてなされていた。アメリカとの路線が同じ戴笠の手を通じてなされていることは、アメリカと日本との和平の仲介を、蒋介石に依頼する機会をつかむことも出来ると、私は考えた。もちろん今度の繆さんが東京に行くことも、アメリカには通じる。それはかえつて都合がよいと思つた。
 繆さんが、単独で東京に行くことに決まり、私も後から、飛行機の便をつかみ次第に行くことになつた。

 文中、「南京大使館の清水書記官」、「南京総軍の小川参謀」とあるのは、それぞれ、清水董三(とうぞう)、小川哲雄のことではないかと思うが、断定は避ける。

*このブログの人気記事 2020・7・22

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