礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

言語は、人間の表現、理解の行為である(時枝誠記)

2020-10-26 01:24:22 | コラムと名言

◎言語は、人間の表現、理解の行為である(時枝誠記)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十七 言語の機能」のところを紹介している。本日は、その三回目。

 これは単元文学の研究の中であるから、言語と文学との関わりを考えさせようというのであろうが、生徒たちに【研究と練習】として、
《一 筆者が読者に何を考えさせようとしているか、文面を追って読み取ってみよう。
 二 ことばがなかったならば、どうなるであろうかということについて、日常生活の場合を例にとって話し合ってみよう。
 三 「ことばのない世界は、もっと暗い、もっと孤独な世界にちがいない。」ということは、どのような事実を言ったことか、考えてみよう。
 四 ことばが実用的機能を発揮するには、その表現がどのように調整されなければならないかということは、この論文では、問題として提出されただけで終っている。その表現の調整ということにはどんなことがあるか、めいめい考えてみよう。》
といった設問を課しておられるのが興味深い。
 さてこの「言語の機能」を読んで驚くことは中学校の三年生に対して、「言語は、人間の表現、理解の行為であり、物を言うこと、本を読むことが、すなわち言語である。」と正面から時枝博士の言語過程観を語り、そこから進んで言語が生活と密接に結びつき生活を成り立たせる機能を述べていることである。そして博士は言語と生活との機能的関係を詳しく説き言語に実用的(手段的)機能、社交的機能、鑑賞的機能の三つの機能があることを指摘される。ところで、この言語の三機能についてであるが、これについて時枝博士はさきに「文学研究における言語学派の立場とその方法」(「国語と国文学」昭和二十六年四月号)という論文で詳細に説かれたことがあり、この時期東京大学文学部の「国語概説」の講義でもこうしたいわゆる国語学的でないことを講じておられたようである。この論文は今日国語学と国文学とは赤の他人のように遠くなっているが、もう一度近世国学のありようを思い出す必要があるというふうに出発し、言語過程観の立場から国語学は決して国文学の下部であってはならないという。そして大胆にも博士は文学は言語そのものであり、文学は言語以外の何ものでもないとする考えを述べられるのである。このように文学は言語以外の何ものでもないとして、この論文の第三、四項で言語の機能が何であるかを明らかにし、言語の重要な機能として、実用性(手段性)、社交性、鑑賞性の三つの機能があげられるとされたのであった。
 時枝博士は言語にはこのような三つの役目、機能があるとされるのであるが、次にそれらについて説明してみよう。まず実用的(手段的)機能というのは言語の最も根本的な機能であって、私たちがあらゆる生活を達成するためにその手段として表現されるもので言語はこの機能のゆえにあるといってもよいのである。たとえば万葉集、巻四〈マキノヨン〉の「夕闇は道たづたづし月待ちていませ我が背子その間にも見む」という歌は、大宅女が愛する男性を少しでも長く引き留めておきたいという切々とした気持を歌ったものである。この歌を聞いた男性は単に鑑賞するのではなく、彼女のもとに月の出を待ちとどまるであろう。そうするとこの歌は基本的に切実な実用性を持っていて、その手段として歌ったと解してよいのである。次は社交的機能であるが、これは人が他人と向き合っている際何も話をしないと気づまりなので、何か話題を見つけて話をしようとする。また客を招いて共に食事をし、そうすることによって主客の感情を和げ〈ヤワラゲ〉その雰囲気を楽もうとする。しかし、言語の社会性はこのような日常的なことだけではなく、文学にもあって、古今集における賀歌はそうした例である。次に鑑賞的機能であるが、これは言語がその本来の機能である実用性以外に表現それ自身が私たちの美醜、快不快の対象になるような機能をいう。たとえば万葉集、巻二〈マキノニ〉の「君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」という歌は本来鑑賞されるべきものとしてあるのではない。この歌は恋をしている磐姫皇后〈イワノヒメノオオキサキ〉があなたの旅は日数が重なった、迎えにいこうかひたすら待とうかと歌っているのであるが、こうした実用性と共に表現そのものの美醜快不快も問われている。それがより美であり快であるならばその実用性もより発揮されるわけである。【以下、次回】

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言語には三つの機能がある(時枝誠記)

2020-10-25 02:31:51 | コラムと名言

◎言語には三つの機能がある(時枝誠記)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十七 言語の機能」のところを紹介している。本日は、その二回目。

     二
 さて同じ『国語総合編中学校』のそのさきを見ていくと、『三年上』(昭和三十年)の単元文学の研究にやはり時枝誠記博士の「言語の機能――言語と生活との関係――」という文章が載っている。これは次に引くような「である体」で書かれた少し長い文章である。
《言語は、人間の表現、理解の行為であり、物を言うこと、本を読むことが、すなわち言語である。このように、言語を考えると、言語は、散歩をしたり、食事をしたりするのと同様に、人間の生活の一部分であると見ることができる。そこで、物を言ったり、本を読んだりすることを、言語生活と名づける。このような言語生活は、衣食住の生活や、学校での学習生活や、職場での生活などと並んで、私たちの一日の生活の大きな部分を占めている。それでは、この言語生活と名づけられる私たちの生活は、他のいろいろな生活とどんなふうに関連しているのであろうか、あるいは、何も関連がないのであろうか。このことは、言語について考える場合に、大切な問題になってくる。
 この問題を考えるには、もし、私たちの生活に、言語がなかったとしたならば、どういうことになるかを考えてみればよい。食事をするのに必要な食料品を買うために、店屋に行くとする。ほしいものがあっても、ことばがないとすれば、「肉を百匁ください。」ともいうことができないわけであるから、店に並んでいるものを、ただ黙って取ってくるか、それに書かれているねだんの通りに払って、品物を持ってくるかするよりほかに方法がないのであるが、ことばのない世界には、ねだんを書き表わすこともないであろうから、どうしてよいか困るにちがいない。また、たとえば、病気になって、医者にみてもらうとしても、どこが痛いか、気分がどんなかも説明できないのであるから、薬をもらったり、手当のしかたをきいたりするわけにもいかない。手まねや身ぶりで、やっと用が足せたとしても、医者が、薬を調合してくれるかどうかはわからない。ことばのない世界の医者は、きっと、必要な薬を仕入れることもしていないにちがいないのである。こうして、人間も犬やねこのように、日当りのよいところに横になって、静かに病気のなおるのをじいっと待つよりほかに方法がないのである。また、たとえば、雨の上がった夕方、外に出て見たら、空には美しい虹が出ていた。「不思議だな。」「あれはなんだろう。」と思っても、だれに尋ねることもできない。図書館に行って、本をしらべてみようかと思っても、ことばのない世界に、物理学の本など、あろうはずはない。
 ことばのない世界など、考えればゆううつになるばかりである。啞【おし】や、盲の人たちは、私たちと同じようなことばは持っていなくても、手ぶりや点字で、私たちのことばと同じように用を足しているのであるから、ことばのない世界に住んでいるとはいえないのである。ことばのない世界は、もっと暗い、もっと孤独な世界にちがいないのである。
 こう考えてくると、言語は、人間の世界にすばらしい働き、機能を持っていることが想像できる。人間は、生きていくために、動物のように、ただひとりで食物を捜し求めて歩きまわるのではなく、食物を供給する人がいて、必要なものを私たちに売ってくれて、それによって、私たちは生活することができるのであるが、その食物は、また、多くの人の協力によって、畑で耕され、工場で生産される。その協力は、何によってできるかといえば、全く言語の力である。人間が、部署を定め、仕事を分担し、製品を運搬し、売買するのは、社会の大きな組織であるが、その組織をつくり出すものは、言語であるといってよいのである。このようにして、言語は、生活と密接に結びつき、生活を成り立たせる機能を持っているのである。
 今日の社会は、物質文明のたまものである電気や機械によって運転され、精神文化の遺産である学問、芸術によってささえられているのであるが、それらの文明、文化は、今日突如としてできあがったものではなく、遠い昔からの人間の努力の蓄積の上に開花したものである。これらの蓄積が可能であるということも、人間が言語を持っているからにほかならないのであって、どのような発明も、どんな思想も、これをのちの時代に伝える言語の媒介がなければ、その人一代で終ってしまうのである。動物が文化を持たないのは、彼らが言語を持たないことがその唯一の理由であるといってよいのである。このように、言語が、私たちの生活を成り立たせる機能、言語が、生活の手段として行為される機能を、言語の実用的あるいは手段的機能と名づけることができる。
 私たちは、言語を、多くの場合に、生活目的を実現するために用いて、品物を注文したり、疑問を人に問いただしたりするのであるが、そのほかに、私たちは、実用的意味を離れて、人とことばをかわすことに、興味を持っている。それは、ただ、ことばをかわすことに興味があるのでなく、ことばをかわすことによって、自分と人との間に、ある結びつきができ、お互に心が通うと考えているのである。朝起きて、隣りの人と会ったとき、「お早うございます。」ということばをかわすことによって、お互の間に、あたたかい心が通うということは、だれでも経験することである。もちろん、この場合、ことばをかわさなくても、軽く会釈しただけでも、お互の心は結ばれるのであるが、ことばは、端的にその用を果してくれるのである。このようにして、私たちの社会には、朝晩のあいさつ、時候のあいさつ、吉凶【きつきよう】の際のことば、その他、その場合場合のお世辞などが発達してきたのである。これは、大にしては、国と国との間にも、団体と団体との間にもあることで、その根本は、人間は、お互に協調しなければ、その生存を全うすることができないということから出てくることである。「口もきかない。」ということがあるが、ことばもかけないということは、お互の感情が、疎隔してしまったことで、もし、その社会のだれからもことばをかけられなくなれば、もはや、その社会から追放されたも同然である。不和の間を仲なおりさせることを、「口をきく。」というが、言語が人間関係の構成に重要な役割を果すことを意味していると見てよいであろう。このように、言語が、私たちのお互の感情を融和させ、言語が、人間相互の結びつきとして行為される機能を、言語の社交的機能と名づけることができる。
 人間が、まだ、幸福につけ、不幸につけ、すべてを神にまかせ、その恩恵を祈願していた時代には、神に申し上げることばが、人間生活に重要な意味を持っていた。従って、その表現には、非常な苦心が払われた。神は、そのすぐれた表現をめでて、恩恵をたれたもうと考えられていたからである。祝詞【のりと】はすなわちそれである。神に申し上げることばばかりではない。人間同士の間でも、「物も言いようで角が立つ。」といわれているように、表現の巧拙から受ける快不快の感情は、そのことばの機能にも関係することで、言い方が悪かったために、実現すべきことも、実現せずに終ることは、決して珍しいことではない。表現をめでる気持は、神だけではないのである。言語が、その本来の機能である実用性以外に、言語それ自身が、私たちの快不快の感情の対象になるような機能を、言語の鑑賞的機能と名づけることができる。
 以上、私は、言語の機能を、実用的(手段的)、社交的、鑑賞的の三つに分けて観察してきたのであるが、この三つの機能は、多くの場合に併存しているのが普通で、ただ、ある表現については、実用的機能が主になり、また、ある表現については、社交的機能あるいは鑑賞的機能が主になっているというような相違が認められるのである。そして、それぞれの機能が、遺憾なく発揮されるには、表現がどのように調整されなければならないかということが、次の問題になってくるのであるが、ここでは、言語に三つの機能があることを指摘するにとどめておこう。》【以下、次回】

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「ことば」は知識や文学の宝庫を開く鍵(時枝誠記)

2020-10-24 00:04:01 | コラムと名言

◎「ことば」は知識や文学の宝庫を開く鍵(時枝誠記)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)の紹介に戻る。
 本日以降は、「第十七 言語の機能」を紹介してみたい。

  第十七 言 語 の 機 能

     一
 私はこの『時枝誠記研究』を書き進めるのに時枝誠記〈トキエダ・モトキ〉博士の記念碑となる著書はどれなのか論文はどれなのかと考えながら書いて来た。ここではそうしたものから少し離れて時枝博士がみずから書き中学校なり高等学校なりの教科書に収められた文章について考えてみようと思う。そうはいっても時枝博士というと読者はすぐ博士が書かれた文法教科書、たとえば中教出版株式会社から出た『中等国文法口語編』(昭和二十四年)、『中等国文法文語編』(昭和二十五年)や有名な教授用参考書『中等国文法別記口語編』(昭和二十五年)、『中等国文法別記文語編』(昭和二十六年)などを想起されるであろうが、しかし、私がここで取り上げるのはそうした文法教科書ではなく、やはり中教出版株式会社から出た国語教科書のそれである。時枝博士編の中学校の国語教科書『国語総合編中学校』を見ると、『一年上』(昭和三十年)の最初の単元ことばと生活には、博士の筆に成る「『ことば』と生活」という文章が載っている。これは次に引くような「です・ます体」で書かれた短い文章である。
《「ことば」は私たちにとっていちばん身近なものの一つです。道を歩いたり、食事をしたりするのと同じように、私たちは「ことば」を毎日繰り返して使っています。それだけにかえって私たちは、「ことば」が私たちの生活と深いつながりを持ち、また、私たちの生活の中で大切な役目を果していることを忘れがちです。工場で物が生産され、市場で物が売買され、学校で知識や技能が学習されるとき、「ことば」がどのような役目を果しているかを、考えてみましよう。私たちの生活にとって「ことば」がどんなに大切かということは、「ことば」のない生活を想像してみればわかります。
このように「ことば」は私たちの生活にとって非常に大切なものなのですが、しかし「ことば」の使い方がそれほどむずかしいとはあまり考えられていません。私たちは小さいときからいつのまにか「ことば」を覚え、そうして友だちと遊び、本も読み、また買い物もしてきたのです。しかし、時には、本を読むことや、手紙を書くことや、人の前で話をすることなどを、むずかしいと思ったことはありませんか。むずかしいことを、やさしくするにはどうしたらよいか。何をどう勉強し、学習すれば、本も読め、話もできるようになるか、それらを考えたとき、皆さんの国語の学習が始まるのです。
ある人が、いちばんやさしい「ことば」は何かと尋ねられて、それは、『はい』という「ことば」だと答えました。それなら、いちばんむずかしい「ことば」は何かと尋ねられて、それも、『はい』という「ことば」だと答えたという話があります。『はい』という「ことば」が、いちばんむずかしい「ことば」だということは、どういうことを教えているのか、考えてみましょう。
「ことば」が正しく使えなかったり、「ことば」を読みちがえたり、聞きちがえたりするのは、汽車や電車で、交通信号を誤るようなものです。交通信号を誤れば、危険なことが起るように、「ことば」のまちがいから、人と仲が悪くなったり、人に迷惑をかけたり、大事な用が足せなかったりすることが起ります。そのような誤りは、交通信号の誤りの場合とちがって、たいてい知らない間におかして、そのまま過ぎてしまうことが多いものです。交通規則を守ることが大切なように、「ことば」の規則や習慣を守ることに、細心の注意を払うようにし心がけましょう。
私たちは、知識や文学のたくさんの宝庫を持っています。そして、「ことば」は、その宝庫を開くかぎのようなものですから、どの民族でも、どの社会でも、自分の「ことば」を正しい「ことば」、美しい「ことば」に育てるように努力しています。皆さんは、国語の学習を通じて、そのかぎを自分のものにすることができるのです。》
 これは読まれるように中学生たちの生活に即してことばの役目をわかりやすく述べている。これが『国語総合編中学校一年上』のはじめに置かれているので、この「『ことば』と生活」によって新しく中学校にはいった生徒たちにことばについて考えさせようとするのであろうが、そこには【研究と練習】として、
 一 私たちの身近な生活で、「ことば」が大切な役目を果している例をいくつかあげてみよう。
 二 「ことば」がなかったとしたら、どんなことになるか、話し合ってみよう。
 三 必要な本がすらすら読めなかったり、人とうまく話ができなかったりすることがあるのはなぜだろう。
 四 どんなことを学習すれば、それがりっぱにできるようになるか、考えてみよう。
 五 「あしたまでに、これをやってきてください。」「きみもいっしょに行きませんか。」などと言われたとき、いつでも簡単に『はい』と答えることができるだろうか。
 六 「ことば」の誤りが、交通信号の誤りの場合とちがうというのは、どんなことだろう。
 七 「ことば」は、その宝庫を開くかぎのようなものです、というのはどんな意味か、話し合ってみよう。
というような設問が付されている。【以下、次回】

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桜花の初陣は昭和20年3月21日

2020-10-23 04:05:05 | コラムと名言

◎桜花の初陣は昭和20年3月21日

本日も、『日本軍用機の全貌』(一九五三)から。本日は、同書中の〝特別攻撃機「桜花」〟という記事を紹介したい。

  特別攻撃機「桜花」

 わが国の人命軽視を遺憾なく世界に表明して,連合国からBAKAという適切な名称を与えられた国辱的な特攻機である。太田大尉の着想にもとずいて海軍航空技術廠の山名技術少佐(当時)が主任となつて設計に当つた。11型及び22型の2種が製作されたが,11型は1式陸攻爆弾倉部分に懸架され,敵目標上空近くで母機を離れる1種の滑空機の型式を持つていた。母機を離れたのち,補助推進機関として装備された火薬ロケット,4式1 号を使用して,高速度をもつて目標に自爆するようになつていた。滑空状態の最大速度は大体463 km/h,ロケット動力使用時には649 km/hに達したといわれる。
 22型は主として銀河の下部に吊下されて敵地まで輸送されるもので,初風発動機(空冷4気筒で離界110hPのもの)で遠心式空気圧縮機を駆動し,燃焼用パイプを附加してジェットとしたツ-11型を主動力としていた。ツ-11型は推力200 kg程度で,燃料消費量は 毎時1200ℓであつた。最大速度は426 km/h 位で,航続力は自力で93km足らず,時間にしてI5分位であつた。
 22型は全長6.88mで11型の6.07mより長いが,全幅は4.1mで11型の5.0mより小さかつた。爆装については,11型では800kgであつたのが,22型では600 kgとなつていた。両型とも爆装は機首になされ,機首尖端に信管を設けて,命中と共に爆発するようになつていた。
 両型とも生産は第1技術廠(空技廠〔海軍航空技術廠〕が20年2月に2つに分割され,追浜〈オッパマ〉のが第1,横浜市磯子区金沢のものが第2技術廠となつた)その他の軍工廠で製造された。11型の生産は755機,22型は約50機で終戦となつた。この他20年4月に計画され始めた43型がある。この型は米機動部隊の防空陣が強固で1式陸攻や銀河による接近が極めて困難となつたので,特攻機自体に若干航続力(要求は100浬〈カイリ〉以上)を持たせて,目的を果す意図であつた。また弾幕や敵戦闘機の阻止を突破するため,22型より幾らか速度を増す(計画では519km/h)予定で,推力475 kg位のネ-20ターボ・ジェットを動力とすることになつていた。爆装予定量は800 kgであつた。この43型は愛知で研究中試作完成前に終戦となつた(完成試験中の説もある)
 実戦に使用されたのは11型のみである。
 実戦記録 桜花の初陣〈ウイジン〉は昭和20年3月21日,九州沖海戦の最終日で,この日早朝の策敵で,都井崎の145度320浬附近を南下中の敵機動部隊2群を発見した彩雲が,空母は3隻だが換備艦らしく低速で上空警戒機もいないと報告した。今こそ神風(桜花)攻撃の好機と判断した第5航空艦隊長官は直ちに神風部隊に出撃を命じ,野中少佐の指揮する陸攻18機(桜花搭載16)は午後1時半鹿屋〈カノヤ〉を出発した。この桜花を積むと陸攻の速力や上昇力も減るし,運動性も軽快を欠くので,充分な戦闘機をつけてやらなくては危くて使えないという厄介な代物〈シロモノ〉だつた。この日も55機の戦闘機を掩護につけるように発令されたのだが,連日の戦闘で整備が間に合わず,出たのは僅かに30機,午後2時20分頃,米艦隊から約60浬の地点でグラマン約50機の邀撃を受け,攻撃隊は桜花を捨てゝ応戦したが,僅々10数分で全滅の悲運に逢つた。その後桜花は集団的の使用を止めて,沖縄周辺の敵艦に対して単機または少数機で,月明,薄暮,黎明等敵戦闘機の活動が制限せられる時期に使用して奇効を奏したことがある。

 特別攻撃機「桜花」は、「自爆」を前提とした「特別攻撃機」であった。連合国側は、これを「BAKA」と称したというが、その彼らにとっても、これが恐るべき兵器であったことは間違いない。
 ウィキペディア「桜花(航空機)」によれば、桜花への迎撃が困難と見たアメリカ軍は、母機である一式陸攻を最優先攻撃目標として攻撃するよう、全軍に徹底したという。
 一九四五年(昭和二〇)七月一六日の平塚市空襲は、市街の八割を焼いたが、これは、アメリカ軍が、同市で特攻機「桜花」の研究ないし生産がおこなわれていると見たからだともいう(平塚の空襲と戦災を記録する会編『市民が探る平塚空襲 通史編Ⅰ』平塚市博物館、二〇一五)。
 特別攻撃機「桜花」に関する文献を読んで、今日の私たちが驚かざるをえないのは、当時の日本が、11型を755機、22型を50機も完成させ、その一部が実戦に使われていたという事実である。これだけの数の特別攻撃機が作られたということは、それらを操縦でき、かつ自爆をいとわなかった戦士が、その数以上に存在したことを物語る。今となっては信じがたいことだが、これが戦争というものの「真実」なのである。
 明日は、時枝誠記の話に戻る。

*このブログの人気記事 2020・10・23(9位になぜかロッキー)

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2式複座戦闘機「屠龍」、敵艦船に体当り攻撃

2020-10-22 01:36:55 | コラムと名言

◎2式複座戦闘機「屠龍」、敵艦船に体当り攻撃

 二〇一七年の六月二二日から二四日にかけて、当ブログで、『日本軍用機の全貌』(一九五三)という本を紹介したことがあった。数日前、久しぶりに、この本を手に取ってみたところ、二式複座戦闘機「屠龍」について紹介している〝2式複座戦闘機「屠龍」〟という記事があった。
「屠龍」については、本年の八月二〇日以降の当ブログで、紹介したことがある。そこで本日は、この〝2式複座戦闘機「屠龍」〟という記事を紹介してみたい。

  2式複座戦闘機「屠龍」
    (Cキ-45改)

 昭和12年〔1937〕3月,陸軍は双発複座戦闘機の研究試作を川崎航空機に下命した。これはキ-38と名附けられ,同年10月には詳細なモックアップが完成して基礎設計も終了していたが,軍はこの結果にもとずいて,新たに同年12月,キ-45の新名称による双発複座戦闘機の設計試作を命じた。しかし当時は未だ軍においても軽単座戦闘機による巴戦式の空戦思想が根強い折から,この新複座重戦の性格に関して部内でも意見対立して仲々まとまらず,会社側でも基礎設計を纏めるのに相当苦心をしたようである。
 本機のような双発形式,しかも空冷発動機の装備は川崎としては最初であるので,設計,製作上に種々の難関があつたが,昭和I4年〔1939〕1月,第1号機が完成して処女飛行が行われるまでになつた。ところが本機の脚はギヤ及びチェーン使用による機械的手動式引込脚を使用したところ,この機構が非常に不具合で,その上発動機が当時試作の域を脱しない中島ハ-20乙を装備していたため充分な調子が出ず試験飛行はなかなかはかどらなかつた。同年5月に完成した第3号機からは脚を電動引込式に改良したため,幾分この不具合は除去することができたものの,発動機の不調はどうにもならなかつた。その上,本機の大きな欠点の一つであるナセルストールの問題の解決には相当手を焼いたようで,一時は苦肉の作として,川崎発動機工場でハ-20乙の改造型を試作して左右プロペラを逆回転しようとしたが,軍が,ハ-20乙を採用しないことに決めたため,この計画はお流れとなり,結局ナセル附近の翼面に小さなスリット(隙間)を設けて,幾分これを防止し得た程度であつた。
 あれやこれやで,約1年も審査が続けられたが,充分な性能は出ず,これに引掛つて再び軍部内の重戦に関する懐疑思想が再燃し,徒に〈イタズラニ〉日が流れるばかりであつた。会社側では完成した3機の試作機のほかに,9機の増加試作に着手していたが,このような状況下に遅々としてはかどらなかつた。
 15年〔1940〕4月に至つて発動機をハ-25(海軍の栄)に換装することが決し,これを装備した7号機は7月に初飛行した。ところが第1回飛行で離陸直後,カウルフラップを全開して上昇に移つたところ猛烈なナセルストールを起し,辛うじて着陸したもののプロペラ,脚,翼端等を破壊してしまつた。しかし昼夜兼行の修理により8月末に再飛行した時には大した問題は起らなかつたので,既に完成していた4,5,6号機も同発動機に換装した。そしてこれらの結果にかんがみ,同年10月にキ-45改として、その第2次性能向上機の試作並に整備機の生産が命じられた。
 キ-45改は原型の短く丸い機首を鋭く延長し,また胴体下部右側に37mm機関砲を外装するための凹みを設けたりした外見上の変化以外に細部構造にかなりの改良がみられ,16年〔1941〕9月に第1号機完成,引続き岐阜工場において2式複座戦闘機として整備機生産を開始,明石工場でも17年〔1942〕9月の初号機完成を手始めに量産が続けられた。その後さらに発動機はより強力な三菱製のハ-105に改装され,性能も信頼性も更に向上した。
 太平洋戦の前半には主として南方地域で活躍したが,昭和19年〔1944〕以後13mm斜め銃――陸軍では上向銃と称した――を背負つて陸軍唯一の夜戦〔夜間戦闘機〕として海軍の月光と並び,本土防空に奮戦した。試験機としては種々の改装機があるが,中でも機首を延長して木製枠の所のプレキシグラス張りの中に,レーダーを装備したりしたのは,珍しいものの一つであろう。機首の武装は12.7mm機銃2門と20mmもしくは37mmの機関砲を組合わせた種々の形式があり,その重武装を利して対地,対船舶攻撃用としても有効であつたといわれる。昭和20年〔1945〕初頭まで生産は継続し,総計約1700機であつた。
 実戦記録 昭和19年5月27日,ニューギニア北岸沿いに進撃する敵が,ビワク島のわが守備隊に猛攻を加えたとき,高田勝重少佐の直率するわが戦闘機4機は,友軍の危急を救うべく,ビワク島南岸の敵艦船に体当り攻撃を敢行し飛行機諸とも,肉弾を以て敵艦を轟撃沈した。
 この壮烈極まる攻撃精神は,たちまち全軍に伝えられ,特攻の先駆となつた。この戦闘機こそは2式複座戦闘機であつた。 
 本機はもともと,掩護戦闘機として誕生したものであるが,防空戦闘機,特に夜間防空に主用された。昭和19年6月15日夜,中国大陸から,B-29が北九州に来襲したとき飛行第4戦隊〔小月〕の本機8機は,これを邀撃〈ヨウゲキ〉して7機(内3機は不確実)を撃墜した。
 東京防空のためには,飛行第53戦隊(所沢に配備),中部地区の防空のためには飛行機第5戦隊〔清洲〕が,本機で装備されて活躍した。
また、ラングーン,パレンバン,ハノイ,鞍山〈アンザン〉等の防空にもこの飛行機が活躍した。

 文中に、「ナセルストール」という言葉が出てくる。ナセルは、エンジンの筐体、ストールは失速のことで、ナセルストールとは、エンジンの位置や、筐体の形状に由来する失速を意味する。一般に、双発機には、このナセルストールが生じやすかったという。
 また、文中に、「体当り攻撃」の話が出てくる。いわゆる「特攻」である。その先駆となったのが、「屠龍」という航空機であったことは、記憶しておいてよい事実であろう。

*このブログの人気記事 2020・10・22(8位に極めて珍しいものが入っています)

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