礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

火野葦平「歴史の歩み」(1944)を読む

2021-04-25 02:40:21 | コラムと名言

◎火野葦平「歴史の歩み」(1944)を読む

 先日、神保町の某書店の店頭で、貴司山治編『勤王史蹟行脚』(鶴書房、一九四四年九月)を買い求めた。古書価一〇〇円(税込)。
 この本は、六名の作家が「勤王史蹟」を探訪した記録を集めたもので、その目次は、次の通り。

勤 王 史 蹟 行 脚
 大 和 の 巻       大 佛  次 郎
 水 戸 の 巻       貴 司  山 治
 長 州 の 巻       火 野  葦 平
 土 佐 の 巻       海音寺潮五郎
 京 都 の 巻       尾 崎  士 郎
 薩 摩 の 巻       村 松  梢 風

 ざっと読んでみたが、火野葦平の長州の巻「歴史の歩み」が、特に良かった。本日は、その最初の節「前田砲台址に立つ」を紹介してみたい。

 勤王史蹟行脚の三   〔長州の巻〕 
      
    歴 史 の 歩 み     火野 葦平

     前田砲台址に立つ
 長府行電車〔山陽電気鉄道〕のあがり口に白い一銭が一枚落ちてゐた。途中の停留場から乗りこんで来た三人づれの魚屋のおかみさん風の女の一人が、ここにお金が落ちとりますよと車掌に教へた。すると若い車掌はつけつけした声で、いらん心配せんで早よ乗んなさいといつた。おかみさんは、教へてやつておこられたと笑ひながら、私の横に来た。私はその前垂〈マエダレ〉姿のおかみさんに、前田台場の位置をたづねた。おかみさんは口で地図をかくやうにしながら丁寧に教へてくれた。それから、下関は歴史の多いところでしてな、といひ、電車が壇之浦岸に沿つて走りながら、御裳川〈ミモスソガワ〉の橋に来ると、平家がここで亡びなさつたさうなといつた。電車の窓から海岸寄りに、「壇之浦台場址」といふ立札が見えた。 
 前田で降りる。天気はよいが強くつめたい海風が吹きつける。道傍で独楽〈コマ〉をまはして遊んでゐる子供たちにまた場所を聞く。石垣のうへだといふ。十段ほどの石段を道路から登る。そこに「前田御茶屋台場址」の花崗岩の碑が立つてゐる。そこから狭い路を抜けて、だらだら坂をあがると一軒の家の前に出た。紀元節なので旗が出てゐる。すぐに門の柱に「誉の家」の札があるのが目についた。垣が張りめぐらしてあつて、台場址はどうもこの家のなかにあるらしい。勝手口から入り、案内を乞ふと、朴訥な風情の老年の女のひとが出て来た。
「前田台場を拝見したいのですが。」
 別に前田台場がこの家の所有でもあるまいが、家のなかにあるらしいので、さういはねば仕方がない。
 老媼は、かへつて向ふが恐縮したやうに、へり下つた口調で、そこの道をまつすぐ行きましてから、谷にかかつた小さい木橋をわたつて、細い坂道をすこし上りますと台場へ出ます、と教へてくれたが、話の途中から、下駄をつつかけて、案内に出る様子である。もうわかるからといふのに、こつちは大体裏道で、もとは表から上れよつたのですが、崖が壊え〈ツイエ〉ましたので、とすまなささうに弁解しながら、二町ほどの山道をすぐ台場の下までついて来てくれた。家は瀟洒な凝つた建物で、貝島の別荘といふことである。誰もゐず、戸はすべて閉められてゐる。老媼は別荘番で、名を増岡ヒデさんといつた。息子が出征をしてゐるといふ。私はいつしよに落葉の散りしいた森林の路を行きながら、かういふやうな素朴で親切な鄙びた昔の人といふものはだんだん減つて行くと思つた。
 足の下で踏みつぶされる松かさがはじける音を立てる。昔のままの道であらう。この道を台場へ通ふ当時の兵隊たちがたえ間なく往来したであらうし、このあたりで西洋の兵隊とはげしく闘つたのであらうなどと、その当時のありさまを頭に描きながら、曲りくねつた細い山道をのぼる。
台上に出ると、林を透して、遽か〈ニワカ〉に眺望が展けた。台場のあつたといふところは、二間四方くらゐの広さにセメントで塗りかためられてあるが、位置を示すために、おそらく後になつて作つたものにちがひない。起伏に富んだ九州の山々が対岸に望まれる。関門海峡はきらきらと眩しく光る。行き交ふ多くの船。海から来る風に周囲の林がたえ間なく波の音のやうに鳴る。
 私は松風のなかに立つて、海に対しながら、無量の感慨に捕はれる。歴史といふものの推移のはげしさが、巨大な重量のごとく、私のうへにのしかかつて来る。現在、大東亜戦争の決戦下にあつて、世界を睥睨してゐる今日の日本の黎明が、まだ百年にも満たない前、この関門海峡の一発の砲声から起つたのである。まことにこの地は、尊王攘夷の大義の発祥地であつた。国内においては、諸説紛々として議の定まらぬとき、攘夷決行の期日と定められた当日、文久三年五月十日、長州では敢然として米国商船ペンブローク号を砲撃した。ついで、二十三日には仏船を、二十六日には蘭船を、といふ風に、片端から、関門海峡を通過する外船を砲撃した。これにしたがつて、長州戦争、外国連合艦隊の下関攻撃などの騒擾が起り、その危急の間にあつて、剽悍な長州の志士たちの心の底には、いよいよ勤皇尽忠の決意が火となつて燃えあがつたのである。【以下、略】

 文中、「貝島」とあるのは、貝島炭鉱、もしくは、その創業者・貝島太助のことであろう。
 火野葦平の「歴史の歩み」は、何よりも文章が良い。また、「大東亜戦争の決戦下」、下関の前田台場址に立って、幕末以来の日本史を回顧するという設定も良い。
 文久三年に下関で放たれた攘夷の一発は、巡り巡って、「大東亜戦争」という攘夷の決戦に到ることになった。前田台場址に立った火野葦平は、その間の「歴史の歩み」について、何をどう考えたのだろうか。「尊王攘夷の大義」を確認したのみではなかった、と思いたいところである。

*このブログの人気記事 2021・4・25

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尾佐竹猛所蔵の写本は戦災で失われた

2021-04-24 05:53:30 | コラムと名言

◎尾佐竹猛所蔵の写本は戦災で失われた

 昨日は、『福沢諭吉全集』第20巻(岩波書店、一九六三)に拠って、「長州再征に関する建白書」の全文を紹介した。同巻同文献のあとには、校訂者による次のような「註」がついている。

〔註 慶応二年幕府の長州再征に際し幕府の当路者に提出した建白書である。慶応義塾図書館架蔵の写本に拠る。文中数ヶ所に「奉存候【御座候】」とあるのは写本のまゝである。写本の最後に「誠に急卒被[為]写候故御推覧被下候/良哉/嘉一郎君」と記してある。この「良哉」は緖方塾以来の福沢の親友山口良蔵のことで、彼は良齋又は良哉と称したことがある。「嘉一郎」は紀州藩の有力者岸嘉一郎〈キシ・カイチロウ〉で、このとき山口は紀州藩に雇はれてゐた。この文書には別に尾佐竹猛〈オサタケ・タケキ〉所蔵のもう一つの写本があり、それは幕府の外国方関係筋で作られた写本と覚しく、右の文末の「昨年八月中より」以下に、昨年八月中より書き記した「西洋事情」と題する一本を写させて添附するから御覧願ひたいといふ意味の文言が記されてあつた。惜しいことに尾佐竹本は戦災に失はれて今は見る由もないが、その「西洋事情」とは本全集第十九巻一七六頁に収めた写本「西洋事情」のことであらう。〕

 ここに、「奉存候【御座候】」とあるのは、「奉存候」の右側に「御座候」と書かれているという意味である。
「被[為]写」の[為]は、「写させ」と読ませるのであれば、「被写」ではなく、「為写」でなくてはならないということから、校訂者が施した註であろう。
『福沢諭吉全集』第20巻所収の「長州再征に関する建白書」には、句読点が施されている。しかし、この手の候文には、句読点がないのが一般的である。ここに施された句読点は、福沢自身によるものではなく、校訂者によるものであろう。
 ちなみに、福沢諭吉の文章は、初期のものから晩年に書かれたものまで、ほとんど句読点がない(『福翁自伝』には句読点があるが、これは、口述を筆記したものなので、例外とする)。『福沢諭吉全集』に収録されている福沢の文章には、句読点があるが、これは原則として、校訂者によるものである。
 この点に関して、『福沢諭吉全集』第1巻の巻頭にある「凡例」には、次のような一項がある。
 
一、福沢の文章には原則として句読点がなく、口調を強める場合や読み誤られる虞のある場合に限り、僅かにゴマ点が施されてゐるだけであるが、本全集では今日の読者の便を慮つて、校訂者の責任に於て、すべて句読点を施した。

 ここで、「ゴマ点」とは、いわゆる読点「、」のことである。
 ところで、「長州再征に関する建白書」は、その一部に、「ふりがな」が施されていた。そのうちの多くは、校訂者によるものと判断されるが、「弁理公使」に施されている【ヂブロマチーキアゲント】という「ふりがな」については、福沢自身が施した「ふりがな」である可能性が高い。
 また、この文献には、一部で「闕字」(特定の語の前を一文字あけること)が用いられている。これは、原文にあったものであろう。
 当ブログでは、このあと、この「長州再征に関する建白書」を、何回かに分けて、注意深く読んでゆきたい。ただし、明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2021・4・24(10位に珍しいものが入っています)

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福沢諭吉「長州再征に関する建白書」の全文

2021-04-23 00:27:31 | コラムと名言

◎福沢諭吉「長州再征に関する建白書」の全文

 本日は、福沢諭吉の「長州再征に関する建白書」を紹介したい。これは、慶応二年九月に、幕府に向けて建議したものである。引用は、『福沢諭吉全集』第20巻(岩波書店、一九六三)より。漢字を新漢字に直したほかは、ほぼ、全集の表記に従っている。

   〔長州再征に関する建白書〕

 先年外国と御条約御取結に相成候以来、世間にて尊王攘夷抔虚誕の妄説を申唱候。之が為め御国内多少の混雑を生じ 廟堂の御心配不少義に候得共、畢竟其の趣意は 天子を尊候にても無之、外国人を打払候にても無之、唯活計なき浮浪の輩衣食を求候と、又一には野心を抱候諸大名 上の御手を離れ度と申姦計の口実にいたし候迄の義にて、其證跡顕然に付別段弁明仕候にも不及候義に奉存候【御座候】。然る処諸侯の内第一着に事を始め反賊の名を取候者は長州にて、彌以此度御征罰【伐】相成候義は千古の一快事、此御一挙を以て乍恐 御家の御中興も日を期し可相待義、誠に以難有仕合に奉存候。実は三、五年以来 廟堂にても内外の御配慮にて十分の御処置御施行難被遊御場合も被為有、或は因循姑息抔と巷説も有之候義にて竊に切歯罷在候処、此度長賊御征罰の義は天下の為め不幸の大幸、求ても難得好機会に御座候。何卒此後は御英断の上にも御英断被為遊、唯一挙動にて御征服相成、其御威勢の余を以て他諸大名をも一時に御制圧被遊、京師をも御取鎮に相成、外国交際の事抔に就ては全日本国中の者片言も口出し不致様仕度義に奉存候。就ては此度御征前の義に付固より帷幄の御勝算被為在候を可奉伺にも不及義、私抔にて別段建白可仕筋万々無御座候得共、未曽有の御盛挙を感激仕候余り、心附候二、三条左に申上候。
      第一条 長賊外交の路を絶其罪状を万国へ嗚候事
 長賊の本意は前段にも申上候通り最初より尊王攘夷抔申唱候得共全く口実迄の義にて、一昨年下の関一敗以後も頻りに外国人に近き、遊説の書生をも海外へ派遣し、下の関其外に於ても外国の姦商呼集、密に貿易いたし、武器等も多分買込候由、尤密買御制禁の義は御条約面の明文も有之、在留ミニストルにおゐても急度可指留筈、既に昨年中英国ミニストルよりも自国船舶へ布告文相触候義も御座候得共、利を貪候姦商の義、一と通り布告文抔にて其弊を防候義出来申間敷、尚又此節長州も必死を極候儀に付、益々悪策を運らし候は必然の義、或は武器を買入れ、或は金を借用いたし、甚しきは外国浮浪の徒を頼み、外国船をも雇入れ、支那長毛賊の轍に效【なら】ひ、如何様の事件を生じ候哉も難計、此義最も可恐義に奉存候【御座候】。就ては此度長防近海へ御軍艦数艘被指遣、二州海岸へ近寄候外国船は御指留、若又賊より小舟抔にて外国船へ近寄候義も有之候はゞ、直に御召捕に相成候位に厳重に御取締相立候様仕度、既に両三年前合衆国内乱の節も、英国より南部の賊え竊に「アラバマ」と申軍艦を指送り、其外武器等も遣し、之が為め北部にて大に困却いたし候先例も有之、旁以此度長州にて外交いたし候様相成ては、不容易御後患を醸し可申、格別に御用心被遊候様仕度義に奉存候【御座候】。将又長州【賊】の罪を嗚らし海外へ御布告被成候義は、今般十四ヶ条の罪状各国ミニストルえ御達しにも相成候得共、前段申上候通り長州よりも遊説の書生をも海外へ指遣候義に付、此者どもは自国の為筋のみを謀り、牽強付会の説を主張し、百方弁論して御国政府の御処置を誹謗仕候は必然の義、殊に近来は新聞紙抔に大名同盟等申説を唱候徒党有之、右は此迄政府の御処置を満足に不心得、由て唯今の御条約を廃し、諸大名を同盟為致、日耳曼列【ぜるまん】国の振合にて新に同盟の諸侯と条約可取結と申趣意にて、英公使パルクス抔も内実は其説に心酔いたし居候哉の趣、尚又薩州其外諸家よりも御遊学生多人数海外へ罷越居候其者共、何れも大名同盟説に可有之に付、長州の者どもも彼国におゐて自ら依頼いたし候処も有之、右書生輩と申談じ、多方に遊説いたし又は新聞紙等へ専ら同盟の説を弁論仕候はゞ、一時欧羅巴【よーろつぱ】の人心を傾け、各政府の評議も之が為め変動いたし【す】間敷とも難申、万々一右様の義御座候ては、御家の御浮沈は申迄も無之、全日本国内争乱の基を開き、四分五裂、再び挽回すべからざるの形勢と相成、其禍災の大なるは此度長州一国の叛逆抔と同日の論に有之間敷奉存候間、速に御預【ママ】防の御処置無之ては相成申間敷、就て熟考仕候に、今般各国都府へ弁理公使【ヂブロマチーキアゲント】御指遣相成候様仕度、一体弁理公使の義は、条約済各国の間互に壱名づゝ指遣し、交際の事務取扱候一般の振合にて、御国にても御条約御取結後直に可被指遣筈の処、今日迄御延引相成、就ては御国の情実各国政府へ相達候にも、唯在留のミニストルのみの手を経候義に付、自ら行違の出来候も難計、且各国と同等の御交際におゐて御不体裁にも有之、右の次第にて自然各国の人心御国を以て自国同等の政府の様不心得、或は新に条約を可取結抔の説も起候義に付、今度英仏亜魯等へ在留の公使御指遣、御交際の事務直に彼国政府へ談判いたし候様相成候はゞ、万事御懸合向行届候は勿論、各国同等の御体裁相備り、自ら諸外国人心の向ふ所も定り、遊説書生抔の浮説に疑惑不致様可相成奉存候。前段の通此度各国弁埋公使被指遣候上は、御交際向万端御都合宜敷、御国の情実も彼国政府へ貫通いたし候義に御座候得共、西洋各国何事によらず議論の宜敷風習にて、殊に新聞紙の説抔は虚実難指定、其説を以確證とも難致とは申ながら、世間皆文を重んじ、其大論に由ては一時政府の評議をも変じ候程のものに付、前段諸家より遊説の者共、新聞紙に力を用ひしは必然の義に付、弁理公使御指遣の節は新聞紙布告の義別段被仰渡、彼地に於て専ら政府の御趣意を弁明布告いたし、大名同盟の説を論破候は勿論、此度長賊の罪状抔も、事【手】を替へ品を改め、新旧の罪悪、些細の事までも条挙件説、日々出板いたし、遂に世界中の人をして周く長州の罪を悪ましめ、長に近く者は世界中の栄誉面目を知らざる者と申唱候様仕度、就ては右弁理公使御指遣相成候とも、三、五日の間に御評議決にも相成間敷に付、不取敢横浜表にも内々御人被指遣、前段の御趣想にて頻に長州の罪を鳴らし、政府の御趣意を主張いたし、同所新聞紙を以て布告仕候様取計、尚又当時荷蘭【おらんだ】国露西亜【ろしや】えも伝習罷越居候面々へも、時々御用状被指遣【立】、新聞相添へ、彼地おゐても布告の義被仰遣候様仕度奉存候。
      第二条 内乱御鎮圧に付外国の力を御用相成度事
一、此度長州御征罰に付ては、彼方おゐても二ヶ年の間竊に武備相整、軍器軍法とも不残西洋流にいたし、且国民必死を以て官軍へ御敵対いたし候義に付、中々小敵には無御座、既に井伊榊原敗走の実験も有之、諸大名和流の兵幾万人有之候とも有名無実、迚も御用には不相成候事に御座候。就ては上の御人数も歩兵竝に大砲兼て熟練はいたし候義には候得共、賊は必死の地を守り防戦いたし、且武器の利も有之、主客の勢、唯今の処にては乍恐一時の御成敗如何可有之哉、深心配仕候義に奉存候【御座候】。右の次第に付格別の御英断を以て外国の兵御頼相成、防長二州を一揉に取潰し相成候様仕度、尤外国の兵を御借被成候は人心に指響き、且は御入費も莫大との御掛念も可被為有候得共、人心不居合と申は太平の時為指源因も無之に不計世間の騒立候事も可有之哉とて恐れ候得共、現今御国内の戦争に及候義、此より外の御掛念は有之間敷、則人心不居合の極度に御座候間、最早此上は世間の雑説に御動揺不被遊、唯兵力を以て御国内を御制圧被遊候様仕度、総て名義と申は兵力に由り如何様にも相成候事にて、光秀が信長を弑候得ば直に光秀へ将軍宣下、又秀吉が首尾能く光秀を誅し候得ば則豊臣家の天下と相成、 天子も之を称し世間にても之を怪候者無之、何れも皆兵力の然らしむ所にて、既に此度長賊の官軍え奉対苦戦仕候も、万一勝利を取らば京都へ伐ていで、朝敵の名を勤王に変じ、恐れ多くも官軍え朝敵の名を与へ候目論見にこそ可有之、右の次第に付、朝敵と云ひ、勤王と云ひ、名は正しき様に相聞候得共、兵力の強弱に由り如何様とも相成候ものにて、勅命抔と申は羅馬【ろーま】法皇の命と同様、唯兵力に名義を附候迄の義に御座候間、其辺に拘泥いたし居候ては際限も無之次第、況して此度の御征罰は天人共に怒る世界中の罪人、御誅伐被遊候御義名実共に正しく、何一の御掛念も不被為有義に付、断然と被為思召、外国の兵を以て防長御取潰し相成、其上にて異論申立候大名も、只々直々其方へ御簱被為指向、此御一挙にて全日本国封建の御制度を御一変被遊候程の御威光相顕候様無御座候ては不相叶義に奉存候。将又外国の兵を御雇ひ武器御買上に付て御入用の御掛念も可被為有候得共、此亦少しも御心配に不及義に奉存候。其子細は唯今防長二州の入高を年々百万俵と致し、金にして凡二百万両に御座候。此度御取潰相成、以後永久二百万両の御益有之候得ば、唯今弐千万両の金を御借用被成候とも、利分を払ひ二拾年の後は皆済可相成、尤弐千万両の大金を即時御入用にも有御座間敷、且御国は西洋諸国と違ひ兼てより国債の御法無之に付、一時に大金を御集相成候には御不都合に候得共、征長御片附の上は年々二百万両の御益有之候と申義、前以て御見拓相立候得ば、外国え雇兵の御掛合にも御手心有之義に付、何程御盛大の義と被思召立候とも、御入用の御指支の義は絶て有之間敷、一体西洋諸国にては国債と申もの有之、英国抔にても千八百六十二年には八億九千万ポンドの国債有之、其年政府の入高は僅七千万計に候得ば、一ヶ年七百両の取前にて八千九百両の借財有之候割合に御座候。左候得ば日本政府は世界中にて最も富饒の御身代に【か】と奉存候。
   右申上候愚見の趣、御一覧の上御採用可被成下廉も御座候はゞ難有仕合奉存候。尚又内外御照合の為め昨八月中より〔以下欠〕
                      福 沢 諭 吉 建 言

「長州再征に関する建白書」というタイトルは、同全集同巻の編集者によるものか。なお、この文献についての校訂者の「註」、福沢諭吉全集の校訂方針などについては、次回。

*このブログの人気記事 2021・4・23(9・10位に珍しいものが入っています)

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表紙には敷島の大和心を象微する桜花を

2021-04-22 02:13:10 | コラムと名言

◎表紙には敷島の大和心を象微する桜花を

 日本文学報国会編纂『古事記・祝詞・宣命』(国民古典全書第一巻、朝日新聞社、一九四五年一月)の附録「国民古典全書通信 第一号」を紹介している。
 本日は、その第四ページにある「編輯室より」、および「第一巻訂正表」を紹介したい。

    編 輯 室 よ り

□ 中央公論社の自発的廃業により、「国民古典全書」の刊行は本社出版局の手に継承せられることとなり、決戦下の諸制約を乗り切つて、漸く茲に第一巻を配本する運びとなつた。各位の熱烈なる御声援を得て後世に遺すに足るものとなつたのは、一つにはわが国力の頼もしい余裕を示すものでもあつて、御同慶の至りである。
□「古事記」は従来本居宣長の古事記伝がその侭踏襲されてゐたのであるが、今回沢潟〔久孝〕博士により、これに画期的な修正が加へられた。また次田〔潤〕・金子〔武雄〕両氏の「祝詞」「宣命」も夫々多年研究の結実を傾注されたものであつて、例へば宣命の本文の如きも宮内省図書寮本を直接照合し、国史大系本の誤謬を改めた点が少くない。斯くの如く一文字・一句読点をも忽せにしない担当諸氏の学術報国の熱意は、本全書の真価を彌〈イヤ〉が上にも高めずには措かぬであらう。
□装釘は芸術院会員香取秀眞〈カトリ・ホツマ〉氏の御苦心によつで、表紙には敷島の大和心を象微する絢爛たる桜花を、包紙にはゆかり深い各方面の蔵書印を捺し国民古典の名に相応しい〈フサワシイ〉佳品を得た。
□本全書の編輯に関しては、日本文学報国会の編纂実行委員、池田亀鑑〈キカン〉、塩田良平、暉峻康隆〈テルオカ・ヤスタカ〉(現在応召中)、久松潜一、藤田徳太郎の五氏に、終始懇切な御示教を仰いだことを記し、厚く謝意を表したい。
□最近日本出版会で特別行為税を含めた許可価格の制度が作られ、本全書もそれに拠ることとなつて、第一巻は五円(税込)と決定した。従つて最初の発表とは変更になつたが、困難な時局下に出来る限りの低廉を期した次第、御諒承を乞ひたい。なほ、この価格は各巻頁数等により不同となつてゐる。
□第一巻の初刷一万部は日配〔日本出版配給統制株式会社〕で購読申込票による優先配給を行つたが、本社では多数読者の需要に応じて、予約扱ひにせず単行本扱ひとして増刷の予定であり、この分は一般の市販に供される。なほ、この度入手された向〈ムキ〉は、なるべく一人でも多くの読者に閲読の便をお与へ下さるやう御配慮を願へれば幸甚である。
□第二回配本は武田祐吉博士担当の「日本書紀上巻」の予定で、校正進捗中である。第一巻同様厳密な校訂にかかる原文と書き下し文とを併せ載せ、その訓法は特に古代語法に拠つて統一し、平易周到な解説・頭注を加へたものである。
   ……………………………………………
      第 一 巻 訂 正 表
  頁     行     誤        正
 一六    一〇    當藝志美美耳命  當藝志美美命
一九九     九    飯女之王     飯女之子
五三九     一    澎海国      渤海国 

 明日は、福沢諭吉「長州再征に関する建白書」の紹介に移りたい。

*このブログの人気記事 2021・4・22(10位の塙次郎暗殺は久しぶり)

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苛烈なる戦局下、幾多の困難が予想せられる(朝日新聞社出版局)

2021-04-21 01:53:52 | コラムと名言

◎苛烈なる戦局下、幾多の困難が予想せられる(朝日新聞社出版局)

 昨日のブログでも触れたが、日本文学報国会編纂『古事記・祝詞・宣命』(国民古典全書第一巻、朝日新聞社、一九四五年一月)には、「国民古典全書通信 第一号」と題する附録がはさまっていた。
 ふたつ折り全四ページだが、その第一ページには、朝日新聞社出版局による「第一巻発行に際して」という挨拶、および、久松潜一の「国民古典の意義」と題する文章が載っている。本日は、このうち、「第一巻発行に際して」を紹介してみよう。

   第一巻発行に際して

 日本文学報国会編纂にかかる「国民古典全書」の刊行は、第一期五十二巻といふ長期継続の事業であり、苛烈なる戦局下印刷資材等にも幾多の困難が予想せられるのであつて、中央公論社の自発的廃業により刊行継承の議が起つた際、本社出版局としても熟慮を要したのであるが、関係当局の懇切なる勧奨もあり、且は本全書に集る挙国的な期待とその緊要不可欠なる国家的性質に鑑み、万難を克服して完遂に当る決意を固めた次第である。
 茲に諸般の準備整ひ第一巻を発行するに当り、些か継承の微衷を披瀝し、併せて大方諸賢の厚く渝らざる御支援を冀つて止まぬものである。
  昭和十九年十二月     朝日新聞社出版局

 これによれば、「国民古典全書」は、当初、中央公論社によって、刊行が進められていたようだ。ところが、同社の「自発的廃業」により、朝日新聞社出版局が、その刊行を引き継ぐことになったのだという。
 ここに「自発的廃業」とあるが、事実は、言論弾圧事件として知られている「横浜事件」などに象徴される言論弾圧によって、廃業に追い込まれたものである。ところが、この「自発的廃業」によって、「国民古典全書」の刊行が宙に浮いてしまうことになった。慌てた当局は、朝日新聞社出版局に、刊行の継承を押しつけたといったあたりが真相であろう。
 なお、こうした経緯についての記述は、管見では、どんな文献にも載っていない。インターネット上にも、まったく情報がない。つまり、このブログ独自のネタではないかと、ひそかに自負している。【この話、さらに続く】

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