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南京虐殺史実の決定版   文科系

2018年08月19日 10時54分08秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」
 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

 ①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

 ②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したのである。
 なお、「最初から全部殺す方針だった」という証言を下に上げておく。南京攻略軍一師団長の日記である。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏に殺すということが極めて大事だったのだが。

 ③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全地域から暴力さえ使って集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

 ④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。
 が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。戦争ではない場合の暴力への降伏兵士を殺したら、国際法上は民間人を殺した虐殺と言うしかないのである。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。


 さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。

【 南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。

『大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」

 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。実に卑怯、姑息な日本軍、奴らである。もっとも命令を出した奴らが卑怯、非道なのであるが・・・。】

 
 さて、以上すらもなおなんやかやと否定してやまないというネトウヨと呼ばれている諸君(の種本作者)の氏素性を推論してみよう。
①歴史事実などはどうでもよいとする。あるいは、どうとでも解釈できるとする。以下のような別の「論点」、「視点」を持っているからだ。
②各人何らかの思惑、事情から「日本史の醜さは消し、美しく見せる方がよいのだ」と確信している。つまり、事実を認めず、己の願望に併せて史実を解釈してもよいとしている。
③事実と願望との違いをどう処理するかは結構難しい問題だが、願望優先の大理論もけっこう多かったと思う。例えばなんらかの体系的哲学や宗教にもこれがあると。カール・マルクスによる「ヘーゲル法哲学批判序説」もそういう批判の一種だ。
④例えば、戦争論でも、「人間世界に、戦争は無くならない」という「願望」から、歴史を観ていくやり方も多かった。それに対して、例えばこのブログで紹介した著作「サピエンス全史」(17年5月のここに、内容紹介連載があります)は、人類史でいかに人殺し、戦争が減ってきたかという実証をやっている。 減ってきたという事実、この分析を踏まえてこそ、戦争を減らし、早く無くせるという願望も実現できるのだろう。というように、僕も人の願望というものを否定しない。ただ、願望と歴史事実とを一致させたいという立場だが、これについてはこんな命題がある。
「新たなある願望を地上の多くの人が描き始めるのは、その実現の条件が見えてきた時なのだ」
 これはまー、こういうことだろう。「庶民の命などどうでも良かったという、民主主義以前の戦争が当たり前の時代には、こんな願望は描けなかった」と。というように、いずれにせよ願望と事実との関係理解は難しく、形式論理では手に負えないものと思う。

コメント (8)
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小説  母の『音楽』(前編)   文科系

2018年08月19日 09時08分04秒 | 文芸作品
 ギターレッスンに苦心惨憺のある日、ふっと気付いた。
〈左手指がここで、他の箇所に比べて、どういうか、なんか、ばたばたしている。この小指が上がりすぎ、時に伸び切るようになるのは、どうしたことか?この癖から全体が遅くなるらしい。反復練習にはもう慣れてるが、これを直さんとどうしようもないぞ〉
 二月から七ヶ月も、毎日のように弾き続けている曲が、どうしてもできあがっていかない。南米のギター弾き・バリオスの「大聖堂」、その第三楽章。ここの速さが、ことのほか骨なのである。「もう限界なのかなー」、定年後に先生なる者につき始めて七年足らずの老いの身には、そんなことも頭をよぎる。六連十六分音符が三頁連なるこの楽章をせめて六十の速さにしたいのだけれど、四十五が限界。あれこれ観察し、試行錯誤しているうちに、やっと分かってきたことだった。
 ある一カ所が特に、何度弾いても上手くいかない。六連十六分音符がたった二つ並んだだけの一小節なのに。周囲と比べてちっとも難しそうにも見えず、なんの変哲もない箇所だ。そんな所を、何日かは意を決して五十回繰り返してみたりして、もう千回以上は優にやったろうというようなある日に、やっと気付いたのだ。
 さて、恥ずかしいことだがここまで来て、習い初めのころ先生に言われたことを思い出した。
「左手指は、一本ずつが他から分離して動くようにならなければいけません」
 左手小指が薬指に連動するらしい。薬指を指板から上げるときに特に、小指がぴくっと大きく跳ね上がる。よって、薬指の後に小指で押さえねばならない時などに、どうしても演奏が一瞬遅れる。この癖が原因で指のすべてが固くなっている。今までの曲ではなんとかこれをごまかせたが、今回の速すぎる箇所ではとうとうぼろが出たと、そういうことだろう。
 だけどこの曲、七ヶ月でこんな出来。人前で弾ける程度に完成するのだろうか。舞台で弾くことはもうないのだが、その程度にはしたい。去年からホームコンサートのようなもの以外は出ないと決めて、それまでやっていた舞台を全てパスしてきた。それでもこれだけ熱中できるのだ。それは、九十三歳で死んだ母の身近にいて、種々多くのことを教えられたからだと、いま振り返ることができる。父の最晩年を夫婦二組で同居し、次に父が亡くなった後は三人で過ごし、母の脳内出血以降はその介護の五年間を通して。

 職業婦人の走りであった明治生まれの母は、退職後に三味線を再開して二十年近く続けたが、七十八歳できれいさっぱり、すべてを投げ出してしまった。それまで出ていた教室の発表会に出なくなっただけではない。同時に「キネヤなんとか」さんの教室そのものも止めてしまった。それどころか、それからは弾いているのを見たこともない。死後に彼女の日記を見て改めて知ったのだが、このあと一度でも、三味線を弾いたことさえないはずだ。 母はそのころ、同い年の父の心臓病につきあって、疲れ切っていた。七十三歳を最初に、八十二歳で亡くなるまで、脳梗塞、心筋梗塞を都合四回も起こした父なのだ。彼の晩年二年間は次男である僕らが同居したのだが、「同居が遅すぎた」と何度後悔したことだったか。

 同一敷地内に新築の家を廊下で繋げたという「同居」二ヶ月ほどの初夏のことだ。珍しく明るいうちに帰って二階ベランダの窓際から庭に目をやると、ブロック塀の一角に母が見える。「水をまいている」と思ったのだが、どうも違うようだ。両手で持っているのがバケツでも、ジョーロでもない。父が愛用していた高価な徳利ではないか。〈父さんに怒鳴られるよ!〉、一瞬そう思ったが、今の父にはもうそんな気力も関心もないとすぐに思い直した。そういう徳利からお猪口ならぬ地面に注いでいるのは、水なのか酒なのか。間もなくとことこと歩き出して、僕に近い南東の角に来た。そして、僕のお気に入りのガクアジサイの近くで、同じようなことをやっている。そして、夕食時。その日父は確か、入院していて家にいなかったはずだ。
「さっき、庭で何やってたの?」
そのころ何となく黙りがちな日々が多かった母だが、一瞬僕の目を見てからちょっと顔を伏せたあと、ことさらにさらりとした感じで、応えた。 
「うん。庭の四隅にお酒を上げてたの。まー御神酒ということ。ここの家を建てたとき、地鎮祭をしてなかったのを思い出してね」
「ふーん。かーさんが縁起かつぐなんて、珍しいね。何か悪いことでもあったの?」
「うん、ちょっとね」
 そう、僕らが同居するまでの母は悪いことづくめだった。父の看病や、病院がよい。三味線は一年ほど前に止めていたし、大好きな友人たちとの旅行などもしなくなっていた。昔風賢夫人は、こういうときには物見遊山などは控えるものらしい。そんなこんなの鬱屈からなのか、物忘れも酷くなっていた。家のヤカンや鍋などを焦がしてしまい、庭に捨てられたものがいくつかあったし、当時使用中でも、地金の色を表している物がほとんど無かった。
 さらに、僕らとの同居によってもまた、別の「悪いこと」が生まれていたようだ。
 僕の脳裏に死後も含めてだんだん形作られていった母の心境を簡単に言えば、こういうことになろうか。まず、病気の、気むずかしい父を一人で抱え、自らの八十の老いを向こうに回して歯を食いしばって暮らしてきた。次いで、僕らと同居してからの心境は、こう。壮年期にある僕らの「若さ」に打ちのめされ始めたらしい。なんせ、自慢のようなことは口にしなかったが、子どもの僕とも競争したいような人。「私のどこが八十に見えるね。言ってごらんなさいよ!」。なにか僕が注意したときにこんな返答さえ返したこともあった。そんな心境も含めてすべてが、今にして痛いほど分かるような気がするのである。思い出すと胸が痛いとは、こういうことだろう。

 この年の十月、母は、僕の勧めによって心療内科の先生の所へ通い始めた。病名は、老化による軽症ウツ病。
 少し遅れて八十六歳の母が書いた「人生報告」とも言うべき文集に、こんな下りがある。東京女子高等師範学校同窓会の愛知支部発行「桜蔭(同窓会名です)」に収められた文章だが、二番目の古参生としてそこに書いた六枚ほどの原稿の一部だ。
【その後夫脳梗塞となり、左脚不自由に。つづいて心筋梗塞その他色々の老人病を併発し、十数回に及ぶ入退院をくりかえし、平成四年四月二十七日に亡くなりました。看病など何かと心身を使い果たしている間に、私も老人性鬱病という厄介な病名をつけられていました。好きな長唄・三味線も稽古不足のため中止し、日々無為の苦しい数年間を過ごしたものです。同居している次男夫婦も共働きですので、昼間は相変わらずの一人暮らしですが、二人が帰宅し、共にする夕食は楽しく、孤独を忘れることの出来るひとときです】
 僕もこの夕食は楽しかった。母も必ず二品ほど作ってくるので、連れ合いと二人競いあうようにして食卓にのせたものを三人で批評し合うといった夕食。僕の帰りが遅すぎて週に何回も持てなかったが、心が温かくなる思い出である。
さて、この頃はまだ、母の人生で三味線が持った意味を、僕はこんな程度に捉えていただけだった。
 最初に浮かび上がって来る映像はまず、こんなものである。三味線の発表会に出ていたときの、背中を丸めて大きなザブトンに小さく座った母の姿だった。
〈あれほど練習して、回りの人に四苦八苦でなんとかついていく。「生きなきゃー」って感じだなー。それにしてもそろそろ八十だ。いくつになっても「鑑賞」じゃ済まなくて、自分で「表現」して進歩を確かめていきたいという人なんだなー〉。
 また、このしばらく後には、
〈母さんのは「可愛さ余って、老いへの憎さ百倍」。三味線全てを放り出してしまったのは、舞台に出られなくなったショックからだ。随分苦しんだんだけど、俺の同居がもうちょっと早ければ辞めさせなかったのになー〉

(続く)
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