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日本軍慰安婦問題、当時政府の二通達   文科系

2018年08月20日 15時23分59秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 このブログでは、日朝関係史、南京虐殺といつも続けて来ましたが、慰安婦問題でもある決定的資料を改めてそのまま再掲しておきましょう。以下の文書には、強制のこともさえ軍自身が以下原文中でこのように認めています。
  『故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ・・・・』

 朝日新聞がガセネタ報道を謝罪してからは、まるでこの問題自体もなかったような情勢になりましたが、あれは朝日のミス。「あれはミスだったが、慰安婦問題は厳然と、かつ大がかりに存在していた」と対処すれば良かったのです。こんな文書も残っているのですから。


【 慰安婦問題、当時の関連2通達紹介  文科系2014年09月22日

 以下二つは「日本軍の慰安所政策について」(2003年発表)という論文の中に、著者の永井 和(京都大学文学研究科教授)が紹介されていたものです。一つは、1937年12月21日付で在上海日本総領事館警察署から発された「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」。今ひとつは、この文書を受けて1938年3月4日に出された陸軍省副官発で、北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」です。後者には、前に永井氏の説明をそのまま付けておきました。日付や文書名、誰が誰に出したかも、この説明の中に書いてあるからです。

『 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件

 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        記
領事館
 (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
 (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
 (ハ)渡航上ニ関スル便宜供与
 (ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答
 (ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス
憲兵隊
 (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
 (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締
武官室
 (イ)就業場所及家屋等ノ準備
 (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
 
右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス
(中略)
昭和十二年十二月二十一日
         在上海日本総領事館警察署


『 本報告では、1996年末に新たに発掘された警察資料を用いて、この「従軍慰安婦論争」で、その解釈が争点のひとつとなった陸軍の一文書、すなわち陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日付-以後副官通牒と略す)の意味を再検討する。
 まず問題の文書全文を以下に引用する(引用にあたっては、原史料に忠実であることを心がけたが、漢字は通行の字体を用いた)。

支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス』

 さて、これを皆さんはどう読まれるでしょうか。なお、この文書関係当時の北支関連国内分募集人員については、ある女衒業者の取り調べ資料から16~30歳で3000名とありました。内地ではこうだったという公的資料の一部です。最初に日本各地の警察から、この個々の募集行動(事件)への疑惑が持ち上がって来て、それがこの文書の発端になったという所が、大きな意味を持つように僕は読みました。】
コメント (2)
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小説  母の『音楽』(後編)   文科系

2018年08月20日 15時03分34秒 | 文芸作品
「あなたも、『生きなきゃー』の口で、「鑑賞よりも表現』の人ね。だから『可愛さ余って、憎さ百倍』は他人事じゃないわよ。どうせ直ぐに弾けなくなるんだから」
〈僕のお連れあいさんも、後になってそう言ってたな〉。
 腕や胸など汗まみれの体を休めながら今、そんなことを思い出している。
「大聖堂」の例の難しい一カ所をかっきり五十回。正の字を打ちながら繰り返し終えたばかりだ。機械的な反復練習ではやっと、薬指上下につれて小指がほとんど動かなくなってきた。この厄介な癖の修正にあれこれと燃え始めて二週間、ようやく五五近くの速さになり、ちょっと先が見えたような気分になった頃のことだ。
〈そういえば、俺も去年危機のようなことがあったなー。憎さ百倍にはならなかったのは、間違いなく母さんのお陰だ〉
 去年のある舞台で立ち往生したときのことを思い出す。こんな調子だった。

 出だしの三段目ほどで止まってしまった。頭は真っ白で、次が思い出せない。仕方ないから、冒頭からまたやり直す。すると今度は、三ページ楽譜の二枚目終わりほどで止まってしまった。どれくらいだったか空白の時間があってから、思いついて目の前の楽譜を引き寄せ、間違い箇所を確認して、再開した。丁度練習で躓いたときのように。表情も態度も変えなかったはずだが、冷や汗たらたら、心臓は早鐘、もう大変な思いをした。好きで折を見ては二年以上も弾き続けてきた「ソルのエチュード作品六の十一番」。僕には難しすぎるが、いまならもう何とかなると思って臨んだのに。今までに指が震えてほとんど弾けていないということは何回かあったが、中断は初めてだった。それも二回も。そしてこの挫折の印象が、以降一週間ほどの間にどんどん大きくなっていった。僕の「老い」が膨らんでいくばかりだったのだ。
 そんな経験から間もなく、舞台で弾くことはもう諦めようと決めた。ところがこの決心が、僕の練習態度に何の変化も与えなかったのである。それから間もなく手をつけたこの曲、「大聖堂」が毎日弾きたくなった。分散和音の中から最高音の清らかな旋律を響かせる第一楽章。荘重な和音連続を鳴り渡らせる二楽章。そしてこの第三楽章は「最速アルペジオとスケールの中から、低音・高音の旋律、副旋律をメリハリつけて自由に鳴らせられれば、痛快・面白さこの上なし」といった趣き。気に入った曲だけを選んで先ず暗譜してから弾き込みレッスンに励む僕にとっては、なかでもことさら揺さぶられる曲。完成するまで一年でもやってやろうと、そのエネルギーは自分事ながらいぶかしいほどだった。

 さて、一度は全てを放り出した母のこの三味線。最後の場面が実は、ずっと後に出てくる。過去の「憎さ百倍」はなんのその、可愛さが遙かに優った感じで。いや、この三味線が母を救ってくれたとさえ言いうるだろう。闘病生活五年の最後の年、九十二歳を過ぎた病床のことだ。大学ノートの介護日誌五年分が九冊まであるのだが、そこのやり取りから抜粋してみよう。周囲が書き綴り、伝え合った病状・生活日誌である。八十八歳に脳内出血で死にかけた後は、感覚性全失語症から字はもちろん書けず、彼女の口から意味のある言葉を聞き取ることもほとんど無理だったから、連れあいの提案で備えられたものだ。四人の子、孫から、看護師さんたちだけではなく、病室を訪れた母の親類縁者、知人までが書いてくれるようになったみんなの合作物である。先ず初めは、亡くなる前年の八月十七日。
『ラジカセを持って来た。カヨさんのおケイコ(三味線と謡曲)のテープといっしょに。そしたらラジカセを抱えるようにして聞いていた。それでもしばらくして見たら眠っていたけど、起きてテープの話をした時の反応は当然強かった。何か分かるらしい。多分、フシなのだろう。しばらく(一時間ぐらい)消していてまた、”三味線聞く?”と問うと、”ウン”と言うのでつけると、また例によって指を動かして聞いている。右手も左手も』
 同十八日『長兄のノブ一家九人が来たのは覚えていた。良かったね。今は三十分以上ラジカセを聞いている』
 同二十日『今日はよく話が分かる。一昨日、ノブの家族が来たのは覚えているし、ウチの健太と雅子も覚えている。(中略)なんというか表情もおだやかだ』
 音楽療法というのがあるが、明らかに母の態度、意識が上向き始めたのである。看護婦さんもそれを認めた記述をここにすぐ書いてくれたし、久しぶりにはるばる横浜から来られた弟のお連れ合いさんも、こんな言葉を書いてくれた。
 九月十五日『いろいろあって家が空けられず、本当に久し振りにお母さんに会いに来ました。№7のノートの記録より、十一ヶ月もの間ご無沙汰していたと分かりました。眠っていらっしゃる横で、声をかけて起こそうかどうしようかと思いつつ、ノートをゆっくり読ませていただきました。長唄(?)のテープをBGMに。
 テープが回って数分したころ、右手がよく動くようになり、時々左目を開いて、次にベッドにつかまっていた左手が、弦を押さえるような動きを始めました。魔法のようです』
 十月二日『新しいカセットを持ってきて”三味線のおさらい”。たちまち右手でバチを動かし、左手の指がひょこひょこと動き出した。(中略)何か顔もほころんでいるし、ヨカッタヨカッタ。 ”目を開けなさい”と言うとかならず、パチッと開けてくれて、やはり微笑んでいる』
 丁度その晩秋のころ、僕は同人誌にこんな随筆を書いた。

【 ある交流 
 病院の夜の個室にもの音は稀だけれど、川音が間断なく聞こえてくる。二県にまたがる大川が窓の向こうにあるのだ。そしていつものように、僕の左手がベッドに寝た母の右手を軽く握っているのだけれど、そこでは母の指がトントンと動いている。
 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかわづ天に聞こゆる
 誰の作だったか、高校の授業で覚えたこの歌を、このごろよく思い出す。
 左脳内出血が招いた三途の川から戻ってきて、五年近い。失語症の他はなんとか自立できたと皆で喜んだのも、今振り返ると束の間のこと。一年ちょっと前、思いもしなかった後遺症、喉の神経障害から食物が摂れず、人工栄養に切り替えるしかなくなった。食べさせようとして何度か嚥下性肺炎を起こしたその末のことだった。人工栄養になってからも、唾液が入り込んでたびたび肺炎をまねくという始末で、既に「寝たきり」が四ヶ月。お得意の「晴れ晴れとした微笑」も、ほとんど見られなくなった。
 九十二歳、もう起き上がるのは難しそうだ。言葉も文字もなくなったので記憶力はひどいが、いわゆる痴呆ではない。痴呆でないのは我々には幸いだが、本人にはどうなのだろうかと考えてしまうことも多い。
 せっせと通って、ベッドサイドに座り、いつも手を握り続ける。これは、東京から来る妹のしぐさを取り入れたものだが、「生きて欲しいよ」というボディランゲージのつもりだ。本を読んでいる今現在、母の指の応答は、「はいはい、ありがとう。今日はもうちょっと居てね」と受け取っておこう。表情も和らいでいるようだし。
 僕は中篇に近い小説九つを年一作ずつ同人誌に書いてきた。うち最初の作品を含めて四つは、母が主人公だ。もう十年近く母を、老いというものを、見つめ、描いてきたことになる。発病前は老いの観察記録のように、その後は病室の中やベッドの上も、時には四肢さえもさらけ出して。普通ならマナー違反と言われようが、親が子に教える最後のことを受け取ってきたつもりだ。そして、僕がこんなふうに描くのは、母の本望だとも信じている。
 看護士さんが入ってきて、仕事をしながらこんなことを言った。
「不思議ですねぇ。手と指だけがいつも動いてるんですよ。ベッドの柵を右手でよく握られてるんですが、その時もなんです。右側に麻痺がある方でしたよねー?」
《母にもまだできることがあった。僕らが通う限り、生きようとしてくれるのだろうか》 】

 母は、いろんな曲を思い出し思い出ししながら、最後に残った楽しみを自分で作っていたのではないだろうか。そう、一度はすべてを放り出した音楽が、一人では何も出来ず、普通の楽しみさえなくなった病床で恩返しをしてくれた。音楽って、音を楽しむって、まず、自分が出す音を自分が楽しむものだろう。末期が近づきつつあった母の病床で、教えてもらったことだ。


(終わり 2011年1月発行の同人誌に初出)
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