一羽と一人 M・Aさんの作品です
この春は極端な寒暖の差があり、草花も一斉に咲きだした。いつもなら桜、ハナミズキ、ツツジや藤などと順に咲く。ところが今年は百花繚乱、庭でも木蓮、牡丹、クレマチスと散り急ぎ、芍薬も咲きだした。おまけに、蚊や毛虫の卵もびっしり。
晴れた日の屋外は十時を過ぎるともう暑い。私は週のうち五日以上は歩くことにしている。午前中の教室通いもあるので、ない時は午前中に時間を見つけて今や決まったコースを歩く。
南区と緑区を隔て、ほぼ東西に流れる天白川と扇川の堤防の河岸歩道を中心に歩く。この日は風もほぼなく、気温も二十度位だったので、帽子と日傘は使ってもかなり快適であった。片道二十分から三十分の河岸を行くのだが、南区側からだと天白川が手前になるので、毎回同じ光景を見ながら歩くことになる。
自然の移ろいは確かであって、日ごとに変化している。コンクリートの防壁に生える草の丈や量だって、よく見ると違っている。川面の水量も満潮時と干潮時とは違うし、歩く時間によっても異なる。風のある日はさざ波がたってるし、水が濁っているときもあれば、透明度があって鯉の姿を見るときもある。
このところの関心事は、川面と岸辺にいる鳥たちである。今はカイツブリがいるが、秋から春にかけて渡ってきていた渡り鳥の鴨が群れをなして泳いでいるのは見ごたえがあった。白と黒に茶色のはっきりとした/姿で、雌は全体に茶色っぽくてパッとしない。この鴨が寒いときには沢山いて、歩きながら鴨の数を数えることが日課になっている。
すでに五月の中旬に入った。昼間は二十五度位になることが多く、午前中に出かけた。この頃は毎日〈鴨さん、今日はまだいるかな〉と歩き出し、鴨の姿を探すようになっている。歩くのはせいぜい一・三キロちょっとの往復で、川にいる鴨の総数を数えるわけではない。大慶橋から下流の名四国道と交差する地点というのが正しいかも。歩きながら全部を数えるのは、多いときは無理なので、群れごとの数である。一つの群れで、多い時は八十から百羽位だったか。因みにこの日は合計で七羽だった。
泳いでいる鴨の数を数えるのは、これでも多いときなどひと苦労。なんせ自分も歩いているし、川幅も広い所で三十メートル近くはあるのではないか。鴨は時々水面下に潜るし、位置も常に変わる。「あれ、確かに今いたよなー」、ひとり呟き、川面の遠くに目を凝らす。まるでよく動き回る幼児たちの数を数えるのと同じ。また、いろんな会でのバス旅行で乗客を点呼するときにも役立つなーなどと思えて可笑しくなる。
歩く度に鴨の所在を確認するのが課題になっているが、たとえ数羽でも見つけることができると、不思議に安堵して嬉しくなる。これって何なのだろう? 自分が半年以上も鴨たちと共有した時間があるからなのだろうか。水面に姿を認めるだけでホッとするのだ。反面、心配にもなる。「あんたたちは、まだここに居て、北に帰らなくても大丈夫なの、いつ帰るのよ?」などと呟く。
鴨は群れでいることが多いが、番もいる。だから、たまに離れている川面にポツンと一羽だけいると「大丈夫かい、一人で?」と訊きたくなる。離れたところにでも仲間が居ると、よかったと思う。これって老婆心なのだろうけれど。
一人でいたいと私自身最近特に思うが、鴨にもそれがあるのだろうか。五月の読書会の課題が『家族という病』下重暁子著で、すごく読みたかった本である。まだ全部は読んでないが、なるほどと思うことが多い。私自身が家事や家族にたいする嫌悪感、倦怠感を感じだしているときであり、「鬱病症状」も少しあるので、一羽と一人が気になっているようだ。
これを書き終えようとしている五月十九日現在、たった一羽の鴨を水面に見つけて心配になったのだが、果たして明日以降天白川にその姿は見られるのか……。 昨日と今日の温度差が十度。普通ならすでに北へ帰ったはずの渡り鳥である。
この春は極端な寒暖の差があり、草花も一斉に咲きだした。いつもなら桜、ハナミズキ、ツツジや藤などと順に咲く。ところが今年は百花繚乱、庭でも木蓮、牡丹、クレマチスと散り急ぎ、芍薬も咲きだした。おまけに、蚊や毛虫の卵もびっしり。
晴れた日の屋外は十時を過ぎるともう暑い。私は週のうち五日以上は歩くことにしている。午前中の教室通いもあるので、ない時は午前中に時間を見つけて今や決まったコースを歩く。
南区と緑区を隔て、ほぼ東西に流れる天白川と扇川の堤防の河岸歩道を中心に歩く。この日は風もほぼなく、気温も二十度位だったので、帽子と日傘は使ってもかなり快適であった。片道二十分から三十分の河岸を行くのだが、南区側からだと天白川が手前になるので、毎回同じ光景を見ながら歩くことになる。
自然の移ろいは確かであって、日ごとに変化している。コンクリートの防壁に生える草の丈や量だって、よく見ると違っている。川面の水量も満潮時と干潮時とは違うし、歩く時間によっても異なる。風のある日はさざ波がたってるし、水が濁っているときもあれば、透明度があって鯉の姿を見るときもある。
このところの関心事は、川面と岸辺にいる鳥たちである。今はカイツブリがいるが、秋から春にかけて渡ってきていた渡り鳥の鴨が群れをなして泳いでいるのは見ごたえがあった。白と黒に茶色のはっきりとした/姿で、雌は全体に茶色っぽくてパッとしない。この鴨が寒いときには沢山いて、歩きながら鴨の数を数えることが日課になっている。
すでに五月の中旬に入った。昼間は二十五度位になることが多く、午前中に出かけた。この頃は毎日〈鴨さん、今日はまだいるかな〉と歩き出し、鴨の姿を探すようになっている。歩くのはせいぜい一・三キロちょっとの往復で、川にいる鴨の総数を数えるわけではない。大慶橋から下流の名四国道と交差する地点というのが正しいかも。歩きながら全部を数えるのは、多いときは無理なので、群れごとの数である。一つの群れで、多い時は八十から百羽位だったか。因みにこの日は合計で七羽だった。
泳いでいる鴨の数を数えるのは、これでも多いときなどひと苦労。なんせ自分も歩いているし、川幅も広い所で三十メートル近くはあるのではないか。鴨は時々水面下に潜るし、位置も常に変わる。「あれ、確かに今いたよなー」、ひとり呟き、川面の遠くに目を凝らす。まるでよく動き回る幼児たちの数を数えるのと同じ。また、いろんな会でのバス旅行で乗客を点呼するときにも役立つなーなどと思えて可笑しくなる。
歩く度に鴨の所在を確認するのが課題になっているが、たとえ数羽でも見つけることができると、不思議に安堵して嬉しくなる。これって何なのだろう? 自分が半年以上も鴨たちと共有した時間があるからなのだろうか。水面に姿を認めるだけでホッとするのだ。反面、心配にもなる。「あんたたちは、まだここに居て、北に帰らなくても大丈夫なの、いつ帰るのよ?」などと呟く。
鴨は群れでいることが多いが、番もいる。だから、たまに離れている川面にポツンと一羽だけいると「大丈夫かい、一人で?」と訊きたくなる。離れたところにでも仲間が居ると、よかったと思う。これって老婆心なのだろうけれど。
一人でいたいと私自身最近特に思うが、鴨にもそれがあるのだろうか。五月の読書会の課題が『家族という病』下重暁子著で、すごく読みたかった本である。まだ全部は読んでないが、なるほどと思うことが多い。私自身が家事や家族にたいする嫌悪感、倦怠感を感じだしているときであり、「鬱病症状」も少しあるので、一羽と一人が気になっているようだ。
これを書き終えようとしている五月十九日現在、たった一羽の鴨を水面に見つけて心配になったのだが、果たして明日以降天白川にその姿は見られるのか……。 昨日と今日の温度差が十度。普通ならすでに北へ帰ったはずの渡り鳥である。