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朝鮮征服目指し40年、植民地35年(2)英雄・安重根   文科系

2018年08月22日 10時10分31秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 朝鮮征服目指し40年、植民地35年  文科系
(その2)朝鮮の英雄・安重根をめぐって


 前回見た江華島事件(1875年)から1910年の朝鮮完全征服まで、日本による朝鮮制圧深化と人民の抵抗運動はどんどん進んでいく。ソウルの「安重根義士記念館」パンフレットに載っている19世紀末だけをとってみても、どれだけの事件があったか。

 壬午軍変(じんごぐんへん、1882年)、甲申政変(こうしんせいへん、1884年)、東学農民戦争と日清戦争(1894年)、乙未事変(いつびじへん、1895年)などなどと。反乱が起こって鎮圧したり、日本の大軍を初めて外国に常時駐留させることになったり、日本支配に抵抗した王妃を斬殺・死体焼却させたり。この斬殺は、三浦梧楼という武官の公使が暗殺団首魁だと判明したのだが、広島地裁集団裁判において証拠不十分とかで釈放になっている。
 さらには、朝鮮を巡って清国や日本抵抗勢力と戦争にも発展した東学農民戦争は、朝鮮半島南部全域に広がるという激しい抵抗運動だった。ちなみに、安重根獄中自叙伝には「伊藤博文の罪状 15か条」が付されているが、その第8にこう書かれている。
『国権回復のために蜂起した大韓国の義士たちと、その家族10万余人を殺害した罪』

 こういう諸事件の一つの結末が、1910年の朝鮮併合である。韓国ではこの併合のことを普通に、その年の呼び名を付けて「庚戌国恥」と呼んでいる。安重根事件はその前年のこと。1909年にハルピンで日本朝鮮総統・伊藤博文を暗殺したのである。記念館パンフレットではこれを「ハルピン義挙」と記していた。

 さて、この「義挙」に関わって14年1月、日本でこんな出来事があった。伊藤博文暗殺の現地・ハルピンに中国が安重根記念館を開館して韓国が謝意を表したという問題で、菅官房長官が「テロリストに対してなんたることか!」と反撥意見を表明したのである。正式抗議もしたようだ。どっちも理ありとも見えてなかなか理解の難しい問題であるが、安倍政権のこの態度を以下のように批判したい。

 当時の「法律」から見たら当然テロリストだろうし、今の法でも為政者殺しは当然そうなろう。が、明治維新直後の征韓論勃興から数えたら40年かけて無数の抵抗者を殺した末にその国を植民地にしたという自覚を日本側が多少とも持つべきであろうに、公然と「テロリスト」と反論・抗議するこの神経は僕にはどうにも理解しがたい。これで言えば、前回に書いた日本による江華島事件などはどう批判したらよいのか。国際法に違反して漢江を首都近くまで遡って艦砲砲撃を進め、城や民家を焼いて35人を殺しているのである。黒船ペリー来航、即東京湾岸を艦砲砲撃というようなこの事件だけでも、安重根の罪よりもはるかに重いはずだ。前にもここで述べたことだが、安重根テロリスト論はさらに、こんなふうに批判できると思う。

さて次に起こるはずのこの理解はどうか。ならば、「向こうは『愛国者』で、こちらは『テロリスト』と言い続けるしかないのである」。僕は、こういう理解にも賛成しかねる。
 今が民主主義の世界になっているのだから、やはり植民地は悪いことだったのである。「その時代時代の法定主義」観点という形式論理思考だけというのならいざ知らず、現代世界の道義から理解する観点がどうでもよいことだとはならないはずだ。「テロリスト」という言い方は、こういう現代的道義(的観点)を全く欠落させていると言いたい。当時の法で当時のことを解釈してだけ相手国に対するとは、言ってみるならば今なお相手を植民地のように扱うことにならざるをえないはずだと、どうして気づかないのだろうか。僕にはこれが不思議でならないのである。

 こんな論理で言えば、新大陸発見後に南米で無差別大量殺人を行ったピサロを殺しても、スパルタカスがローマ総督を殺しても、テロリストと呼んで腹を立てるのが現代から観ても正当ということになる。こうして、当時の対立する一方が押しつけた法以外ではどうにも正当化できないこういう論理、立場というものを改めて敢えて強調するというのが、安倍政権の対外政策指針に見えるのである。こういう態度は、法にさえ反しなければ悪くないのだと言い続けるやり方と同じ種類のものでもあろう。中韓に対する高圧的な態度しかり、A級戦犯や東京裁判の「否定」しかり。「日本の植民地政策が批判されるが、西欧はもっと長く、苛酷にやってきたではないか!」と開き直るのも、同じ態度だろう。(当ブログ『「テロリスト」「愛国者」、安重根記念館 2014年04月05日』参照。右欄外の「バックナンバー」年月から入って「14年4月5日」クリックで、このエントリーも読めます)

 全く安倍政権はどういう外交論理を持ち、どういう神経をしているのだろう。相手の立場の尊重という一片の理性も見えず、言ってみるならば「人間関係はケンカ、対立が当たり前。こちらの論理を語るだけ」と述べているに等しい。異なった人間との人間関係は、所詮喧嘩だという社会ダーウィニズム丸出しの外交を思い起こさせる幼稚さだと言いたい。
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小説 「死に因んで」(その2)   文科系

2018年08月22日 09時59分35秒 | 文芸作品
 宴たけなわの頃、前から予告しておいたのだが、ある随筆を読み始めた。もちろんその場でも皆の了承を取って。俺が現役時代から二十年ほど属している同人誌に、ちょうど一年ほど前にのせた作品である。一年前に書いた作品を、予告・了承を取り付けていた初めての朗読でやったのだから、中途半端な気持ちでなかったのは確かだ。ちなみに、全文を書いてみれば、こんな作品である。

── 死にちなんで
 心臓カテーテル手術をやった。麻酔薬が入った点滴でうつらうつらし始めてちょっとたったころ、執刀医先生の初めての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
 ところがなかなか眠りに入れない。眠っても、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識が薄らいでいくのだが、また覚醒。そんなことが三度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたように何か声を出していた。
 さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と、聞いていたからでもあろう。手術自身はちっとも怖くはなかったのだけれど、こんなことを考えていた。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢を見ない永遠の眠り、か・・・・」
 知らぬ間に生まれていたある心境、大げさに言えば僕の人生の一つの結実かも知れない。
 小学校の中ごろ友人を亡くして、考え込んでいた。「彼には永遠に会えない。どこにいるのだ」。ひるがえって「僕もそうなる」。それ以来自分が死ぬということを強く意識した。ほどなくこれが「永遠の無」という感じに僕の中で育っていって、何とも得体が知れぬ恐怖が始まった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時はいつも、冷や汗がびっしょり。そしてこの「症状」が、思春期あたりから以降、僕の人生を方向付けていった。「人生はただ一度。あとは無」、これが生き方の羅針盤になった。大学の専攻選びから、貧乏な民間福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計まで含めて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと思う。四人兄弟妹の中で、僕だけが違った進路を取ったから、親との諍いが、僕の青春そのものにもなっていった。世事・俗事、習慣、虚飾が嫌いで、何かそんな寄り道をしなかったというのも同じこと。自分に意味が感じられることと、自分が揺さぶられることだけに手を出して来たような。
 ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りにすぎぬとしても、この苦しみが夢で現れるとしたら、それも地獄だし?」というような内容だったかと思う。この伝で言えば、僕のこの「症状」ははてさて、最近はこんなふうに落ちついてきた。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いも何もありゃしない」
 どうして変わってきたのだろうと、このごろよく考える。ハムレットとは全く逆で、人生を楽しめてきたからだろう。特に老後を、設計した想定を遙かに超えるほどに楽しめてきたのが、意外に大きいようだ。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてブログ。これらの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができた。中でも、ギター演奏、「音楽」はちょっと別格だ。自身で音楽することには、いや多分自分の美の快に属するものを探り、創っていく領域には、どういうか何か魔力がある、と。
 この二月から、ほぼある一曲だけにもう十ヶ月も取り組んできた。南米のギター弾き兼ギター作曲家バリオスという人の「大聖堂」。楽譜六ページに過ぎぬ曲なのだが、ほぼこの曲だけを日に二~三時間練習して先生の所に十ヶ月通ってきたことになる。長い一人習いの後の六十二からの手習だから通常ならとっくに「まー今の腕ではここまででしょう。上がり」なのだ。習って二ヶ月で暗譜もし終わっていたことだし。が、僕の希望で続けてきた。と言っても、希望するだけでこんなエネルギーが出るわけがない。やればやるほど楽しみが増えてくるから、僕が続けたかったのである。こんな熱中ぶりが、自分でも訝しい。
「何かに熱中したい」、「人が死ぬまで熱中できるものって、どんなもの?」若いころの最大の望みだった。これが、気心の知れた友だちたちとの挨拶言葉のようにもなっていたものだ。今、そんな風に生きられているのではないか。日々そう感じ直している。───


 今思えば、随筆のタイトルのせいもあろうかして、こんな場所の皆がこれを良く聞いていたと思う。朗読の中ほどまでは全く静かだったからほっとしていたのだ。そのあたりから一人二人がお喋りを始め、それが急激に広がっていった。残り三割ほどになったとき、実際はそうでもないのだろうが、俺には誰も聴いていないとしか感じられなかった。この作品が自分にとって大事なものだという気持ちが強すぎて、そう見えたのだろう。とにかく、こんな行動に打って出てしまった。朗読を止め、適当にお札を出して机の上に叩きつけながら、「こんな会、もう出てこん!」とか、「だから日本の男は嫌いだー」とか、何か捨て台詞のようなことを叫びながらそこを飛び出して行った。来たときと同様に電飾などにぎやかな繁華街を引き返していた時もその間中、燃え上がり渦巻いていた怒りを鎮められないでいた。それどころか、逆に懸命に油を注いでいたように思う。唱えるように繰り返したこんな言葉を今でも覚えているから。
〈あんな会、もう、出てやるもんか! 俺には、出る意味が、全くない。あれほど念を入れて予告し、了承も取り付けてきたのに………〉   

さて、翌日からは、悶々とした日々が続いた。こんなに親しい、あるいは親しくなった連中とのこの場所に出ないならば、全員をしっかり見知った百三十人(中学から高校で入れ替わり分がダブっている)ほどの同期会自身にも出辛いことになる。普通に考えれば俺の態度が礼を失することも明らかだ。謝罪などは、反省点があるととらえたらいくらでもできる性分だが、およそその気になれないのである。そんな数日が続いた後に、笠原から手紙が届いた。この会の成り立ちをせつせつと振り返ったうえで、こう結んでいる。
「ジェントルマンであるのが、最低のルールです。………次回○月○日には皆さんの元気なお顔を期待しています」
 成り立ちを振り返ったのは「お前と二人でやって来たのだぞ」という意味と、「お前も世話役、ホストだろうが」との意味も込められているのだろう。対して、十日ほど悩み抜いた末にとうとう、こんな結論を記した手紙を出したのだった。
「こういう手紙、ご案内をいただいたことに、まず心を込めて感謝したいと思います。『昔からの友達』なればこそとね。あーいう非常識な去り方をした以上そちらからはほかっておかれても普通だと、僕も思いますから。………今後はそこに出ません。そして、同窓会も出ないと決めました。………まー僕もすごく短気になりました。人生が短くなるごとに、生き急いで、見ている世界が狭くなっているのでしょう」

 こうして、俺の中で事が一段落したその夜に、この終始をそのままに連れ合いに持ちかけてみた。問題になっている事柄の内容をもう一歩整理してみたかったからだし、同期生たちと会えなくなるという後悔、未練も残っていたのである。
「この前、同期の定例飲み会に絶縁状叩きつけるようにして席を蹴ってきたって、話したよなー。何回か読んでもらった『死にちなんで』という随筆の朗読絡みだとも。あれからこんなことがあってね………」
 怒りの内容、笠原の手紙、そして俺の返事、順を追ってすべてを話し終わった。と言っても、この頃の俺はすらすらとは話を進められない。言葉を探して言いよどんだり、言い忘れていた話にぶち当たって前に戻ったりで、そんな時は相手の腰や腕がむずむずしているのが手に取るように分かる。さてそのむずむずが溜まりに溜まって、どんな返事が返って来るだろう。思いもしないほどきっぱりとした、明快なものだった。これには、逆に俺が驚いたほどだ。
「あなたのアイデンティティー絡みなのだから、譲りたくなかったらそれでよし。というか、あなたにはむしろ、この外って置く方を勧める!」
 俺は一瞬、彼女の目を見直した。こういう時、場面における連れ合いの迷いのなさには、時に驚くことがある。が、すぐに俺への忠告含みと受け取ることができた。感情が強くて近ごろ特にトラブルを起こしがちな上に、世間への見方がどこか普通ではないかして譲りすぎてしまうことも多く、誤解とか損とかを招いてきた俺を知り抜いているからの忠告なのである。もっとも彼女の方は、家族とごく少ない古くからの友人以外は疎遠になっても一向に構わないという、俺とは正反対の所がある。まー「袖すり合うも多生の縁」という諺などは、金輪際思いつかないような種類の人だ。案の定、こんな達観した説明が追加されてきた。
「この随筆が貴方にとってどれだけ大切なものか、他の人たちに分かるの? あなたって、テレビもサッカー以外は観ないし、同人誌でもこれと関わりの少ないことはほとんど書いてないはず。この随筆のギター場面でも単なる音楽好きとだけ取られることもあるよねー。確かこの作品の合評会でも『問題提起の重さの割に、ギター場面が軽い』とかの声も出たとか。貴方のギター生活を毎日観てる私には、とてもそうは思えないけどね。とにかく、これであっさり謝ったら、単なる礼儀知らずか、酔っ払いと思われるだけじゃない」
 なるほどと思った。流石出会ってこの五十数年、ありとあらゆるケンカをし尽くしてきている仲だけのことはある。世間との付き合い方も対照的だからこそ、こんな的確な判断、表現が出てきたのだろう。そしてさらに、こんな老婆心までが続いたものだ。
「ただね、もし向こうが改めて出てくれと言ってきたら、どうするの?」
 これには即座にこう答えたのは言うまでもない。
「だったら、改めて出席して、あの随筆を読み直すよ」
 そう口に出しながら、こんな思いを巡らせていた。こういう人間がいると主張し尽くすのも、良いことだろう。特に、日本の男たちには。だが、「出てくれ」ともう一度言ってくるだろうか? 対する彼女の方はと言えば、この時はこんな見通しを持っていたようだ。俺には思いつきもしなかったことだが。

(次回終了)
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