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小説「母が僕らに遺したもの」②  文科系

2018年08月14日 10時00分13秒 | 文芸作品
 週に複数回走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。こういう大切な快感は、何と名付けようか。イチローやナカタなどこのセンスが特別に鋭い人の話をする必要があるような時、このセンスを何と呼んで話し始めたらいいのだろう。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚、それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめるというそのことの結果と見るべきではないだろうか。そういう理念を現に噛みしめているつもりの者からすれば、不摂生のためすっかり体型がくずれてしまったかに見える体協の役員の方などを見るのは悲しい。勝ち負けには通じられていたかも知れないが、「身体のセンス」はどこか遠くに置き忘れてこられたように見えるから。その姿で「生涯スポーツ」を説かれたとしても、「言行不一致」を免れることはできないだろう。(注  その③の終わりにこの部分への注があります)

 長々とスポーツのことを語って来た。スポーツを巡る僕の幸せの略歴や内容を表現したかったからだ。そしてこれらが、厳しい「敵」、反面教師として、両親にその源のところで育てられたものだからだ。熱心な反対は無視とは別物で、良いものをそのように掘り下げていくエネルギーにも転化していくと、今なら言える。まなじり決した執拗な反対があったからそれだけ燃えたし、守ったものを大事にしてきたと言っても良かろう。ただ厳しい反対に抗って創造が続けられるためには、対立しあった双方が切れてしまわない限りという条件が付くのではないか。だからこそ今、僕のスポーツ生活全てに関わって、夜毎の修羅場周辺をうろうろしていた母自身が、懐かしい。その時の両親を表現するなら、父は何か狭くて、頑なだったけれど、母のこの「うろうろ」にはぎりぎりの所で情というものが感じられた。そしてこの時の情の感じが、時を経るごとに大きなものになっていき、看病の五年間で最も多く思い出された母との過去の一つになっていた。これは、母から観ても同じだろう。苦労した子ほど可愛いとよく言われるから、この夜毎の「うろうろ」が母の中でも太い糸になっていて不思議はない。
 三人兄弟一姉妹で次男の僕が結局、晩年の両親と同居することになったのは、今振り返ればこの太い糸が後にますます太く育っていった、その末のことだったという気がする。例えば、同居以前も我が家が母の避難場所であったという事実がある。母は晩年の父とよくけんかして家出をしたが、その逃げ込み先のほとんどが僕の家だった。あの母が子の家へ避難するというのはよくよくのことなのである。たまに人間くさい本音が漏れて出るように振る舞うことはあるが、普段は、また子どもに対しては特に、いつも襟を正しているというような所があったから。年を取って弱くなったということもあろうが、僕ら夫婦には自分の弱さを出すことができるようになっていたのではないか。それも、あの「うろうろ」を典型として感情がもつれたような場面に、誰よりも僕と出会わすことが多かったからのことではなかったろうか。


 さて、こんな生活が半年近く続いたある明け方、僕は夢をみた。冷夏の分を秋の入り口に来て取り戻そうとでもいうような、寝苦しい一夜の未明のことである。
 夢の僕は八十過ぎの老人だ。子ども二人はもう同居していない。一人は同じこの市に住んでいるようだが、もう一人はどうも日本にはいないらしい。そして何よりも、連れ合いがいない。亡くなったばかりなのだ。原因とかどんな経過でとかについては、糖尿病が絡んでいるらしいという以外には何の感じもなくて、ただ喪失したという事実だけが、僕の夢によくあるあのリアルな寂寥感とともに存在していた。こうしてつまり、両親から相続しただだ広い家に住んでいるのは僕一人。母の好みで花木ばかりが多い庭はまあ辛うじて見える程度には剪定され、父の生前から二階の窓際の定位置にある藤の長椅子に横になって、僕がそれらを見ているというシテュエーションである。
 十メートルほど向こうに、暮れ始めた秋の陽に当たって、背の高い白木蓮が見える。なぜか上半分ほどはもう葉がついていない。古い骸骨みたいだなーと感じている。ごつごつと曲がって痩せ細り、水気も感じられない灰色、おまけに所々に節くれはあるし。
 あの木は、母さん(母のほう)の剪定が悪くて、幹に穴が開いて死にかけてた奴。ぼくらが穴の手当をしたら、幹までどんどん太っていったんだった。同居を始めたばかりのころ、この手当はかーさん(連れ合いのほう)の提案だった。もう寿命なのかなー。

 と、突然、打って変わったように強い日差しがあって、白木蓮の太い枝の付け根に座り込んでいる五十前後の僕が見えてきた。すると、籐椅子にいる僕が晩年の父にすり替わっている。彼は珍しく目を閉じていなくて、木の上の僕を眩しそうに見ている。木の下でうろうろしてるのは、あー母さんのほうだ。やはり両手で目の上に日よけを作って僕を見上げている。かーさんが向こうに、何か道具をもって現れた。小刀のようだな。僕がさっき頼んだんだろう。ピアノが聞こえる。あの曲は、高校へ入ったばかりの娘の、・・・・発表会の直前なんだ、同じ一箇所がもう何十回も繰り返されている。これら全体を見ているようなもう一人の僕の耳に、この音が転がってしばらく止まない。

 と、また突然、木の上の僕もこれら全体を見ている心だけの存在であるような僕も、元の八十歳で一人住まいの籐椅子姿へと戻っていった。
「おーい、かーさん」、八十の僕が言いかけた。続くはずの言葉は「お茶しようか!」のようで、一瞬首を回して、もう腰をあげそうになっている。ちなみに、母も子ども二人も居た昔からお茶は僕の当番、煎茶も玉露も紅茶も。そして毎朝のコーヒーは、生前の母のベッドサイドに出勤前の僕がいつも持って行ったものだ。しかし、今はこの提案に誰の返事が合わされることもない。何を喋っても、独り言にしかならない家の中なのに、習慣的言動を条件の変化に合わせてなくするということがいつまでもできないのだと噛みしめている。こういう言動はどうもボケの始まりと言うらしいが、会話ゼロの深閑とした生活の中で急に深刻さを増しているのだという実感も、はっきりと湧いていた。 
 どんどん『昔を生きる人』の深みにはまっていく。そう言えば、同じこの藤椅子にいた父さんは、それが早かったなー。六十半ばからもう一日中ここに座ってた感じ。僕が声をかけるとゆっくりと振り向いて、にそっと笑い返してきたから、眠ってたわけじゃない。恥ずかしいというような、何か遠慮しているというような良い笑顔だったけど、あのときは例えば母さんとの新婚時代なんかでも思い出してたんだろうか?


(もう一回続く)
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