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今読んでいる本は面白いのばかり   文科系

2018年08月24日 11時23分11秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 ここにも良く書評を書いてきて、その書評というのも詳しい内容紹介を何回にも分けてやってきたが、今日は今同時進行で読んでいる何冊かの本のざっとした紹介をしようと思い立った。いずれも優れた興味深い物ばかりが偶然重なった時期のように思えるからだ。
 最初に、前置きとして、僕の本の選び方について。結局は書店で現物を見ながら買う場合がほとんどだが、新聞や週刊誌などの書評欄から店頭で探す場合が多い。たくさん買うので、今は新書版がほとんどである。
 これらの読み方は、おおむねこんなふうだ。①ざっと目次を見る。②そこの主要点を、前書き、後書きなどと共に読み、執筆の問題意識と結論という輪郭をつかむ。③そこから、その本の価値を推し量り、すぐ精読してここにほぼ全編を内容紹介したいもの、ちょっと先に回してもきちんと読みたい物、今ざっと読み飛ばして終わりにする物などに分ける。なお、買ったけれどほとんど読まないという本は僕の場合ない。既に店頭でざっと目を通して買うからだろう。
 さて、まず、以下の紹介本自身の順番だが僕が買い入れた時の古い順に紹介する。上の方の古い本は、上で言うところの「ちょっと先に回してもきちんと読みたい」一通りは読んだものになる。それぞれの紹介内容は、出版社と書名、著者名、印刷(発行ではない。第5刷○月○日とかの・・・)年月日、そして概要紹介というもの。概要紹介はその著作の問題意識程度になるだろう。

岩波新書「古代国家はいつ成立したか」。都出比呂志大阪大学名誉教授(考古学)。14年11月5日
 「弥生社会をどう見るか」「卑弥呼」から始まって、「巨大古墳と古墳の終焉」「律令国家」と続いて、題名の結論で終わる。文献史学に比べて考古学の方がよりリアルな事実の探求というように感ずるとは、以前に述べた通りである。

②中公新書「近現代日本史と歴史学 書き替えられてきた過去」。成田龍一日本女子大学人間社会学部現代社会学科教授。12年3月20日
 戦後日本では、日本近現代史の流れのつかみ方について、三つの時期があったこと、つまり2回解釈転換があったと述べて、その内容がまず明かされている。1960年ほどまでの社会経済史ベースの時代から、「民衆」史ベースの時代へ。次いでそこからさらに80年頃に起こった社会史ベースの時代へという変換であると。その上で、明治維新、大日本帝国、アジア・太平洋戦争などなど歴史の重要項目について、三つの時期それぞれでどう解釈変更されたかと、描かれていく。壮大かつ野心的な志と内容と感じたところだ。

中公新書「日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実」。吉田裕一橋大学院社会学研究科教授。17年12月25日
 書名に言う「現実」の中身は、こういうこと。餓死者、餓死以前の栄養失調からの戦病死兵士が圧倒的に多かったと。そして制空権を握られてからの海没者など、戦争末期の死者が特に多かったこと。もう一年早く終わっていたら死なずにすんだ人がどれだけいたかなどと思って読んだものだ。これらが、可能な限り詳しい数字と共に述べられている。

ちくま新書「日本の転機 米中の狭間でどう生き残るか」。ロナルド・ドーア、ロンドン大学名誉教授・同志社大学名誉文化博士(日本経済、日本社会構造)。12年11月10日
 副題の通りの内容である。つまり、米中冷戦が既に始まっているのだが、「では、日本はどうしよう?」と。中国の欠点を挙げ、今にも崩壊するというような日本マスコミほとんどの「アクセス報道」(下記⑤参照)論調とはかなり違う描き方だから、驚くことも多かった。トランプ政権になってからさらに進んだ世界慣行制度無視によるアメリカの権威失墜は、それだけアメリカの困窮ぶりの帰結なのでもあって、世界史を10~20年単位で見た大家のみに可能な貴重な著作と思う。

⑤集英社新書「権力と新聞の大問題」。望月衣塑子東京新聞社会部記者、マーティン・ファクラー前ニューヨーク・タイムス東京支局長。18年6月20日
 管官房長官記者会見で厳しい質問を浴びせ続けて来たことで名をはせた女性記者を、日本マスメディアの根本的欠陥に通じた同業米記者が励ます内容と言って良い。マスコミ報道には、報道対象関係者の言葉などをそのまま伝える「アクセス報道」と、事件を詳細に調べて記者の見解なども入れる調査報道とがあるが、日本は前者ばかりだから政治家らとも密着しやすく、政権忖度から批判が少なすぎると描かれてあった。

⑥角川新書「日本型組織の病を考える」。村木厚子元厚生労働事務次官。18年8月10日
 言わずと知れた冤罪事件の主。取り調べの可視化など一定の検察改革にも繋がった著者の体験を通じて表題のこと、改革方向などを説いた物である。

⑦集英社新書「スノーデン 監視大国日本を語る」。エドワード・スノーデン元米シニア情報局員、国谷裕子キャスター、ジョセフ・ケナタッチ国連人権理事会特別報告者他。18年8月22日
 この興味深い著者らの取り合わせに即引かれた本だが、内容は、現代世界の民主主義の生死に関わってくるほどに大きな問題、解決方向を語っている。スノーデンの運命はどうなるのだろうと憂慮していたが、この大悪と戦っている団体、人々がこのように存在するのだと、勇気づけられたものだ。

 他に、③の著者、吉田裕の「昭和天皇の終戦史」(岩波新書)も読んでいるが、目配りの広い、天皇に厳しい内容になっていると読んだ。吉田裕は戦後の著名な近現代史家、藤原彰の弟子のようだが、僕が愛読してきた歴史学者である。


 なお、上記太字の人物、著作は、このブログの中に既に一部書評などが存在することを示している。その出し方はこうする。右欄外最上部にある「記事を書く」の右にある「検索」空欄に氏名(が該当エントリーに最も上手く行き着ける)を入れて、さらに右のウェブ欄をクリックして「このブログ内で」に替えて、右の天眼鏡印をクリックして検索をかける。すると、エントリー本欄が、その語の当ブログ内関係エントリーに変わりますから、お好きな物をお読み願えます。
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小説 「歳々年々人同じからず」(1)  文科系

2018年08月24日 00時00分02秒 | 文芸作品
(一)

 明るいベージュ系でまとめたボックスのようだが、部屋の全てがかび臭かった。小さなステージは真上に回る赤っぽいミラーボールに照らされ、そこで千草が口を大きく開けて歌っていた。太目の長い脚がぐんっと伸びて、今の加代子には気圧されるような大学一年生である。その千草の大口の形から首の傾げ方まで、彼女にもどこか心覚えがあり、部屋に入って初めての声をやっともらした。肩をすぼめ、隣に座っている息子の省治にいっそう身体をくっつけながら。
 「テレビによく出てくるグループの歌手に全部似てるわね」。「うん。ドリカムって言うの、ドゥリィムズ・カム・トゥルー。曲は『ラブ・ラブ・ラブ』。お祖母ちゃん、聞こえた?」、太一が、他人が聞いたらどなっているとしか感じられないような声で、応えた。加代子は耳が遠いのである。「夢が、ホントに、来る? ああ、正夢になるってこと」とつぶやく加代子。「きっと、そういうことでしょうね」、恵子が、あごでリズムを取り、選曲リストに見入りながら、これも大声で相づちを打つ。
 「ちょっと不思議な良い曲だけど、リズムは難しいし、半音はいっぱいだし、音を取るのが大変だこと。チーちゃん、よくこんな音が取れるわね。やっぱり音楽専攻だ、ねぇ恵子さん」。恵子は、高校音楽過程の講師をずっと勤めてきたらしい加代子の言葉だと思いながら、大きくうなづき返した。
 「お祖母ちゃんも母ちゃんも、歌、決めた?早く決めんと、千草、ずっと歌っとるぞ」。わざとのようにおっくうそうにリストをくりながら、太一がボソッと催促した。その言葉にあわてさせられたという表情で、八十三歳の祖母は本をのぞき込む。「私の知ってる歌が、あるかねぇ」
 省治は、それとなく母を視野に入れ、自分もリストをくって彼女の歌えそうな曲を探しながら、心でこうつぶやいていた。〈うん、よしよし、一度カラオケボックスに連れて来たかったんだ。それにしても、即座に「行く」とよく応えたもんだ。それも、例によって「面白そうね」って感じだったなぁ〉
 その間に、太一の「ユー・ワー・マイン」が始まった。兄妹はもちろん、家族中が好きな久保田利伸の歌で、カラオケ家族リサイタルの定番である。省治も数年前、千草に頼み、彼のライブを二人並んで聴きに出かけたことがあったが、このテレビにも積極的に出ようとはしなくて、アイドルにもほど遠い猿顔の小男のために、八千の会場がいっぱいだったのには驚いたものだ。それも、二日間の券が発売二時間で売り切れたのだそうだ。
 〈こんなくそ難しいリズムを太一も上手く歌うもんだ。俺が、千草に採譜を頼み、その楽譜に数日首っ引きで必死になってやっと覚えた歌なのに、その俺のが負けとる〉、省治が改めて内心喜びつつ恵子の方を振り向くと二人の目が合った。恵子はあごをさらに大きく、ちょっと下手くそに前後に出し入れしながら、同意するように笑った。加代子はあいかわらず、各ページを丹念に見つめていた。
 「歌いたいやつ、あった?」、省治がたずねた。「知らないのばっかりで、それも多すぎて、目が回りそう」と、加代子。「あんたが何を知ってるか、あんまり分からんもんなぁ」
 「『ゴンドラの歌』ならあるんじゃない?」、恵子が準備してきたように横から口を出した。「いーのちーみじーかしー、でしょう?それ、あるの?」加代子の目や頬のあたりが見るからにゆるむ。〈良かった、好きな歌らしい〉、省治の口許もゆるんだ。
 やがて、その歌が始まった。加代子は、既にイントロから背筋を伸ばし、肩から頬にかけて力が入り、その加代子に、孫の大学生兄妹が時折目だけを動かすようにして、視線を流していた。ところが、歌が始まると兄の視線がぴたりと固定した。両膝にのせた左右の肘が上半身を支え、背中は丸めて顔だけをぐっと持ち上げ、加代子を真っ正面から見すえている。その顔は全く無表情だが真面目そのものだ。恵子も省治も横目でそう認めた。省治はさらに、この姿勢に込められたものに心当たりがないでもないと考え込んでいたのである。

 「人間、すぐに死ぬんだ、もっと燃えよう、そんな歌なんだね、お祖母ちゃん?」
 冷えてきた帰り道に、太一の強い声が唐突に響く。
 一瞬、間を置いてから、加代子。「うん。昔、『生きる』という映画があってね、あの歌がテーマだった。末期癌を告げられた定年近い公務員が、自分の最後の生き方を求めていくという筋で、ほんと考えさせられた映画だったよ」
 「ふーん、『生きる』かぁ。聞いたことはあるなぁ」
 省治は、二人のやり取りに心を暖められながら、太一と肩を並べて歩く加代子の後ろ姿のそこここに、老いが人間を破壊していく力というようなものを探していた。数年前に亡くなった父のリハビリなどにつきあう中で彼が発見してあっけにとられた力であり、その力の前で自分がだんだん無力感に捉えられていったものだ。

(二)

 次の朝、十二月後半の空気が静かだがきらきらと輝いて早春のような日曜日、省治は、毎朝の習いで加代子の寝床にコーヒーを運んだ。まだベッドにいる彼女が入れ歯を外した口を布団の端に隠し、両手を幾度か滑らせて白髪をなでつけながら、ぼそぼそと言ったものだ。早く醒めて何か考え事をしていた、その話らしい。
 「私は、傲慢な人間だったとつくづく思うわ。世の中に気弱な人がいるなんて考えたこともなかった。そんなことは全く見えず、ただ自分の前だけ見て、生きてきた」
 たいそうな言葉だが、この頃の二人の普通の会話だ。
 「なにぃ、また『老いて初めてわかったこと』の話?」
 「うん。お祖母さんの『欠け湯飲みの話』も、この頃初めてあんたが説明して来たとおりだと思うようになったよ」
 「『欠け湯飲みの話』ねぇ。やっぱりお祖母さんがひがんでたと思うんだろ?」と省治。
 『欠け湯飲みの話』というのは、こういうことだ。加代子の母、サヨさんが晩年の病床でお茶を注文したときに、長兄の嫁、ハルカさんが持ってきた湯飲みが少し欠けていたということがあった。
 「ハルカは欠け湯飲みを出した。乞食にでも出すように」
 サヨさんは死ぬまで何度、加代子にこう愚痴ったことか。そして、この話を加代子から初めて聞いたとき省治はこんなふうに応えたものだ。
 「サヨさんがあれだけ褒めてたハルカさんなんだから、悪意はなかったよ、きっと。弱い立場に慣れてない人が自分が何もできないと認めたときに急に人を悪く取り始める、ひねくれるということの一つじゃないかなぁ」

 「うん、ひがんでたんだと思う。お祖母さんも元気なころならそんなこと笑い飛ばしたよねぇ。身近な人が自分を粗末に扱うなんて考えたこともない人だから」
 今、加代子はそう応えた。
 「あんたも同じだろう?エライ人だったからなぁ」
 そう、確かに加代子は八十前後までは省治らにとってエライ人だった。明治生まれの共稼ぎの走りで、男と全く同じ仕事をして同じ給料を稼ぎながら、四人のこどもを育てた母だった。洗濯機も炊飯器も冷凍庫もない時代から、四人の子どもに家事をほとんどさせずに。
 〈寝付いたのを見たこともないし、身体も類い希に丈夫だったんだろうな。車が買える時代に入って、家族で最初に運転免許を取ったのも、五十頃のカヨコさんだった。しばらくして、家にダットサンの中古が来たんだったなぁ〉
省治は今、こんなことも懐かしんでいた。しかも加代子は、これらの苦労一切を子どもが気にとめる必要は全くないことと強く言い聞かせていたから、微笑みながら片づけることができたようなのだ。もっとも、このことが子どもに良いことだとは省治は今でも思っていないが、世事に長けた子どもは勉強向きの頭がなくなると加代子は考えていたらしい。『孟母三遷』の母、それも、共稼ぎの孟母である。
 またこの孟母は、母を務め終えてはるか後にも、こんなエピソードを持った人だった。省治が何かの折りに苦笑い混じりでたしなめたことがあった。「そんなことー、八十のお婆さんが手を出してみるというようなことじゃないでしょう!」。これに対して加代子、抑えた声だが、唇も顔も震わせて返してきたのだった。
 「そういう言い方はないでしょう。私のどこが八十のお婆さんに見える。言ってみなさいよ」
 この言葉に省治、本心から返答できなかったという覚えがあったのだ。

〈こういう人が、八十を超えて間もなく全く逆の性格に変わっちゃったんだ。そしてもう、自分の得意なことでさえ、恵子の一挙手一投足まで観察し、自分を譲るようになってるものなぁ。そう言えば、「歳をとったら嫁に文句があっても言うだけ損だよ」と言った人がいるとか俺に話したことがあるけど、あれが今精いっぱいの抗議なのか。あれは何の話の時だったかなぁ?   老いるとはこういうこともありなんだ〉


(あと2回続く)
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