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改めて「太平洋戦争の大嘘」という大嘘(1)~(3)  文科系

2018年08月15日 11時54分43秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 何度も何度も近年の日本の一部だけで叫んでいるねじ曲がった太平洋戦争本の広告がここに載るので、こちらも世界史論として定着している太平洋戦争論を今一度掲げ直したい。三つの反論を一つにまとめた。

【 真珠湾と、アメリカ参戦  文科系 2018年04月01日

 拙稿の「太平洋戦争史」が気になる集団がいるしく、藤井厳喜さんとやらの「日本人が知らない、太平洋戦争の大嘘」と名付けられた本の広告がこのブログに再三掲載されてくる。その概要が宣伝文句として書いてあって、以下その事を一つ一つ批判してみたい。嘘も言いようという典型内容だと思う。これでは世界が習っている日本近代史が全て嘘になってしまう。ただし、こんな「太平洋戦争史」は、今大問題になっている佐川なんとかさんと同じで、安倍の日本復古調時代に咲いた、今の日本の一部にも通じないあだ花である。
 以下、初めに藤井さんの言い分をひとつずつ書いて、僕の反論を述べる。

・『日本が真珠湾を奇襲攻撃したあの日、アメリカ大統領とイギリス首相は驚きや怒りなどではなく、電話で歓喜に狂ったのは何故か?』
 イギリス首相が喜んだのは当たり前。モンロー主義を取って来て当時の西欧俗世界から距離を置いていたやのアメリカが、ついに連合軍側について、全体主義国家と戦ってくれることになったのだから。時あたかも、大陸ロシア以外のヨーロッパはドイツに征服されて、次はイギリス上陸・征服戦が始まるかという時だったのだし。
 他方アメリカは、イギリスがフランスのようにドイツに征服されるかも知れぬと、怖れ始めていた。ヒトラーの全体主義世界実現をどうしても許せないと、モンロー主義をかなぐり捨てて参戦する機会を待ち望むようになっていたのである。日本の中国・インドシナ南下策、真珠湾が、その絶好の国民向け口実与えたということだろう。

・『「絶対に戦争はしない」と誓って大統領に当選したルーズベルト…それなのに、なぜ戦争は始まったのか?国民を騙して戦争に引きずり込んだ、彼の裏の顔とは?』
 ヨーロッパ植民地主義国の昔ながらの列強戦争、アメリカ大陸干渉をアメリカが嫌っていたからこそ、モンロー主義を取っていたのである。が、ドイツ、日本という民主主義を否定する全体主義独裁国家が勝てば、次は民主主義国家としてのアメリカの存立も危うくなる。「モンロー主義を捨てて参戦」をどうしても国民に認めて貰わねばならなかったという情勢だった。
 そもそも、この戦争を始めたのは、ドイツと日本である。ドイツのポーランド電撃進入と、日本の中国・インドシナ南下作戦と真珠湾とが並んで起これば、アメリカが参戦しないわけがないのだ。日本の方が逆に、アメリカのモンロー主義を信じすぎたのかも知れない。ヒトラーと同じで、軍部独裁国家は政治理念、思想にはてんで弱かったということだろう。日本の中国・インドシナ南下作戦などに対してアメリカが「石油禁輸措置」を取ったのは、当時の日本政府にとって本当に驚きであった。自分の全体主義的軍事独裁はエスカレートするばかりだったのだから、アメリカ流民主主義死守の姿勢を信じられなかったのであろう。日本軍部はそもそも、アメリカの対英独立戦争から始まる民主主義思想をアメリカがどれだけ信奉していたかも信じていなかったのだろう。】


【 「日本の和平提案」? 「ハルノート」?  文科系 2018年04月02日

 拙稿の「太平洋戦争史」が気になる人々が多いようだ。藤井厳喜さんとやらの「日本人が知らない、太平洋戦争の大嘘」という本の広告がこのブログに再三掲載されてくる。調べてみたら、安倍首相のブレーンの1人のようで、国会議員選挙に2度も出て2度とも落ちているお人。政治学者とあるが、政治学よりもどうも保守政治家になりたいお方らしい。それも、安倍周辺の政治家。加えてこの御本、無料で配布しているとあった。どこかから金が出ているのだろう。
 
 さて、この本の概要が宣伝文句に書いてあって、その事を一つ一つ批判してきたその2回目である。『 』内は、その本の宣伝文句。

・『日本は終戦まで、アメリカに何度も何度も和平提案を送っていた。それを完全に無視し続けた上での原爆投下…瀕死の日本に、どうしてそこまでする必要があったのか?「原爆が正義だ」という狂気のデタラメを生み出した世界の力関係とは?』
 日本がアメリカに和平打診をしたかどうかなどは、ここでは大した問題ではない。現に、敗勢著しくなってもポツダム宣言を受けなかったという世界史的事実があるのだから。この全面降伏勧告を受けなかったことが、原爆投下という惨劇に繋がったという事の方こそ、日本国民も世界も周知の事実である。

・『日本人が戦争に踏み切るきっかけとなった「ハル・ノート」。なぜ、そんな重要な内容を私たち日本人は教えられないのか?アメリカ大物議員すらも「国民への裏切り」だと絶句した、その内容とは?』
 ハルノートが『日本人が戦争に踏み切るきっかけとなった』というのが、大嘘である。大嘘というよりも、「ハルノートに怒り心頭! 開戦やむなし」とは、当時の日本側が戦意高揚のための宣伝に使っただけのこと。
 この文書は、開戦原因として『そんな重要な内容』なのではない。ハルノートは、12月8日の開戦直前の11月末に日本に送られてきたもの。日本は既に、開戦準備を密かに、すっかり終えてしまって真珠湾に向けた出撃さえ始まっていた段階で届いたものである。戦争原因については、それ以前にこういう経過があった。満州事変・国連脱退から、中国南下を続けた日本に、国連、アメリカが再三の警告と、「制裁措置」を与えてきた。「国際不法行為」と「強制・制裁措置」とのエスカレートと言えば、今の北朝鮮と国連との関係のようなもの。「石油禁輸も含めて」日本がほぼ全面的に悪かったから起こったことなのだ。いきなりポーランドに進撃して非難されたドイツとの、兄弟国だけのことはある。

 以上の太平洋戦争の原因論争と、これについての右流ねじ曲げ論批判とは、このブログには無数にあるが、最も最近のものでは以下のエントリーを参照されたい。本年1月29日「太平洋戦争、右流ねじ曲げ理論に」】


【 日独は、国連も脱退した無法者だった 文科系 2018年04月06日

 さっき、こういうコメントを付けた。これをやや詳論したい。

『 戦前日本を庇う人が、その国連脱退を何も見ず、ハルノートのような太平洋戦争直前の「不当性」を問題にしているのが、笑える。要は、こういう話なのだから。
「国連をさえ脱退した国際的無法者が、それらの記憶も薄れた今になって何を言うか! その無法者ぶりには頬被りして・・・」
 大東亜共栄圏が出来たら、アジア人は日本天皇の臣民にされたろう。天皇制を批判したら、死刑である。これは、もしもドイツが勝っていたら世界がこうなっていたのと同じ事だ。ユダヤ人、身障者、黒人などの皆殺し。
 こんな世界を誰が望んだろうか。だからこそ、日独が負けたことが、世界にとってどれだけ良かったことか! 今の世界のみんながそう考えるはずである。』

 このコメント前半部分は、右論者の常道の一つ。1931~3年の満州事変、国連脱退を何も語らないのである。現代世界では、北朝鮮でさえ脱退していないのに。国連を脱退すれば、国連法に縛られなくなる代わりに、独立国として認められる国連の庇護が無くなるわけである。戦前日本はこれ以降の事実として、どんどん無法者になっていった。(今回つける文科系の注  こうして、現在アメリカが国連無視へとどんどん傾いていることは、極めて要チェック事項なのである。ここに書いた日独の歴史の全てをあげてそう言いたい。ちなみにアメリカのこの国連無視行為が、1930年代の日独と同じように、世界有数の軍事力に物を言わせているという、この点が重要なのだ。イラン、シリア、北朝鮮、そして中国・・・全てに対してそうなのである。)

 コメント後半の「もし日独が大戦に勝ったら」という問いも、大戦をどう見るかにとって極めて重要なものだろう。
 日本には国民はいなくて臣民(天皇の家来である民)だけが存在したのだから、大東亜共栄圏とはこういうものになったはずだ。日本の天皇が支配するアジアに。日本天皇制度を批判したら、先ず死刑という「共栄圏」である。まー今戦前日本が批判されている朝鮮や、中国の一部やのような有り様を考えてみればよい。安重根のようなその国の愛国人士が殺されたとか、南京大虐殺のように反日勢力は皆殺しにあったとか。
 また、ヒトラーの世界支配など今の誰が望むのだろうか。鬼畜と言われた米英は、日独にも自由を与えた。原理としては黒人も有色人種も安心して住める社会であったし、戦後社会は事実としてもどんどんそう進んでいった。日独が勝っていたら、とうていこんな世界は来なかったと思えば、ぞっとするのである。
 こういう事実を前にしたら、右論者がよく語るこんな理屈も全く噴飯ものもいーところとなろう。
「日本、太平洋戦争は、植民地解放に貢献した」】
コメント (2)
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小説 「母が僕らに遺したもの」③終わりです  文科系

2018年08月15日 00時32分55秒 | 文芸作品
 この時また、籐椅子の父が見えてくる。するとそれを見た当時の僕の感じがさらにまた蘇って来た。いや、夢そのものが、当時のことになってしまった。夢の舞台は籐椅子だけ、登場人物はもちろん六十代の父だけだ。僕は当然三十代なのだが、夢自身には登場していなくて、この夢を目として見ながら、心として感じ、考えているだけの存在だ。
 まだ父の顔には精気が残っている。だけど、一日中そこに座っている。時に本や碁石の定石書なんかを開くが、それもあまり続かない。母が傍らのテレビを点けても、ドラマの途中で寝入ったりしている。母は、父のこの籐椅子姿がイヤでイヤで、「あれを見ていると、私が病気になりそうだ」と吐き捨てるような愚痴を言っていたものだ。僕が何か病的なものを感ずるほどの、ある種の感情がこもった愚痴だった。まあ、当時の母も加わったこんな場面が切れ切れのスローフィルムのように続いたのである。
 そして僕は考えている。父は、やることがなかった? 時間を費やす術がなかった? 度々行けるような外出先も碁会所ぐらいだし、友だちは居なかったし。家で暇な時にいつでも始められ、何時間かを費やせるというものがなかった? 
 するとそのとき、不意に思いだした。昔の「籐椅子の父」に因んで、当時の僕に湧いたある一つの想念、仮説のようなものを。要約すればこんな感じになるだろう。
 健全で、素直で、一途な父にとっては、職場での評価が人生の全てだったのだ。そもそも、辺境で恵まれない貧乏子だくさんの家に生まれたのに、職場最強学閥の大学院卒のような学歴を得ていたのだし、力はあったし、努力もしたし。事実として節目節目を最高の評価で乗り越えてきたみたいだし。戦前の若いうちから職場の周りの人々にも日々「そういう者として」接されてきたことだろうし。さてそれ以降、彼に「その刺激」に並ぶものがあったろうか。そもそも、それ以外の刺激を育くむ機会が、彼にありえただろうか。今はもう、この六十代半ばで父は既に余生を暮らしているのだ。母は父のこの「余生」に一時呆然とし、やがて怒りだしたんだろう、きっと。
 これが、三十代の僕が父の藤椅子姿を巡って感じ取ったものだった。
 
「余生でもいいよなー、父さん。母さん二人は怒るだろうけど?」
八十の心だけの僕がなぜか突然そう問うている。と、これも八十の顔に戻った父が僕の方に例のどこか恥ずかしげな微笑みを振り向けて、答え返す。
「母さんは、毎日怒ってたよ。それも八十前には、くるっと変わったけどな。急に怒らなくなったのは、多分自分をも嫌い始めたからだ、きっと」
「人は遅かれ早かれいつかどっかで、自分の老いと折り合いをつけなきゃということだね」
「そうそう、そんなに頑張らんでもええじゃないか。私はもう頑張ったし、やることもない、とね」
「母さんはもっと頑張りたかったんだよ。それに父さん、飯や洗濯ぐらいやれんと、そういう母さんを邪魔することになる。ずっと共稼ぎだったんだし」
「それは分かってますよ。だから母さんには最後までずっと頭が上がらなかった」
「そうそう、世話されてる限り結局言い負かされるから、よく『母さん、貴方は偉い』とか大声出して、ふてくされちゃってたね」
「おまえは何でもできるから、言い負かされないんだろう? 私らと違って仲も良さそうだし」
「母さんがそんなこと聞いたら笑うよ。いつも僕が負かされてるのを知って、不憫とさえ思ってたはずだから。やっぱりやることの絶対量が僕とはちがうし、女性は明治生まれより昭和の方が注文の口もうるさいし、きついきつい」
「そうだろうなー、生まれた時から参政権与えられることになっていた戦後昭和の共稼ぎ女というようなもんだからなー。でもな、明治生まれの共稼ぎ男には、特別な辛さもありますよ」
「そうだろうねー。・・・・うちの二人はとにかく特別。育った時の苦労というか努力というか、その質も量も違ってた」
「なるほど、なるほど。それじゃおまえもなかなか大変だったわけだ。はっはっはっ」

 おおむねこんな会話を残して、父の籐椅子姿は消えていった。
僕の眼前はまた秋の夕暮れ時で、「古い骸骨」の白木蓮が見えている。だだっ広い家に一人ぼっちの八十過ぎ、広縁に置かれた籐椅子に横になった夢の初めに戻っている。もちろん連れ合いが死んだばかりの、新米の男やもめだ。
〈父さんも、籐椅子の上ではいつも、昔の人たちとこんなふうにしゃべり合ってたのかなー。それでも父さんは、現実の母さんに甘えられたわけだし、晩年は僕らの家族も一緒だった。
 また訪れた慣れることのできないと感じている静けさの中で僕はそうつぶやくと、ふーっと小さく息をはく。
 こんな静かな一人よりも、いくらうるさくても少々労力が必要でも、連れ合いがいたほうがどれだけ良いことか。そんな情念を、うっすらと開けた目に天井をうつしながら何度も反芻している。そして、気付いた。籐椅子の上で目を開けたのではなく、朝の寝床でなのだと。目を覚まし、現実の天井を実際に見ていたのである。

   
 何かあわてて耳を澄ましてみると、連れ合いが起きている気配を感じる。ちなみに僕らは、別々の部屋に寝ることにしているのだ。すぐにダイニングへ飛んで行き、いつものように昨朝の出し殻が残ったコーヒーメーカーを外して、キッチンへ持って行く。これを三往復ほどして、コーヒーやトーストや既に器に用意されていた果物入りのヨーグルトなどを食机に並べ、やがて二人で食べ始める。僕はいつものように新聞を読みながら。
 しばらく後、「今日、ジム行こうか?」、これもそうすることになる日のいつもの僕の発言だ。「うん、五時半ごろね」。彼女は、テレビニュースに目をやりながら、いつものように応え返す。こんなふうにして、近所のスポーツクラブへ週一度ほど二人で歩いていくことになる。そして、一人で通うのが各一回ほどで、これらは彼女にとっては、糖尿病対策にもなっている。
 そしてまた、それぞれの沈黙。ほどなく、僕がまたしゃべっている。「今度の小説、一昨日やっと終わり方が見えてきたから、できたらまた読んでくれるかなー?」。彼女は母に次ぐ読者なのだ。ただ、母に比べたらうるさい、うるさい。母は本を受け取ったその日のうちに必ず読むくせに読んだということすらすぐには伝えて来ないのに対して、こちらはやっと読んだと分かったそのときには、ほとんど字句上のことを取り上げて細々と切りがない。僕は文法にはほどほどの自信があり、むしろ内容や構成上の話がしたいというのに。ちなみに、彼女は国語の教師で、退職した今も元の学校に週何日か通っている。
 今日に限ってなんとなく僕の話題が多くなって、さらに次の話を持ちかけている。
「ギター、やっぱりあの先生の所へ通うことにするわー」
 最近下見に行ったあるギター教師のことを持ち出したのである。
「開放弦を清んだ音で弾くというだけで一時間実演、講義してもらってあれだけ興奮できるんだったら、習いに行くのは幸せなことだよ。楽しみなんでしょう?」
「ホント、わくわくするとはこういうことだったなーってね。あの音を作るだけで、フルートなみに単音楽器としても通用すると言いたいぐらいだもんな。あーこれ、前にももう言ったことだった」
 ちなみに彼女は、あるフルート兼リコーダーの教室に通っている。その教室は、年に一度クリスマスホームコンサートを開き、僕も毎年聴きに通ってもう二十年近くになろうか。子どもとお母さんたちが中心の教室で、「古楽研究会」に属する先生やその友人も演奏するから、出演者の腕は年齢以上にバラバラで、それがまた楽しい。コンサートの後にはいつも欠かさずパーティーも待っている。関係する家族すべてが各二皿ずつ持ち寄った得意料理が洋食、和食、中華、エスニックなど色も様々に机に溢れ、各国のワインなども取りそろえられてあるというパーティーである。我が家がここ5年ほど提出しているのは「牛肉のワイン煮」二皿。作者は僕、盛りつけが連れ合い。表面を焦がした牛肉の塊四百グラムほどを、ワインと水にウスターソースと醤油を加えた圧力釜で三分ほど揺すらせ、肉とソースを分けて冷やしてからまた合わせて、一夜以上漬け置きするという僕の晩酌への定番だ。料理が多すぎてかなり余るという、全員の舌による優勝劣敗の試練のなかを5年も生き延びた作品である。もっとも、最初の時に連れ合いが「とーさんの作品」と触れ回ってくれたからつとに有名で、好奇心半分の試食者も毎年多いのだろう。
 お金をかけずにこれほど十二分に人生を楽しむ場所を作りあげ、持続させてきた賢いお母さんたち。こんな光景の展開を、僕は始終体を揺すってにこにこしながら毎年享受している。さて、すでにここで一番の古株の一人になっている我がかーさんであるが、母と同じようにこれから八十までこの場所に来ることができるだろうか。

 母が居なくなって半年、このごろふっと思うのだ。退職後の僕ら夫婦のこんな生活も、同居した晩年の母と父とを見ながらこの十数年かけて大小の取捨選択を少しずつ重ねてきた、その結果ではなかったか。


 (おわり)


注 ここに述べた僕のスポーツ観とそっくりと感じられるものに最近出会った。この作品をほぼ書き終わったころに。考え方の構造だけでなく、用語まで似ていて驚きかつ嬉しかった。そして、こういう分野に興味のある方全てに、この本を心からお勧めしたいと思いたった。NHK出版、玉木正之氏の「スポーツ解体新書」である。なお、僕の当作品該当部分を、玉木氏のこの著作によって一部でも修正するということは、あえてしなかった。断りを入れて、修正した方が分かりやすくなったのかもしれないが、僕のオリジナルを崩したくはなかったからである。


コメント (1)
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