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朝鮮征服目指し40年、植民地35年(3)朝鮮征服と太平洋戦争  文科系

2018年08月23日 11時02分58秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 以下は、下記日付の当時、ある右の方と長い論争をしたその末のエントリーである。このお相手ザクロさんという方は、ネトウヨ諸君の種本内容をオウム返しするというのではなく、珍しく自分の頭で考えてこられた骨のある方であった。だから、論争も、右の方々の特徴がいろいろ学べるなど、僕にとってとても興味深いものになった。長いものだが、再掲したい。朝鮮半島侵出と太平洋戦争。為政者が最初から意図して結びつけて来たというものではないけれど、結果としては大いに結びついているのである。1904年日露戦争、そして朝鮮征服1910年。その少し後に日米関係を巡ってこんな重大事実が起こっている。
『 ちなみに、「帝国国防方針」の1923年2月28日改訂版で、アメリカが初めて帝国仮想敵国の筆頭にあげられるに至ったという資料もある。これまでの筆頭はロシアであった。
『仮想敵国 陸海軍共通のものとしてアメリカ、ロシア・中国がこれに次ぐ。(中略)国防方針第3項 中国をめぐる利害対立からの日米対立を予測』。岩波新書「満州事変から日中戦争へ」、著者は、加藤陽子東京大学大学院人文社会系研究科教授。』
(これは、以下文中の3の中にある記述です)


【 ざくろさんのアジア・太平洋戦争観   文科系  2011年04月02日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

前置き

 1国の戦争には、確かに意図と結果が存在しよう。そして、意図の通りに結果が出るものでもないだろうし、結果からだけ戦争の善悪を云々してみても無意味だ。
「泥棒に入った家にもう1人泥棒が居て、両者が殴り合いになった結果、家としては何も盗まれなかった。よって後からの泥棒が良い事をした」
と、こんな事を語って何か意味があるのか。
 かくのごとく意図と結果は別物であるのだから、歴史を論ずるやりかたではないのである。歴史は事実、真実の流れを叙述するというのが基本でなければならず、意図と結果はむしろそこから判明してくるということだろう。
 こういう視点で見れば、ざくろさんの語り口は、日本の戦争を派生的結果などを総動員してまで美化しすぎているし、日本の好ましくない意図が関わっているやの行為を「周囲にそう強いられた」「他国も同じような事をしていた」と言う側面を探し出してきてまで、免責しすぎていると、そう僕は思う。つまり、歴史の論じ方が情緒的に過ぎると思う。ちなみに、彼が僕の太平洋戦争論議に関わって「日本を『邪悪』と見ている」「アメリカを『正義』と見ている」と論難したが、こういう言葉を使っていないことでもあるし、こんな言い方は僕としては拒否するものである。
 また、サッカー代表戦などで日本を熱烈応援する僕だが、事実から見て醜く見えるような日本の過去の行為を無理に美化しようとは全く思わない。むしろ、反省すべきは反省してこそ、さらに美しい国にも出来、これを愛する事ももっと可能になるのだろうと考えている。また、こんな事をせねばならぬほど、美点の少ない国だとは僕には到底思えない。
「日本の過去の醜い点はなるべく美化しなければならない。そうでないと青少年が日本を愛せなくなる」

1 朝鮮併合

 僕はざくろさんにこう語った。
『明治維新直後の征韓論出兵騒動や江華島事件などなどの1870年代からおよそ40年かかって日本が朝鮮半島を併合したのも、「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」であるのか? この40年間に独立国であった朝鮮抑圧への反発を武力で抑えるべく、どれだけの方々を殺したことだろう。それもみんな「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」と貴方は言い張るのか。そもそも「朝鮮の人々のためにこそ40年かかって併合したのだ」という理屈を、朝鮮の人々が認めているとでも言われるのか? 』
 これに対して、彼はこう反論した。
『日本が明治維新直後から、ずっと朝鮮半島を狙っていた、というふうな見方は明らかに偏見でしょう(自覚あります?)。明治初期の征韓論は――理由はそれだけではありませんが、立場・考え方の違いから原因の一つとして――内乱(西南戦争)にまで発展して、一旦は消え去っています。』
 歴史的事実を上げておきたい。僕があげておいたのに彼が無視した1875年の江華島事件と、ここから生まれた不平等条約、日朝修好条規。1882年の壬午事件。その結末の一つに日本軍の常時駐留があるが、これは、帝国初の平時外国駐留軍ということになる。1884年の甲申事変では、反日感情が急増している。1894年の東学教徒反乱事件に際した日本の大兵力出兵。これは、日清戦争のきっかけになった事件でもある。朝鮮がきっかけで日清戦争も起こったというこの事実は、朝鮮のこの40年と後の日中戦争が結びついて何か象徴的な出来事のように僕は思う。
 こういう事実が続いていれば、『ずっと朝鮮半島を狙っていた』かどうかは別にして、上のように、僕がこう述べるのはごく自然な事のはずだ。
『明治維新直後の征韓論出兵騒動や江華島事件などなどの1870年代からおよそ40年かかって日本が朝鮮半島を併合したのも、「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」であるのか? 』
 
2 中国侵略と対米戦争

 僕がざくろさんに書いた事はこうだ。
『次いで対米戦争であるが、これも「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」の戦争などでは全くない。
 日本は中国侵略戦争を継続するために、これを中止させようとするアメリカ・イギリス・オランダと開戦することになったのであって、中国侵略戦争の延長線上に対英米欄戦争が発生したのであり、中国との戦争と対英米欄戦争とを分離して、別個の戦争と考えることはできない』
 対して彼は、中国侵略と対米戦争とを分けて語る。後者は帝国主義戦争であって、アジア開放には無関係であるとし、前者についてはおよそこのように。
【『中国についても、不戦条約などに従っていては欧米支配打破などはできなかったのだから、『悪行は(欧米と)五分と五分というのがぎりぎりのところ』であり、仕方なかった(『と大東亜戦争肯定論者の多くは捉えていると思います』)。ただ中国については、国民が欧米の奴隷状態でもなかったことなどから『日本の進撃が、支那人にとって、解放と映らなかった』。】
 これも歴史的事実と違っている。事実はこうだ。
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである』
『39年7月、アメリカは、天津のイギリス租界封鎖問題で日本との対立を深めていたイギリスに対する支援の姿勢を明確にするために、日米通商航海条約の廃棄を日本政府に通告した。さらに、40年9月に日本軍が北部仏印に進駐すると、同月末には鉄鋼、屑鉄の対日輸出を禁止し、金属・機械製品などにも、次第に輸出許可制が導入されていった』

3 太平洋戦争直前の日米関係様相

 こういうことの結末がさらに、石油問題も絡む以下である。太平洋戦争前夜、ぎりぎりの日米関係をうかがい見ることができよう。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった』
 以上『 』【 】内は、岩波新書「アジア・太平洋戦争」から。著者は、吉田裕一橋大学大学院社会学研究科教授。

 ちなみに、「帝国国防方針」の1923年2月28日改訂版で、アメリカが初めて帝国仮想敵国の筆頭にあげられるに至ったという資料もある。これまでの筆頭はロシアであった。
『仮想敵国 陸海軍共通のものとしてアメリカ、ロシア・中国がこれに次ぐ。(中略)国防方針第3項 中国をめぐる利害対立からの日米対立を予測』。岩波新書「満州事変から日中戦争へ」、著者は、加藤陽子東京大学大学院人文社会系研究科教授。


4 ザクロさんとの討論の結論
 
 以上全てから、ざくろさんが次のように語るのは史実をねじ曲げるものだと言いたい。
『真珠湾攻撃は、日本が南方資源を手に入れ、ヨーロッパ列強からアジアを解放しようとする日本の戦争に何の貢献もなかったばかりではない。それが、先の大戦の唯一の敗因となった。
 そのことを頭にいれておかなければ、大東亜戦争の全体像がゆがみ、日本は、アジアを侵略して、それに反対したアメリカに噛みつく、ばかな戦争をして、自滅したという、GHQ史観にのみこまれることになる。
 どの民族、国家もももっている。誇るべき戦史が、日本に限っては存在せず、そのため、アジア諸国が「日本軍がヨーロッパ列強を追い払ってくれたおかげで、独立することができた」と感謝している先の戦争を、侵略だった、アジアに迷惑をかけたと謝ってまわるのは、愚かをこえて、悲劇というしかない。』

 日本の三つの戦争を巡る事実は、ずっと語られてきたようにこうである。朝鮮併合に関わって日清戦争が起こり、朝鮮と満州との経営を巡って日露戦争が起こった。そして、23年の帝国国防方針にあるように『中国をめぐる利害対立からの日米対立を予測』していて、太平洋艦隊の増強などによって大々的にこれに備えてきて、真珠湾攻撃にいたっては以上の流れの結果、事実としてほとんど確信犯なのである。

 なお、ざくろさんは日中戦争も真珠湾攻撃もともに、欧米の工作によって日本が巻き込まれたものであることを立証しようと努力している。僕が以上に示したような、普通に語られてきた事実経過がありながら、何故こんな事に精魂傾けるのか。日本の主体性をあまりに軽視しており、いかにも不自然である。帝国の重大決意を他国のせいにして、その責任を免罪しようとしているとしか、僕には思えないのである。日本を美化したいという望みから、歴史を見る目を曇らせているのではないか。


(このシリーズはこれで終わります)
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小説 「死に因んで」(その3)   文科系

2018年08月23日 10時34分32秒 | 文芸作品
〈同窓会は仕事社会ではなく、楽しむ場所。老年期の男としてみれば話題が多くて面白いはずの人間が、なおかつ正直、潔癖を現しただけと言えるその行為が、社会的礼儀だけを振りかざしてこのまま拒まれるはずはない〉
 今振り返ってみれば「改めて、出てくれと言ってきたら」と彼女が語ったのには、そんな見通しが含まれていたのだ。こんな発想は、俺が思うには今の日本の男からはなかなか出てこない種類のものだろう。相手の格とか、自分への”扱い”とか、公の”顔”など下らないことばかりに慣れてきたからだ。それでその時の俺も、出てくれなどと言ってくるわけがないと思い込んでいたのである。そんな剣幕であの場を飛び出し、皆を蹴っ飛ばしてきた、その剣幕、威力は自分が一番よく知っていることだし。その点まーまーの女は、公的な場所にいてさえ自分の文化、好みのようなものを必ず同伴させている、と俺は観てきたのだった。
 さて、笠原から折り返しのように、こんな表現が入った手紙が来た。
『大個性の貴兄がいての楽しい会です。貴兄が怒ったのも、貴兄の”素”であって、何も謝る必要はありません。飲んで語るのも、文章朗読で自己を表現するのも同じ事。まして、貴兄のように同人誌をやっているとすれば』 
 この手紙にしばらく応えないでいたら、間もなく吉田からも小島からも電話があった。吉田はこんなことを言う。「あの話はいけないとかー、この話もいかんよとかはいかんよなー。それと同じで、朗読をやれと言った以上はぁー、聞いていないとーやっぱりまずいよねー」
 小島の口調は明らかに笠原と連絡を取っている事をうかがわせた。そして何度も、おずおずとのように慎重な言葉選びで「出てくるよなー?」と聞き返してきた。さて、小島とのこの電話の時には、俺はもうこんな心づもりになっていたのである。その時には、全く口に出さなかったのだけれども。
〈謝る必要がなくなったから、もう出られる。卑屈になる必要は全くなくなっただけではなく、ちょっと勿体ぶるぐらいにして出てやろう。あの随筆も次回にさっそく、最後まで読んでやるぞ〉
 すべてが望む通りに運んで、何か不思議な思いだった。この時、次のこの会と友人たちに対して武者震いの汗をかいている自分を発見して、驚いた。

こうして、次の会が始まった。いつもの部屋で、いつものように肴を一渡り注文する役目を果たす間も、何か腰の辺りの座りが悪く、何かをしゃべる気にもならない。顔はきっと、シリアスで作ったようなもんだったろう。皆も俺の顔を見辛いような感じだし、こりゃ早く決着付けなくっちゃ………。アルコールの二杯目に入る前の辺りで、「じゃこの前のをもう一度読むからな、聞いててくれよ」。いつもよりさらに抑揚少なく、棒読み同様に読み進んでいた。今度は、最後までみんな静かに聞いてくれた。読み終わって、小島が言う。
「これからは、プリントしてきてくれないかなー」
 俺が「分かったそうする」と応える。すると堀が太い声で、微笑みながら言った。
「ごちゃごちゃせんでも、こーいうときは『ご免』の一言持って出てくればえーんだ」
 これには、俺としては是非一言返しておかねばならない。
「また飛び出したらまずいだろ。俺は大事なことしか書かんけど、ここで読むのは特に大事なものばかりでね」
 こうして、その次以降も自作随筆をあれこれと読んで行った。翌年の初夏のころにはこんなのを読んだ。

── よたよたランナーの回春
 メーターはおおむね時速三〇キロ、心拍数一四〇。が、脚も胸もまったく疲れを感じない。他の自転車などを抜くたびにベルを鳴らして速度を上げる。名古屋市北西端にある大きな緑地公園に乗り込んで、森の中の二・五キロ周回コースを回っているところだ。たしか六度目の今日は最後の五周目に入ったのだが、抜かれたことなど一度もない。ただそれはご自慢のロードレーサーの性能によるところ。なんせ乗り手の僕は七十才。三年前に二回の心臓カテーテル手術をやって、去年の晩夏に本格的な「現状復帰」を始めたばかりの身なのである。日記を抜粋してみよう。
『突然のことだが、「ランナー断念」ということになった。二月初旬までは少しずつ運動量を伸ばし、時には一キロほど走ったりして、きわめて順調に来ていた。が、十六日水曜日夕刻、いつもの階段登りをやり始めて十往復ぐらいで、不整脈が突発。それもきちんと脈を取ってみると、最悪の慢性心房細動である。ここまで順調にやれて来て、十一日にも階段百十往復を何の異常もなくやったばかりだったから、全く寝耳に水の出来事。
 翌日、何の改善もないから掛り付け医に行く。「(カテーテル手術をした)大病院の救急病棟に予約を取ったから、即刻行ってください」とのこと。そこではちょっと診察してこんな宣告。「全身麻酔で、AEDをやります」。このAEDで、完全正常に戻った。もの凄く嬉しかった。なのに二五日金曜日、掛り付け医に行き、合意の上で決められたことがこれだったのである。
・年齢並みの心拍数に落とす。最高百二十まで。
・心房細動が起こったら、以前の血液溶融剤を常用の上、AEDか再手術か。
 さて、最高心拍数がこれなら、もう走れない。速度にもよるが百五十は行っていたからである。僕も七十歳。ランナーとして年貢の納め時なのである。』
そんな境地でも未練ったらしい足掻きは続けた。ゆっくりの階段往復、ロードレーサー、散歩、その途中でちょっと走ってみる。すべて、心拍計と相談しながらのことだ。そして、心拍数を少しずつ上げてみる。初めはおっかなびっくりで、異常なしを確認してはさらに上げていく。気づいてみたらこんな生活が一年半。一四〇ほどなら何ともないと分かってきた。すべてかかりつけ医に報告しての行動だ。そして、去年の九月からはとうとう、昔通りにスポーツジムにも通い出し、今では三十分を平均時速急九キロで走れるようになった。心拍の平常数も六十と下がり、血流と酸素吸収力が関係するすべては順調。ギターのハードな練習。ワインにもまた強くなった。ブログやパソコンで五時間ほども目を酷使しても疲れを感じないし、体脂肪率は十%ちょっと他、いろいろ文字通り回春なのである。先日は、十五年前に大奮発したレーサーの専用靴を履きつぶしてしまった。その靴とサイクル・パンツを買い直したのだが、こんな幸せな買い物はちょっと覚えがない。今度の靴は履き潰せないだろうが、さていつまで履けるだろうか。─── 

 この長い文章をみんながどれだけ静かに聞いてくれたことか。いや靜かにと言うよりもっと好意的なのだ。合いの手が入った。笠原から始まった「ふーん」「それで?」まではいーだろう。それがやがてみんなに移って行って「がんばっとるなー」から、「十%!………筋肉ばっかだ!」などともなると、わざとらしいとも感じられて笑えた。でも、凄く嬉しかった。読み終わったとき、吉田がまっ先に、俺の反対側の机の端から長い身体を乗り出すようにして、彼としては珍しい大声を出す。
「これはーっ、非常にーっ、よく分かる! あなたの同人誌小説はー、息子さんの商売のことを書いたやつだったかなー、さっぱり分からんのもあったけどー」
 この声自身もその内容も俺には全く意外だった。けれど、すぐに反論の声が上がったのがまたさらに意外だった。俺の向かいにいた小島が吉田の方に顔を向けて、
「あの息子さんの仕事の小説なら、僕はあれは面白かったよ。意外にと言っちゃなんだけど。山場らしい所もなく何でもない筋なんだけど、気づいたら一気に読めてた」
 これは、この作品に対しては願ってもめったに出てこないぴったりの評なのである。事実俺は、あれをそのように書いたのだ。このやりとりを一人反芻して悦に入っていたら、伊藤がこんな申し出をしてきた。恐い顔を崩し、柔らかいバスをさらに柔らかくして、
「心臓の手術したんだよなー。それでこれだけがんばっとるんだよなー。ちょっとこの場で腕相撲してもらってもえーかな?」
 俺の倍ぐらいに見える腕だったが、俺は即座に応じた。若いときからこういう腕をも相手にして何度も勝ってきたという体験と自信があったし、ランニングのためのジムで上半身を今も一応鍛えてはいる。が、結果は、かなり粘ったが負けた。
「今どきの中小企業の現役社長さんは、やはり苦労が違うんだなー。肉体労働も目一杯やっとるとみえて、強い強い!」
 心からそう叫ぶことができた。嬉しい悲鳴のようにも聞こえたろう。何せ俺は、他人の特技を褒めるのが好きなのである。褒めると言うよりも、良いものは良いというわけで、自然に声が出てしまう。伊藤は伊藤で、俺を励ましてくれた積もりなのだろう。
 すると、遠くの壁際に座っていた吉田が、俺に向かってまたしても、大き目の声を出す。
「あのさー、整体師と一緒にやってきた結果だけどー、見てくれるー」
 そう言って立ち上がると、壁際に背を向けて立つ。そして、腰を沈め加減にする。彼のその体勢の意味が俺にはすぐに分かったので、吉田の後頭部だけに眼をやっていた。腰と胃裏の背辺りとがぴたりと壁に付いた上に、後頭部も膨らんだ髪の毛の先が壁にほとんど着いているように見えた。この光景、いや姿勢に感心したこと! 俺の口からこんな声が出たものだ。
「男やもめが、よくそこまで頑張ったなー。あんたの寿命が半年前より五年は延びたぞ。そんな姿勢が続く間は、ここにもずっと歩いて出てこれるしー……。堀よー、みんなで”吉田を長生きさせる会”でも作ろうかー?」 
 普通にひょろーっと立ち直した吉田が、にそーっと笑って堀の顔を見た。小島と山中さんが同時に拍手を始めたら、それがすぐに全員に広がっていった。

(終わり)
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