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記憶遺産?    らくせき  愛知・藤川正人を落とそう

2015年10月11日 10時20分16秒 | Weblog
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は9日午後(日本時間10日未明)、重要な歴史文書などを認定する世界記憶遺産に、中国が申請した旧日本軍による「南京大虐殺」に関する資料を登録したと発表した。中国による従軍慰安婦に関する資料の登録申請は却下した。一方、日本が申請した第二次大戦後のシベリア抑留者の引き揚げ記録「舞鶴への生還」と京都市の東寺に伝わる国宝「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」は登録が決まった。

日本政府は抗議。中国が反論。・・・

まさに外交戦が始まった感がします。でも日本政府は形勢がよくないようです。
どうも中国の方が一枚上手ですね。



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5 コメント

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ドデスカンさんへ。 (らくせき)
2015-10-12 09:23:00
貴重なコメントありがとうございます。

私は愛国心を持っています。

実は、南京事件を認めて反省、謝罪することが
愛国心の第一歩だと思っています。
日本の戦争体験は被害者としての反省でした。
女性の立場での物語が一世を風靡していました。
しかし加害体験は沈黙のまま墓場へ。

アメリカからの独立。
戦争での無差別空襲、原爆投下への
人道の名のもとでの抗議には加害者としての反省が
不可欠なのです。
この両方があってこそ世界は日本を信頼できる
友人として付き合ってくれると思います。


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そもそも (1970)
2015-10-11 13:57:30
人数が多すぎるから「虐殺」というセンセーショナルな話になるわけだよね。
ハゲの話に例えていたが、10円ハゲとツルッぱげを同じにするのが無理があると思うが。ハゲの組合から怒られるぞ(笑)。
まあ、人数を盛るのも歴史の修正主義だと思うが。中国外交のしたたかさは勉強しないといけないね。
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中国共産党の妄想 (ハイ論破)
2015-10-11 13:25:34
当時の南京に住民が何人いて、日本軍は何人で、中国の兵隊はどのくらいいて、日本兵は一人当たり何人殺した計算で、何人が殺されたり負傷したりしたのか?

こんなガバガバの設定(中共の妄想)をよく信じる気になれるものだ、そっちの神経の方が不思議だ。
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Unknown (ハイ論破)
2015-10-11 12:15:05
数の問題ではない?
いや、数の問題である。
例えば、原爆投下による被害者が200万人だとか250万人だとか300万人だとか述べて、それでアメリカが怒らないと考えているならどうかしている。
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おひさ! (ドカスカデン)
2015-10-11 11:44:38
 前にここへコメントを書き込んで、ネウヨらしきUnknownからも、そして文科系氏からも、怪しげな奴として問答無用で排斥されたものです。

 上記の記事につき、以下に私の友人記述をシェアーします。

 ========================

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した南京事件の資料が登録された。
 私はこれを、ほかならぬ日本のために良いことだと思う。ネット上では「反日」といわれ、「北へ帰れ」(意味不明)と言われたことが何度かあるが、決して私はこの風土やここに暮らす人々が嫌いではない。いや、愛してさえいる。
 「愛国主義」とは一線を画させてもらうが、自分が現実に立っているところに依拠せずして理想を声高に語るのみでは、やはり現実的ではないと考えるからだ。
 
 南京虐殺は、戦後昭和20年代から30年代にかけては、日本においても常識であった。自分がそれに参加したことを語る人たちはゴマンといたし(少年時代それを複数回聞いた)、それを語らないまでも否定する人たちはほとんどいなかった。
 南京だけではない。例えば、毛沢東の延安と黄河を挟んで対峙し、そのゲリラが活躍していた山西省の山村では、ヒステリックになった日本軍が、村民を何百人単位で殺した事実は随所にあった。そして、それに参加した日本兵たちが多く帰還していたから、彼らもまた、南京で同様のことが起こっても何ら不自然ではないことをよく知っていた(私はそれらの村へ現実に行き、その子孫の話を聞いた)。
 
 この国での、それらへの異議申し立てが始まったのは、ジャパン・アズ・ナンバーワンという思いあがりが風靡した80年ごろからである。日本人がそんなことをするはずがないという先入観のもと(これは中国人は嘘つきだという決め付けと表裏。そしてそうした思い込みが虐殺の背景にあることに気づいてはいない)、怪しげな立証的「研究」を動員し、殺された人数の問題などからして、それらを「なかった」ことにしてしまったのだ。しかし、虐殺の問題は、何人だからどうという問題ではない。それは、頭の毛が何本抜けたら禿頭というのかという論議と同等、馬鹿げている。
 
 冒頭に戻ろう。なぜ、ユネスコによるその認定がこの国にとっていいことなのかというと、ここ国が、あるいはそこに属する人たちが、過去においてどうであったかの実情を明確にすることは、恥ずかしいことでも何でもなく、むしろそれを知ることによってこそ、そうした轍を踏むことなくこれからの歴史を刻んで行くための大きな教訓になるからだ。
 
 この虐殺を否定する人たちが、同時に、戦前回帰のような「日本を取り戻そう」意識を持つ人々とほぼ重なるという事実が、象徴的である。自虐的として歴史を修正しようとする人たちは、それでもってこの国や自己を肯定し続けようとする人たちである。その意味では、アウシュビッツを否定し、かつての第三帝国・ドイツを肯定するネオ・ナチと軌を一にするものである。
 これらの動きがともに道を大きく誤るものであることは言うをまたない。彼等は、悲惨を肯定し続けることによって、その拡大再生産すら辞さないのだ。
 
 国際社会は、それを否定し、歴史修正を許さないとの裁定を下した。至極まっとうな、そして当たり前のことである。
 それに対してこの国の政府は、遺憾の意を表明し、あまつさえ、国連諸機関への拠出金の拒否までちらつかせているという。何たる卑しい所業であろうか。彼等は、歴史的事象をも金で買えると思っているのだ。
 私は逆に訴えたい。そうした恥ずべき非常識な所業は決してこの国の多くの人たちの同意に基づくものではない。自分たちの過去を明らかにし、それをはっきりと清算し、そうではない歴史を切り開こうとする人たちがたくさんいるのだ、と。
 その片鱗は今現れつつある。戦争、平和、そしてそれにともなうことどもに関し、真剣に考えようとする人たちがふえつつある。ただし、悲しむべきことには、それに背を向けて、歴史修正的な諸組織(日本会議など)に支配されている日本政府という妖怪がいることも事実なのだ。
 心ある日本人は、このねじれを、どこかで清算すべく、決断しなければならないだろう。


*上記は、従軍慰安婦問題にもそのまま相当することはいうまでもない。
 
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