九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

小説 「死に因んで」(その1)   文科系

2018年08月21日 06時34分45秒 | 文芸作品
 400字詰め原稿用紙30枚ほどの作品です。3回連載でと思っています。ご笑覧下さい



 例によってかなり早めに会場に着いてしまった。この都心まで三キロほどをわが家から歩いて来た。この大都会の繁華街に、賑わいと電飾などが日々増してきたような晩秋の日暮れのことだ。大きなビルの地下にある宴会場に通じた外階段まで来ると、階段途中の手すりを寄り添うようにゆっくりと下っていく二つの影が見える。見るからにひょろーっとして脚がおぼつかない吉田と、彼の脇で歩を進めているのは、ずんぐりがっちりの堀に違いない。俺はしばらく、二人を上から見つめていた。
 数年前にお連れ合いさんを亡くした吉田は、骨折などもあって歩行困難になっている。早く来合わせた堀と、吉田のリハビリも兼ねてこんな場面になったということだろう。七十歳の今日まで独身という堀が、吉田の左腕を肩で支えながら、彼らしいからっとした笑い顔でなにか応えている。吉田も上機嫌でお得意のながーいおしゃべりを繰り出しているらしい。その音声が、すっかり冷たくなった風の間から聞こえて来る。なかなか良い光景………そう微笑みつつ、二人の段まで下りていく。
「お二人とも、早く来たんだなー」
 ふり返った吉田がいつものように舌が縺れるように語り出す。
「いやぁーね、僕が堀君にちょっとー早く来てもらったんだよー。話し合いたいことがあってさー」
 あーっ、あのことかと心当たりが浮かんだ。堀がこの会で何か気分が悪いことがあったらしいとは聞いていたが、それを吉田が取りなしているのだ。吉田もこんな不自由な身体で毎回よく出て来て、よく気を回すもんだ。思わず浮かんだ苦が笑いを意識しながら、言った。
「堀よー、吉田もお前もいー奴だなー。吉田もちっとは歩けるようになったんだなー」
 人の美点や努力を口に出すのが好きなのである。もちろん批判も平気でするのだが、自分の汚点をも隠さず、自分にも他人にもわざわざ念を押すような人間だとも思っている。所属同人誌で、連れ合いをひどく殴ったという随筆さえ書いたことがある。もっともそんな自己嫌悪とか偽悪に近いものの方は素直に読んでくれない時代らしく、この作品をこう取った人がいたのには驚いた。「妻を殴ったという事を自慢げに吹聴している」と。まー普通に、亭主関白自慢とでも取ったのだろう。多分俺は、亭主関白とは正反対の人間だ。

「吉田も、前とはだいぶ違う。腰から背中までがちょっと伸びたな。聞くとなんか良い整体師に付いたらしいぞ」
 堀って昔たしか、柔道の黒帯だったはず。その堀の野太いような声に導かれるような感じで、吉田の姿勢に目をやった。確かに腰の方は伸びている。あとは首の下辺りかなーと思いつつ俺は聞いてみた。
「吉田ー、腰が伸びたら、あとはどうするんだ?」
 吉田ではなく、これも堀が引き取って応えた。
「頭と首の下と尻のそれぞれ背中側を壁にでも付けて、一直線にできるようになればよい。ここまでがんばったんだから、最後までがんばるよなー」
 立ち止まったそんなやりとりいくらかの後に、こう告げながら、俺は先を急ぐ。
「いつものようにみんなの注文しとくから、先に行くな」
 俺はこの会の言い出しっぺの一人であって、みんなの肴の注文係なのである。地下一階のいつもの店へ、その大きな店の畳一畳ほどの入り口以外は個室のように周りから隔離された特別室様の空間へと、入る。

 この会は、俺ら中高一貫男女半々校同期生八人の飲み会である。〇九年の秋から年五回ほどの割合で持ってきたことになり、もう二年が過ぎた。笠原という中学時代からの俺の仲良しと二人で呼びかけて始まったものだ。一学年に二クラスしかなく、上下の学年も含めて皆が友達みたいな学校だったが、この八人が集まることになった理由はほんの偶然のせいとしか言いようがない。あまり付き合ったことが無い人もいたからである。吉田とか伊藤とかが、俺とはそういう間柄だった。なのに、もう十回目をこえて、俺が確認電話を忘れても全員が参加して来る。誰もぼけていないことは確かだし、それぞれ何かを楽しみにして来ることも確かなのだ。昔のこと今のことなどごちゃごちゃに語り合い、カラオケなどの二次会に流れていく。
〈吉田って、こんなにお喋りだったかな。それにしても、当時の男女関係によくこれだけ通じているもんだ! 昔の彼はよく知らないが、そんな情報集めに励んでたんだろうな。面白い話が多いけど、こんなに長く話す人、見たことない〉
〈伊藤って、カラオケ、歌がこんなに上手かったか? 確か、芸術部門の授業選択は音楽じゃなかった気がするけど。水原弘の「黒い花びら」かー。よく似合って、こんな良いバスも日本人にはちょっと少ないはずだ。音程や声量もちゃんとしとるし。カラオケ教室に入れ込んだ時期があるのか、それとも最近の笠原のシャンソン教室じゃないけど、歌謡教室かなんかに通ったことでもあるのかな〉
 この伊藤がまた歌というイメージからはちょっと遠いのだ。今でも自営業の現役社長さんで、そのごつい体にぴったりの強面は、〈トラブルなどが起こったら、側に立っていただくだけでも助かる〉という見かけである。この人がまたけっこう繊細な所があると最近気づいて、興味がそそられた。昔は全く気づかなかったのだが、ひとりひとりの水割りを作る役を自然に引き受けていて、それぞれその都度濃淡の好みなどを聞き、かいがいしくやっている。その姿がまた、楽しげそのものと見えるのである。俺が無神経な応答でもしようものなら、ちょっとあとにさり気ない探りらしきものが入ってくるし。これなら小島と親友関係が今日まで長く続いてきた理由も分かる。小島とはかなり付き合いもあったけれど、小島が伊藤と在学中からずーっと付き合ってきたとは全く知らなかったのである。小島は昔も今も変わっていない。若い女性たちとテニスに明け暮れているらしいが、若いと言っても中年女性たちだから「青い山脈」舞台の三十年後というところ。彼はさしずめ、あの舞台の先生の三十年あと………よりもかなり上だな。

 肴の注文係の任務をいつものように俺が終えたころには、唯一の女性、山中さんも本川もと八人がそろって、宴が始まる。これもいつものように、こんな調子だ。昔の話は男女のことがほとんど。それも一学年百人ちょっとで、その上下学年までごちゃごちゃにしての昔話だ。よって、それぞれの話の種をそれぞれ誰かがカラスのようにひっくり返していくから、つついてもつついても次から次へと限りがない。〈今現在のそんな話はないのかい!〉、たびたび雑ぜっ返したくなる自分を抑えるのに一苦労だった。そういう今の話の方は先ず、病気のこと。今現在の生活活動などは二の次というか、なかなか見えない気がしたものだ。これが俺にはずーっとイヤだったのだが、ここから始まるひと騒動への、大きな背景の一つになっていったのだろう。

 この日そのあと、盛り上がりのさなかに会場を一人飛び出して来た俺の心中は、どう表現したらよいのだろう。その時と今とでは感じがずい分違うし、あれから二年経った今でさえことの全貌がきちんとつかめているかどうか定かではない気がしている。一方で〈単にその時々の感情に左右されただけだよ〉という声が聞こえる。他方ではこう。〈やはりあの事件は、俺のこれまでのレゾンデートル、つまり存在理由だ。譲れるはずがない〉。と、これは今になって言えることであって、その時の俺の意識が後者一辺倒だったのは言うまでもないこと。言わば確信犯なのだが、その確信に感情の器すべてが占領された状態と言えて、他の感情は一切排除されていたようである。大変困ったものだが、大仰なことでもない。「あの時はその気だった」など誰でもあることだから、今も明日も十年後もその気かどうか、それが自分のためにも肝心なことだろう。こういった問題を抱えることは誰にでもあることだ。
 ともあれその夜、こんなことが起こった。

(続く)
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日本軍慰安婦問題、当時政府の二通達   文科系

2018年08月20日 15時23分59秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 このブログでは、日朝関係史、南京虐殺といつも続けて来ましたが、慰安婦問題でもある決定的資料を改めてそのまま再掲しておきましょう。以下の文書には、強制のこともさえ軍自身が以下原文中でこのように認めています。
  『故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ・・・・』

 朝日新聞がガセネタ報道を謝罪してからは、まるでこの問題自体もなかったような情勢になりましたが、あれは朝日のミス。「あれはミスだったが、慰安婦問題は厳然と、かつ大がかりに存在していた」と対処すれば良かったのです。こんな文書も残っているのですから。


【 慰安婦問題、当時の関連2通達紹介  文科系2014年09月22日

 以下二つは「日本軍の慰安所政策について」(2003年発表)という論文の中に、著者の永井 和(京都大学文学研究科教授)が紹介されていたものです。一つは、1937年12月21日付で在上海日本総領事館警察署から発された「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」。今ひとつは、この文書を受けて1938年3月4日に出された陸軍省副官発で、北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」です。後者には、前に永井氏の説明をそのまま付けておきました。日付や文書名、誰が誰に出したかも、この説明の中に書いてあるからです。

『 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件

 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        記
領事館
 (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
 (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
 (ハ)渡航上ニ関スル便宜供与
 (ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答
 (ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス
憲兵隊
 (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
 (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締
武官室
 (イ)就業場所及家屋等ノ準備
 (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
 
右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス
(中略)
昭和十二年十二月二十一日
         在上海日本総領事館警察署


『 本報告では、1996年末に新たに発掘された警察資料を用いて、この「従軍慰安婦論争」で、その解釈が争点のひとつとなった陸軍の一文書、すなわち陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日付-以後副官通牒と略す)の意味を再検討する。
 まず問題の文書全文を以下に引用する(引用にあたっては、原史料に忠実であることを心がけたが、漢字は通行の字体を用いた)。

支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス』

 さて、これを皆さんはどう読まれるでしょうか。なお、この文書関係当時の北支関連国内分募集人員については、ある女衒業者の取り調べ資料から16~30歳で3000名とありました。内地ではこうだったという公的資料の一部です。最初に日本各地の警察から、この個々の募集行動(事件)への疑惑が持ち上がって来て、それがこの文書の発端になったという所が、大きな意味を持つように僕は読みました。】
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小説  母の『音楽』(後編)   文科系

2018年08月20日 15時03分34秒 | 文芸作品
「あなたも、『生きなきゃー』の口で、「鑑賞よりも表現』の人ね。だから『可愛さ余って、憎さ百倍』は他人事じゃないわよ。どうせ直ぐに弾けなくなるんだから」
〈僕のお連れあいさんも、後になってそう言ってたな〉。
 腕や胸など汗まみれの体を休めながら今、そんなことを思い出している。
「大聖堂」の例の難しい一カ所をかっきり五十回。正の字を打ちながら繰り返し終えたばかりだ。機械的な反復練習ではやっと、薬指上下につれて小指がほとんど動かなくなってきた。この厄介な癖の修正にあれこれと燃え始めて二週間、ようやく五五近くの速さになり、ちょっと先が見えたような気分になった頃のことだ。
〈そういえば、俺も去年危機のようなことがあったなー。憎さ百倍にはならなかったのは、間違いなく母さんのお陰だ〉
 去年のある舞台で立ち往生したときのことを思い出す。こんな調子だった。

 出だしの三段目ほどで止まってしまった。頭は真っ白で、次が思い出せない。仕方ないから、冒頭からまたやり直す。すると今度は、三ページ楽譜の二枚目終わりほどで止まってしまった。どれくらいだったか空白の時間があってから、思いついて目の前の楽譜を引き寄せ、間違い箇所を確認して、再開した。丁度練習で躓いたときのように。表情も態度も変えなかったはずだが、冷や汗たらたら、心臓は早鐘、もう大変な思いをした。好きで折を見ては二年以上も弾き続けてきた「ソルのエチュード作品六の十一番」。僕には難しすぎるが、いまならもう何とかなると思って臨んだのに。今までに指が震えてほとんど弾けていないということは何回かあったが、中断は初めてだった。それも二回も。そしてこの挫折の印象が、以降一週間ほどの間にどんどん大きくなっていった。僕の「老い」が膨らんでいくばかりだったのだ。
 そんな経験から間もなく、舞台で弾くことはもう諦めようと決めた。ところがこの決心が、僕の練習態度に何の変化も与えなかったのである。それから間もなく手をつけたこの曲、「大聖堂」が毎日弾きたくなった。分散和音の中から最高音の清らかな旋律を響かせる第一楽章。荘重な和音連続を鳴り渡らせる二楽章。そしてこの第三楽章は「最速アルペジオとスケールの中から、低音・高音の旋律、副旋律をメリハリつけて自由に鳴らせられれば、痛快・面白さこの上なし」といった趣き。気に入った曲だけを選んで先ず暗譜してから弾き込みレッスンに励む僕にとっては、なかでもことさら揺さぶられる曲。完成するまで一年でもやってやろうと、そのエネルギーは自分事ながらいぶかしいほどだった。

 さて、一度は全てを放り出した母のこの三味線。最後の場面が実は、ずっと後に出てくる。過去の「憎さ百倍」はなんのその、可愛さが遙かに優った感じで。いや、この三味線が母を救ってくれたとさえ言いうるだろう。闘病生活五年の最後の年、九十二歳を過ぎた病床のことだ。大学ノートの介護日誌五年分が九冊まであるのだが、そこのやり取りから抜粋してみよう。周囲が書き綴り、伝え合った病状・生活日誌である。八十八歳に脳内出血で死にかけた後は、感覚性全失語症から字はもちろん書けず、彼女の口から意味のある言葉を聞き取ることもほとんど無理だったから、連れあいの提案で備えられたものだ。四人の子、孫から、看護師さんたちだけではなく、病室を訪れた母の親類縁者、知人までが書いてくれるようになったみんなの合作物である。先ず初めは、亡くなる前年の八月十七日。
『ラジカセを持って来た。カヨさんのおケイコ(三味線と謡曲)のテープといっしょに。そしたらラジカセを抱えるようにして聞いていた。それでもしばらくして見たら眠っていたけど、起きてテープの話をした時の反応は当然強かった。何か分かるらしい。多分、フシなのだろう。しばらく(一時間ぐらい)消していてまた、”三味線聞く?”と問うと、”ウン”と言うのでつけると、また例によって指を動かして聞いている。右手も左手も』
 同十八日『長兄のノブ一家九人が来たのは覚えていた。良かったね。今は三十分以上ラジカセを聞いている』
 同二十日『今日はよく話が分かる。一昨日、ノブの家族が来たのは覚えているし、ウチの健太と雅子も覚えている。(中略)なんというか表情もおだやかだ』
 音楽療法というのがあるが、明らかに母の態度、意識が上向き始めたのである。看護婦さんもそれを認めた記述をここにすぐ書いてくれたし、久しぶりにはるばる横浜から来られた弟のお連れ合いさんも、こんな言葉を書いてくれた。
 九月十五日『いろいろあって家が空けられず、本当に久し振りにお母さんに会いに来ました。№7のノートの記録より、十一ヶ月もの間ご無沙汰していたと分かりました。眠っていらっしゃる横で、声をかけて起こそうかどうしようかと思いつつ、ノートをゆっくり読ませていただきました。長唄(?)のテープをBGMに。
 テープが回って数分したころ、右手がよく動くようになり、時々左目を開いて、次にベッドにつかまっていた左手が、弦を押さえるような動きを始めました。魔法のようです』
 十月二日『新しいカセットを持ってきて”三味線のおさらい”。たちまち右手でバチを動かし、左手の指がひょこひょこと動き出した。(中略)何か顔もほころんでいるし、ヨカッタヨカッタ。 ”目を開けなさい”と言うとかならず、パチッと開けてくれて、やはり微笑んでいる』
 丁度その晩秋のころ、僕は同人誌にこんな随筆を書いた。

【 ある交流 
 病院の夜の個室にもの音は稀だけれど、川音が間断なく聞こえてくる。二県にまたがる大川が窓の向こうにあるのだ。そしていつものように、僕の左手がベッドに寝た母の右手を軽く握っているのだけれど、そこでは母の指がトントンと動いている。
 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかわづ天に聞こゆる
 誰の作だったか、高校の授業で覚えたこの歌を、このごろよく思い出す。
 左脳内出血が招いた三途の川から戻ってきて、五年近い。失語症の他はなんとか自立できたと皆で喜んだのも、今振り返ると束の間のこと。一年ちょっと前、思いもしなかった後遺症、喉の神経障害から食物が摂れず、人工栄養に切り替えるしかなくなった。食べさせようとして何度か嚥下性肺炎を起こしたその末のことだった。人工栄養になってからも、唾液が入り込んでたびたび肺炎をまねくという始末で、既に「寝たきり」が四ヶ月。お得意の「晴れ晴れとした微笑」も、ほとんど見られなくなった。
 九十二歳、もう起き上がるのは難しそうだ。言葉も文字もなくなったので記憶力はひどいが、いわゆる痴呆ではない。痴呆でないのは我々には幸いだが、本人にはどうなのだろうかと考えてしまうことも多い。
 せっせと通って、ベッドサイドに座り、いつも手を握り続ける。これは、東京から来る妹のしぐさを取り入れたものだが、「生きて欲しいよ」というボディランゲージのつもりだ。本を読んでいる今現在、母の指の応答は、「はいはい、ありがとう。今日はもうちょっと居てね」と受け取っておこう。表情も和らいでいるようだし。
 僕は中篇に近い小説九つを年一作ずつ同人誌に書いてきた。うち最初の作品を含めて四つは、母が主人公だ。もう十年近く母を、老いというものを、見つめ、描いてきたことになる。発病前は老いの観察記録のように、その後は病室の中やベッドの上も、時には四肢さえもさらけ出して。普通ならマナー違反と言われようが、親が子に教える最後のことを受け取ってきたつもりだ。そして、僕がこんなふうに描くのは、母の本望だとも信じている。
 看護士さんが入ってきて、仕事をしながらこんなことを言った。
「不思議ですねぇ。手と指だけがいつも動いてるんですよ。ベッドの柵を右手でよく握られてるんですが、その時もなんです。右側に麻痺がある方でしたよねー?」
《母にもまだできることがあった。僕らが通う限り、生きようとしてくれるのだろうか》 】

 母は、いろんな曲を思い出し思い出ししながら、最後に残った楽しみを自分で作っていたのではないだろうか。そう、一度はすべてを放り出した音楽が、一人では何も出来ず、普通の楽しみさえなくなった病床で恩返しをしてくれた。音楽って、音を楽しむって、まず、自分が出す音を自分が楽しむものだろう。末期が近づきつつあった母の病床で、教えてもらったことだ。


(終わり 2011年1月発行の同人誌に初出)
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南京虐殺史実の決定版   文科系

2018年08月19日 10時54分08秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」
 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

 ①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

 ②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したのである。
 なお、「最初から全部殺す方針だった」という証言を下に上げておく。南京攻略軍一師団長の日記である。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏に殺すということが極めて大事だったのだが。

 ③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全地域から暴力さえ使って集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

 ④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。
 が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。戦争ではない場合の暴力への降伏兵士を殺したら、国際法上は民間人を殺した虐殺と言うしかないのである。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。


 さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。

【 南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。

『大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」

 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。実に卑怯、姑息な日本軍、奴らである。もっとも命令を出した奴らが卑怯、非道なのであるが・・・。】

 
 さて、以上すらもなおなんやかやと否定してやまないというネトウヨと呼ばれている諸君(の種本作者)の氏素性を推論してみよう。
①歴史事実などはどうでもよいとする。あるいは、どうとでも解釈できるとする。以下のような別の「論点」、「視点」を持っているからだ。
②各人何らかの思惑、事情から「日本史の醜さは消し、美しく見せる方がよいのだ」と確信している。つまり、事実を認めず、己の願望に併せて史実を解釈してもよいとしている。
③事実と願望との違いをどう処理するかは結構難しい問題だが、願望優先の大理論もけっこう多かったと思う。例えばなんらかの体系的哲学や宗教にもこれがあると。カール・マルクスによる「ヘーゲル法哲学批判序説」もそういう批判の一種だ。
④例えば、戦争論でも、「人間世界に、戦争は無くならない」という「願望」から、歴史を観ていくやり方も多かった。それに対して、例えばこのブログで紹介した著作「サピエンス全史」(17年5月のここに、内容紹介連載があります)は、人類史でいかに人殺し、戦争が減ってきたかという実証をやっている。 減ってきたという事実、この分析を踏まえてこそ、戦争を減らし、早く無くせるという願望も実現できるのだろう。というように、僕も人の願望というものを否定しない。ただ、願望と歴史事実とを一致させたいという立場だが、これについてはこんな命題がある。
「新たなある願望を地上の多くの人が描き始めるのは、その実現の条件が見えてきた時なのだ」
 これはまー、こういうことだろう。「庶民の命などどうでも良かったという、民主主義以前の戦争が当たり前の時代には、こんな願望は描けなかった」と。というように、いずれにせよ願望と事実との関係理解は難しく、形式論理では手に負えないものと思う。

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小説  母の『音楽』(前編)   文科系

2018年08月19日 09時08分04秒 | 文芸作品
 ギターレッスンに苦心惨憺のある日、ふっと気付いた。
〈左手指がここで、他の箇所に比べて、どういうか、なんか、ばたばたしている。この小指が上がりすぎ、時に伸び切るようになるのは、どうしたことか?この癖から全体が遅くなるらしい。反復練習にはもう慣れてるが、これを直さんとどうしようもないぞ〉
 二月から七ヶ月も、毎日のように弾き続けている曲が、どうしてもできあがっていかない。南米のギター弾き・バリオスの「大聖堂」、その第三楽章。ここの速さが、ことのほか骨なのである。「もう限界なのかなー」、定年後に先生なる者につき始めて七年足らずの老いの身には、そんなことも頭をよぎる。六連十六分音符が三頁連なるこの楽章をせめて六十の速さにしたいのだけれど、四十五が限界。あれこれ観察し、試行錯誤しているうちに、やっと分かってきたことだった。
 ある一カ所が特に、何度弾いても上手くいかない。六連十六分音符がたった二つ並んだだけの一小節なのに。周囲と比べてちっとも難しそうにも見えず、なんの変哲もない箇所だ。そんな所を、何日かは意を決して五十回繰り返してみたりして、もう千回以上は優にやったろうというようなある日に、やっと気付いたのだ。
 さて、恥ずかしいことだがここまで来て、習い初めのころ先生に言われたことを思い出した。
「左手指は、一本ずつが他から分離して動くようにならなければいけません」
 左手小指が薬指に連動するらしい。薬指を指板から上げるときに特に、小指がぴくっと大きく跳ね上がる。よって、薬指の後に小指で押さえねばならない時などに、どうしても演奏が一瞬遅れる。この癖が原因で指のすべてが固くなっている。今までの曲ではなんとかこれをごまかせたが、今回の速すぎる箇所ではとうとうぼろが出たと、そういうことだろう。
 だけどこの曲、七ヶ月でこんな出来。人前で弾ける程度に完成するのだろうか。舞台で弾くことはもうないのだが、その程度にはしたい。去年からホームコンサートのようなもの以外は出ないと決めて、それまでやっていた舞台を全てパスしてきた。それでもこれだけ熱中できるのだ。それは、九十三歳で死んだ母の身近にいて、種々多くのことを教えられたからだと、いま振り返ることができる。父の最晩年を夫婦二組で同居し、次に父が亡くなった後は三人で過ごし、母の脳内出血以降はその介護の五年間を通して。

 職業婦人の走りであった明治生まれの母は、退職後に三味線を再開して二十年近く続けたが、七十八歳できれいさっぱり、すべてを投げ出してしまった。それまで出ていた教室の発表会に出なくなっただけではない。同時に「キネヤなんとか」さんの教室そのものも止めてしまった。それどころか、それからは弾いているのを見たこともない。死後に彼女の日記を見て改めて知ったのだが、このあと一度でも、三味線を弾いたことさえないはずだ。 母はそのころ、同い年の父の心臓病につきあって、疲れ切っていた。七十三歳を最初に、八十二歳で亡くなるまで、脳梗塞、心筋梗塞を都合四回も起こした父なのだ。彼の晩年二年間は次男である僕らが同居したのだが、「同居が遅すぎた」と何度後悔したことだったか。

 同一敷地内に新築の家を廊下で繋げたという「同居」二ヶ月ほどの初夏のことだ。珍しく明るいうちに帰って二階ベランダの窓際から庭に目をやると、ブロック塀の一角に母が見える。「水をまいている」と思ったのだが、どうも違うようだ。両手で持っているのがバケツでも、ジョーロでもない。父が愛用していた高価な徳利ではないか。〈父さんに怒鳴られるよ!〉、一瞬そう思ったが、今の父にはもうそんな気力も関心もないとすぐに思い直した。そういう徳利からお猪口ならぬ地面に注いでいるのは、水なのか酒なのか。間もなくとことこと歩き出して、僕に近い南東の角に来た。そして、僕のお気に入りのガクアジサイの近くで、同じようなことをやっている。そして、夕食時。その日父は確か、入院していて家にいなかったはずだ。
「さっき、庭で何やってたの?」
そのころ何となく黙りがちな日々が多かった母だが、一瞬僕の目を見てからちょっと顔を伏せたあと、ことさらにさらりとした感じで、応えた。 
「うん。庭の四隅にお酒を上げてたの。まー御神酒ということ。ここの家を建てたとき、地鎮祭をしてなかったのを思い出してね」
「ふーん。かーさんが縁起かつぐなんて、珍しいね。何か悪いことでもあったの?」
「うん、ちょっとね」
 そう、僕らが同居するまでの母は悪いことづくめだった。父の看病や、病院がよい。三味線は一年ほど前に止めていたし、大好きな友人たちとの旅行などもしなくなっていた。昔風賢夫人は、こういうときには物見遊山などは控えるものらしい。そんなこんなの鬱屈からなのか、物忘れも酷くなっていた。家のヤカンや鍋などを焦がしてしまい、庭に捨てられたものがいくつかあったし、当時使用中でも、地金の色を表している物がほとんど無かった。
 さらに、僕らとの同居によってもまた、別の「悪いこと」が生まれていたようだ。
 僕の脳裏に死後も含めてだんだん形作られていった母の心境を簡単に言えば、こういうことになろうか。まず、病気の、気むずかしい父を一人で抱え、自らの八十の老いを向こうに回して歯を食いしばって暮らしてきた。次いで、僕らと同居してからの心境は、こう。壮年期にある僕らの「若さ」に打ちのめされ始めたらしい。なんせ、自慢のようなことは口にしなかったが、子どもの僕とも競争したいような人。「私のどこが八十に見えるね。言ってごらんなさいよ!」。なにか僕が注意したときにこんな返答さえ返したこともあった。そんな心境も含めてすべてが、今にして痛いほど分かるような気がするのである。思い出すと胸が痛いとは、こういうことだろう。

 この年の十月、母は、僕の勧めによって心療内科の先生の所へ通い始めた。病名は、老化による軽症ウツ病。
 少し遅れて八十六歳の母が書いた「人生報告」とも言うべき文集に、こんな下りがある。東京女子高等師範学校同窓会の愛知支部発行「桜蔭(同窓会名です)」に収められた文章だが、二番目の古参生としてそこに書いた六枚ほどの原稿の一部だ。
【その後夫脳梗塞となり、左脚不自由に。つづいて心筋梗塞その他色々の老人病を併発し、十数回に及ぶ入退院をくりかえし、平成四年四月二十七日に亡くなりました。看病など何かと心身を使い果たしている間に、私も老人性鬱病という厄介な病名をつけられていました。好きな長唄・三味線も稽古不足のため中止し、日々無為の苦しい数年間を過ごしたものです。同居している次男夫婦も共働きですので、昼間は相変わらずの一人暮らしですが、二人が帰宅し、共にする夕食は楽しく、孤独を忘れることの出来るひとときです】
 僕もこの夕食は楽しかった。母も必ず二品ほど作ってくるので、連れ合いと二人競いあうようにして食卓にのせたものを三人で批評し合うといった夕食。僕の帰りが遅すぎて週に何回も持てなかったが、心が温かくなる思い出である。
さて、この頃はまだ、母の人生で三味線が持った意味を、僕はこんな程度に捉えていただけだった。
 最初に浮かび上がって来る映像はまず、こんなものである。三味線の発表会に出ていたときの、背中を丸めて大きなザブトンに小さく座った母の姿だった。
〈あれほど練習して、回りの人に四苦八苦でなんとかついていく。「生きなきゃー」って感じだなー。それにしてもそろそろ八十だ。いくつになっても「鑑賞」じゃ済まなくて、自分で「表現」して進歩を確かめていきたいという人なんだなー〉。
 また、このしばらく後には、
〈母さんのは「可愛さ余って、老いへの憎さ百倍」。三味線全てを放り出してしまったのは、舞台に出られなくなったショックからだ。随分苦しんだんだけど、俺の同居がもうちょっと早ければ辞めさせなかったのになー〉

(続く)
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小説 「歩く」 (後編)   文科系

2018年08月18日 16時31分11秒 | 文芸作品

 同じ日二十時過ぎ、森本に、定例コースを終えて部屋に入っていく二人を開け放たれたドアの外やや遠くから見る機会が訪れた。森本はその場で仕事らしきものを見つけて座り込み、さりげない観察を始める。
 律子がまずベッドの端に座る。次いで雅実がその前に立ち自分の両手をつかませて、例の「キヲツケ」をやらせている。そのうちの何回かは、立った時の律子の右膝を雅実が右手で伸ばす。「きゅっと真っ直ぐ!」、いちいちそんな言葉が森本にも届いて来る。
 起立の後は、伝い歩きによるトイレ行、入れ歯を外してのうがい、パジャマへの着替えへと続いた。雅実はほとんど手を出さずに、ただ見つめている。森本も改めてあきれるほどに一つ一つの行為がゆっくりで、延々と続いてゆく。トイレなどは中でうたた寝でもしているのではないかと、いぶかられるほどの長さだ。
 そして着替えは、まず腕を袖に通した上着の前で指が何度も何度も行き来している。ボタンの掛け違えなどで律子自身が困ってしまった経験が、後遺症となって残っているようだ。近視力がおぼつかなく、ボタン掛けを指の触覚に頼らねばならぬことの結果らしい。やせ細って、かさかさで、右手に麻痺があるはずの指では、この触覚頼りも随分心許ないだろう、そう森本は見て取った。
 次に、パジャマのズボンの方がまた、大仕事である。脱ぐのとはくのとで二回、座ったベッドから柵を杖にして立ち上がらねばならない。はくときで言えば、座ったまま両脚をそれに通して、それからおもむろに立ち上がり、両手を交互に使ってゴムの部分を腰上までたくし上げていくというやり方だ。その間、残りの片手を震わせながら突っ張って、直立姿勢を支え続けねばならぬというわけである。こういった悪戦苦闘の着替えが結局、正味二十五分も続いたろうか。
 ゆったり座ってこれら全てを見つめていた雅実が、着替えが終わった瞬間に拍手を贈る。褒めていると言うよりも、できたことを喜んでいるという様子だ。律子は大きく肩を下ろして、ニソッとした笑いを返して見せた。
〈ほんとに、残った自立の力を大切にしようというやり方だ。僕らのような仕事の流れでの付き合いなら、とてもここまでは待てないね。そうしてみると毎日の『回廊一周』は、こういう自立の力を維持していく一番の基礎になると、十分知ってやってたんだよ。たしかに、これができる間は寝たきりにもならないし。それにしても律子さん、なんであんなに頑張れるんだろう。このエネルギーも、息子さんのあの気長さも、二人ながらこんな家族はちょっと見たことがないなぁ〉
 森本は、初めて意識して観察したこの結果に、ゆっくりと幾度かうなづいていた。しかしすぐ後に、彼の肝腎の疑問はこう続いていく。
〈それにしても、自立を大切にするにしても、それが、あの熱心さの訳ということじゃないでしょう?看る側か看られる側かどっちかが諦めちゃう場合だってあるはずだし?〉
 雅実が帰る素振りを見せた。ベッドに横向きに寝ていた律子が、不自由な右手をひらひらさせながら差し出し、いっぱいの笑顔を贈る。感謝のしるしのようだ。すると、雅実がその手を握り返して、握手となった。最近の帰りの儀式らしい。以前の『さよなら』の儀式は、律子が壁に沿って伝い歩きで部屋の外まで出て、そこで雅実がエレベーターまで歩くのを見送り、手を振って別れ合うというものだったはずだ。彼女は来訪者全てに、そうしていたものだ。
 

 森本が次に佐伯親子を観察するチャンスは、その数日後にやって来た。その日勤務が終わった十九時頃、二人が屋上にいると同僚に聞いて、行ってみることにした。親子がそこでこの頃よく何か「パーティー」をやっているらしいと小耳にはさんだからである。
 屋上エレベータールームの物陰で初めに目に入ってきた光景はこんなものだった。
 夕日が真西にあり二人が東のベンチに座っているとしたら、森本の位置はさしづめ南西というところだろう。既に幾分暗くなった朱一色の光景の中の二十メートルほど先に、遮る物なく親子が見えた。ハーモニカの音が響いている。雅実が吹いているのだ。風が遠い西の山脈から運ばれて来て、律子の細い白髪を絶えずふるわせている。外は意外に涼しいらしい。小さな木製のテーブルには、飲み物の缶がのっている。一本はビールのようで、その脇にあるのはピーナッツだろうか。
 ハーモニカの曲名は覚えていないが、旋律は森本にも確かに聞き覚えがある。それも、学校の音楽の授業で習ったものだ。吹奏二回目に入ったところで、森本は一番の歌詞を口ずさんでみた。律子が目をつぶり曲に合わせてアゴを出し入れしているのが見える、その動きに合わせながら。

 ”いくとせ故郷 来てみれば
   咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
   門辺の小川のささやきも
   慣れにし昔に変わらねど
   荒れたる我が家に
   住む人 絶えてなく”
   (作者注 イギリスの歌。日本曲名は「故郷の廃家」。犬童球渓作詞)

 曲が終わって、目を開けた律子が雅実にほほ笑む。職員に人気のある、人の警戒心が解けていくようなあの「可愛い笑い顔」である。いや、あれよりもくつろいだ、小さなほほ笑みと言うべきだろう。それから、雅実がビールらしきものを飲むと、律子が真似をするように缶をゆっくりとあおる。雅実がピーナッツを口に放り込むと、律子もそれをつまんで口に運ぶ。また、西の方から風が来たらしく、二人の髪が揺れ、細められた視線が風上に向けられる。今日二人はもう幾度夕日を見つめたのだろうか。
〈今の律子さんには、日々の楽しみの全てが雅実さんなんだ。彼の来訪自身が、凄く大きい楽しみというだけじゃなくて〉
 森本が、様々な律子の言動の記憶をたどりつつ、見つけた感じをふっと表してみた言葉である。一人では歩けない。字も読めない。テレビ番組も、言葉が速すぎてまず分かりはしないだろう。他人との交歓でさえ普通のやり方ではおよそ不可能で、彼女はもうほとんど諦めかけているようだ。そんな律子にも、こういう楽しみがあった。
 夕風、夕日、飲み物、ハーモニカ、そして、これら全てを彼女とともにする雅実。今、森本には、目の前の二人のこれまでがほとんど解きほぐされて来るような気がしていた。

「生きていてくれるだけでよい」とは、ここでもよく聞く言葉である。しかしその気持ちがこういう相手にきちんと伝わるには、大変な行為の積み重ねが必要とされよう。これだけの弱者は嫌でもひねくれてしまうのが普通ではないか。「こんなじゃ、生きていても仕方ないねぇ」、よく呟かれる言葉だ。けれども、周囲の他人が無意識にせよこの言葉を真に受けた体で現に振る舞うとしたら、それはもう論外というものではないだろうか。本人が意志を持ってここまで生き続けてきたという事実が眼前にあるのだから。
 こんな言葉や、それらへの日頃の疑問、抵抗を改めて反芻してみながら、森本は目の前にある夕焼けの中へゆっくりと歩き出していった。


 (終わり)
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小説 「歩く」 (前編)  文科系

2018年08月17日 09時44分08秒 | 文芸作品
 二台並んだエレベーターの出入り口外が、そのままホールになっている。このフロアー入所者全員の倍も座ることができるほどのリビングダイニングのホールで、四方の廊下や小部屋の機能までを取り込んだような広々とした空間である。ベージュや薄いクリームなど明るい茶系統でまとめられ、壁や天井なども直線や角を消して曲線、曲面を多用している。安らぎをコンセプトとしたとでもいうような、柔らかさに徹した設計のようだ。そして、一つ一つの椅子上面と背もたれに張ってある布の緑をこの空間全体のアクセントとして設計しているらしく、これは「入所者が主人公です」という主張ではないか。この広く、明るく、ソフトで、優しい空間の緑の上に身をのせて、今、数十人の老人たちが夕食をとっている。
〈いつも思うけど、こんなに多くの人たちの言うならば『会食』が、なんと静かなこと。動作がゆっくりで、おしゃべりをしないからだ〉
 改めてこの空間全体を見回しながら森本次郎はつぶやいた。老人集団の端っこの椅子から、背もたれの上に両腕とアゴをのせたスタイルで、前後逆さに腰掛けた待機姿勢をとって。
 老人保健施設M、6月中旬十八時の光景である。発足一年ほどのMの職員森本は、この静けさに未だに慣れることができない。ちなみにいつも思い浮かぶことだが、〈子どもがこれだけいたら、収拾もつかないよなぁ〉。彼は、Mと同系列の養護施設から、介護士の資格を取ってここへ志願デューダしてきたのだ。年齢三八歳、二児の父親である。

 その時、同じ広間の一角から、巨大なテレビジョンがことさら大きな声を張り上げたように聞こえた。入所者数人が、頭をゆっくりとそちらに向けるのが、森本の目にはっきりと見える。
「僕は人というものを殺してみたかった。若い未来のある人はいけないと思ったけど、表札の名前を見て、年寄りらしいと分かったので」
 つい最近この県内で起こった主婦刺殺事件の分析報道で、容疑者の高校生が動機に関わって話したものらしい。母親がいない彼は祖父母と同居の四人家族だが、彼らがいつもこんなふうにこの子を育ててきたのだろうか。「私らはもうどうでも良いけど、お前はかけがえのない跡継ぎなんだよ」などと。この祖父はもと教師、父も教師らしい。人間を機能としてだけ見ている。ありそうなことだ。こんな想像が森本の頭をかすめる。
〈たしかに日本の老人たちはみんな自己主張が苦手で、とても我慢強い。『預けっぱなし』の『老健施設タライ回し』がいっぱいで、それが常識だとベテラン職員は言うけど、それにしても『終わり良ければ全て良し』と言うじゃないか!死ぬときがその人の人生の結果なんだと。そのころにこれだけ邪魔者扱いされているような今のお年寄りは、その人生をどう決算したら良いんだろう!〉

 森本は、目の前の老人一人一人を改めて見つめてみた。アゴを突きだし、いつも目をつぶったままゆっくりと噛み締める、体も顔もまん丸の加藤さん。職員に食べさせてもらわないとまったく進まないこともある、赤いほっぺたが可愛い、小さな小さなカオルさん。そんな時の彼女は、なにか拗ねるようなことを抱えてでもいるのだろうか。大川さんがさっさと終えてしまって、両隣など周囲の器までを整理し始めているのはいつものことだ。
〈戦争の中で大人になってきた人たちだ。その後はみんな、働いて働いてきた。学校では『お前らの命は鳥の羽毛よりも軽い』などと教えられて育ち、その子どもたちは今度は『地球よりも重い一人一人』なんて言われ始めたから、今の老人の自己主張下手は当たり前って、誰かが言ってたなぁ〉
 そういう人たちがある日突然倒れる。心臓病、あるいは脳溢血、いずれにしても自分にも周囲にも寝耳に水で訪れる病だ。ただただ呆然としているままに、しばらく病院にいて、歩く練習もそこそこにやがてここへ。一人歩きができない車椅子の老人が寝付いていくのは瞬く間である。その瞬く間に頬の肉、顔色、表情が失われ、生気は消えていき、老いが人間まる一人全てを破壊していく。この破壊は惨いもので、たまにしか訪れない家族は〈あれよあれよ〉と傍観するだけだ。いま森本にはそんな例ばかりが思い浮かぶのだが、何か眼が潤んでくるようだった。
 この頃疲れすぎて、ちょっと鬱病気味なのかも知れない。無理もない。全く面識もない、これまでの世界も年齢も違う急ごしらえの職員仲間が、二千年度の介護保険制度発足前にはと、志だけで突っ走ってきたような一年だったから。森本はしばらくの間目を閉じて、頭を空っぽにしようと努めてみた。


 ふっと頭に浮かんだことがあって開けた目を、森本は佐伯律子の席に向けた。今年間もなく九十歳になるという小さく痩せた律子は、曲がった背骨のせいで随分前屈みになって口を動かしている。水晶体代わりだという分厚い眼鏡で空中の一点を見つめるようにしながら。三年前の左脳内出血、その出血が脳室圧迫にまで進んで死にかけた人、発病時は寝たきり生活約四か月、右半身不随の後遺症、加えてさらに全失語症で読み書きはおろか話もほとんどできず、他人の話は少しは分かるという。ただし、痴呆は全くなく、意識は極めて正常。森本が調べた律子の病歴である。
〈律子さんとこは『預けっ放し』とは違うけど、あれは律子さんが注文してるからかなぁ?〉
 今、こんな疑問を自分に出してみながら、森本は昨夜八時過ぎの出来事を思い浮かべた。
 その夜、夜勤の職員たちの一部で、ある会話が交わされていた。丁度その時、佐伯親子が、以前のように「回廊一周歩行」をしている真っ最中だったという、そのことについてである。ここ十日ほどの彼女は、職員が手を引いてももう歩くことができず、車椅子だけで移動するようになっていたので、話題になったらしい。
 律子が息子の雅実に右手を支えられてゆっくりとフロアーを歩く。右膝が曲がったままだし、背骨が右前への傾きをさらに強めているようだが、律子は歩いている。厚いレンズで前方を見つめ、左腕を大きく振って、皺の多い口許を心持ち引き締め、律子が歩いている。そして二人がリビングダイニングの広間にさしかかると、居合わせた入所者の幾人かからいつも声がかかるのだ。
「おおっ、律子さんやっとるな! ええなぁ、がんばれよ!」
「息子さん、えらいねぇ。ホントにありがとねぇ」
 励ましとは違ったこの種のお礼の声が、歩いている二人によくかけられるのであるが、森本はいまだにこれに慣れることができない。雅実が律子の手を引くことで、当然声の主も大切にされているというニュアンスなのである。
 この光景直後、事務室の会話はこんなふうに続いていった。
「律子さん、休みなしで一周しちゃったよ。それに、なんか、歩き方が違ってた。一歩一歩が前より大きいし、なんで急に歩けるようになったんかなぁ?」
「律子さんは、脚は強いよ。家族がしょっちゅう規律訓練してるし。歩けないのは、真っ直ぐ立つ姿勢の平衡感覚の問題なんだって、リハビリの先生が言ってた。息子さんがその訓練したんだよ、きっと」
「確かにここんとこずっと『キヲツケ』とか言って、姿勢の練習ばっかりやってたわね。やっぱり家族の力があるとねぇ」

 森本は改めて、目の前の律子に視線を合わせ直した。
 確かに佐伯の家はここでは珍しい存在である。入所半年になる今でも、来訪者は週のほとんどの日にあり、毎週末の金曜夜か土曜日には雅実に連れられて自宅泊まりへと帰っていく。この毎週末「外泊」というのは、ここの発足以来他には例がないものだ。中心になって通ってくるのが息子の雅実、つまり男性だというのがまた珍しい。彼は、仕事を終えた夜七、八時に通って来て、門限の八時をかなり過ぎてから帰っていく。また、ずっと共働きを続けてきたと聞く妻など家族の来訪者はもちろん、律子の友人とおぼしき人の一部でさえが一定の決まったリハビリに律子を、導いていくというのも、職員がその成り立ちをいぶかるようなことだった。リハビリ室まで出かけて器具で両肩を回し、椅子やベッドの端っこに腰掛けた律子の両手をとって二十回ほどの規律訓練を行い、手をつなぎあって『回廊一周歩行』。最近はこういうコースが普通だった。
〈『終わり良ければ全て良し』と言うなら、律子さんは『全て良し』かも知れない。そして、これは律子さんの人生の結果で、子どもさんたちにやってきたことのお返しなんだろうか、どんな人生だったんだろう?〉
 ここまで来て森本は、こういう問いが、律子という人物が、みずから選び直した職業の将来を左右するような重い疑問符になってきたようだと考え込んでいた。
〈とにかく、事実を見てやろう。話を聞くのはそれからでよい〉
 心の中で呟いた、大きな決意だった。

(後編へ続く)
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今なお日本サッカーの灯台、ヒデ   文科系

2018年08月16日 10時08分58秒 | スポーツ
 中田英寿のメモリー  文科系  

 これは、06年ワールドカップ直後にある所に書いたものだが、再掲させていただく。日本サッカーは、彼にどれだけ感謝してもしたりないはずだと、そういう思いで書いた物だ。ワールドカップ(日本出場)前後になるといつも思い出すべき事と、自分に言い聞かせている内容である。

【 最後に、〇六WCドイツ大会終了を待って、二九歳でサッカー界からの引退表明をした中田英寿のメモリーを記しておく。彼が日本サッカーにどれだけの革命をなしたかという諸事実の記録である。

 まず、彼のジャパン代表登場がどれだけ衝撃的であったかから、始める。
 九七年、フランスワールドカップ・アジア予選途中で絶望的な苦戦続きから加茂・代表監督解任という結末、窮地が訪れていた。前回の「ドーハの悲劇」を経て、「今回こそは、WC日本初出場!」という国民の期待が崩れかけていた瞬間である。この瞬間に、突如出現した新米の二十歳。チーム危機の中、実力でレギュラーをもぎ取り、あまたの先輩たちが即座に「チームの司令塔」と自然に認めて、その後数ゲームで日本初出場という結果を出して見せた「日本の救世主」。日本中を大フィーバーさせたのも当然のことだろう。この二十歳の出現がなければ、フランスでワールドカップ日本初出場という歴史自身がなかったはずなのだから。クライマックスとして上げられるのが「ジョホールバルの奇跡」、対イラン第三代表決定戦。得点したのは中山、城、岡野。この三得点それぞれへの最終パス(アシスト)は全て中田が出したものだった。
 さて、この彼、その後も日韓、ドイツと三回のワールドカップを引っ張り続け、さらに希有のアスリートであることを証明し続けて見せた。これが、中田の二十歳から二九歳までの出来事なのである。そもそも「三大会連続出場」は他に川口、小野だけだし、「三大会レギュラー出場」ともなればもちろん、中田以外にはいない。こうして、日本サッカー界の常識を覆した革命児と表現しても、サッカー界の誰一人反対はできないという選手なのである。

 サッカー選手としての彼は、そもそもどんな特長をもっていたか。
 二十歳の彼のパスは、「『追いつけ!』という不親切この上ないもの」と日本の評論家たちから総スカンを食った。が数年後にはもう、彼のパススピードでしか世界には通用しないとは、周知の事実となった。
 「フィールドを鳥瞰していることを示すようなあの広い視野はどうやって身につけたものなのか?」。こちらは、反対者のいない関係者全員が初めから一致した驚きの声だった。どんなプレー中でも背筋を伸ばし首を前後左右へと回してきょろきょろする彼のスタイルは、その後日本の子ども達の間に広がっていったものだ。正確なロングパスは正確な視野からしか生まれないのだから。
 「人のいない所へ走り込まないフォワードにはパスをあげないよ」。これも今や、「フォワードは技術以上に、位置取りが全て」という、日本でも常識となった知恵だ。これについては日本FW陣の大御所、中山雅史のこんな証言を読んだことがある。
 「中田が俺に言うのね。『そんなに敵ディフェンダーをくっつけてちゃ、パスがあげられない。どこでも良いから敵を振り切るように走ってって。そこへパスを出すから。そしたらフリーでシュート打てるでしょう』。俺、そんな上手くいくかよと、思ったね。でもまー、走ってみた。きちんとパスが来るじゃない。フォワードとして『目から鱗』だったよ!」
 この出来事が中田二十歳の時のことだ。十年上の大先輩によくも言ったり!従ってみた中山もえらい。中山のこの素直さこそ、三九歳の今日まで現役を続けられている最大の理由と、僕には思えるほどだ。封建的な日本スポーツ界では、希有なエピソードなのではないか。
 中田はまた、自分個人用のサッカー専用体力トレーニングにプロ入り以来毎日、汗を流し続けている。「走れなければサッカーにはならない」、「外国人には体力負けするなんて、プロとしては言い訳にもならないよ」。自らのプレー実績で示してきたこれらのことの背景こそ、このトレーニングなのである。

 さて、これら全ては今でこそ日本でも常識になっているものだ。しかし、中田はこれら全ての「世界水準」を二十歳にして、どうやって身につけたのか。「世界から習った」、「例えば十六歳で出会ったナイジェリアから」などと彼は述べている。ほとんど世界の相手を観察してえた「知恵」なのである。もの凄い観察力、分析力、練習プログラム考案力、自己規制!それら全てにおいて、なんと早熟だったことか!この上ない頭脳の持ち主が、観察のチャンスに恵まれたと語りうることだけは確かであろう。

 彼はまた、世の全てが媚びを売るがごときマスコミへの反逆者でもある。「嘘ばかり書く」、「下らない質問ばっかり投げてくる」と主張し続け、「こんなものは通さず、自分の大事なことはファンに直接語りたい」と、スポーツマン・ホームページの開拓者にもなったのだった。弱冠二一歳、九八年のことである。それも、日本語、英語、イタリア語だけでなく、中国語、韓国語版まで備えたサイトに育ち上がって行った。国際人というだけではなく、アジアの星にもなっていたということなのだろう。
 他方、日本のサッカーマスコミは未だに程度が低い。テレビのサッカー中継でも、ボールばかりを追いかけているように見える。サッカーの神髄はこれでは絶対に見えてこないはずだ。この『ボール追いかけ』カメラワークは野球中継の習慣から来ているものだろう。野球はどうしてもボールを追いかける。その習慣で、サッカーでもボールを追いかける『局面アングル』が多くなっているのではないか。それにもう一つ、新聞などの野球報道でも、勝ち負け、得点者に拘りすぎているように思われる。サッカーの得点は、ほとんど組織の結果と言って良いのだから、フォワードよりも組織を写して欲しいと思うのだ。得点を援助したラストパス、いわゆる「アシスト」報道がないのも、日本の特徴だろう。

 ありがとう、中田英寿。僕をこれほどのサッカー好きにしてくれて。僕の生活にサッカーを与えてくれて。】

 最後に、現在のマスコミは相変わらず「キング・カズ!」を連呼しているが、何故ヒデの名前がもっと多く出てこないのだろうか。不思議だ。まー読売の戦術なのだろうが。
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改めて「太平洋戦争の大嘘」という大嘘(1)~(3)  文科系

2018年08月15日 11時54分43秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 何度も何度も近年の日本の一部だけで叫んでいるねじ曲がった太平洋戦争本の広告がここに載るので、こちらも世界史論として定着している太平洋戦争論を今一度掲げ直したい。三つの反論を一つにまとめた。

【 真珠湾と、アメリカ参戦  文科系 2018年04月01日

 拙稿の「太平洋戦争史」が気になる集団がいるしく、藤井厳喜さんとやらの「日本人が知らない、太平洋戦争の大嘘」と名付けられた本の広告がこのブログに再三掲載されてくる。その概要が宣伝文句として書いてあって、以下その事を一つ一つ批判してみたい。嘘も言いようという典型内容だと思う。これでは世界が習っている日本近代史が全て嘘になってしまう。ただし、こんな「太平洋戦争史」は、今大問題になっている佐川なんとかさんと同じで、安倍の日本復古調時代に咲いた、今の日本の一部にも通じないあだ花である。
 以下、初めに藤井さんの言い分をひとつずつ書いて、僕の反論を述べる。

・『日本が真珠湾を奇襲攻撃したあの日、アメリカ大統領とイギリス首相は驚きや怒りなどではなく、電話で歓喜に狂ったのは何故か?』
 イギリス首相が喜んだのは当たり前。モンロー主義を取って来て当時の西欧俗世界から距離を置いていたやのアメリカが、ついに連合軍側について、全体主義国家と戦ってくれることになったのだから。時あたかも、大陸ロシア以外のヨーロッパはドイツに征服されて、次はイギリス上陸・征服戦が始まるかという時だったのだし。
 他方アメリカは、イギリスがフランスのようにドイツに征服されるかも知れぬと、怖れ始めていた。ヒトラーの全体主義世界実現をどうしても許せないと、モンロー主義をかなぐり捨てて参戦する機会を待ち望むようになっていたのである。日本の中国・インドシナ南下策、真珠湾が、その絶好の国民向け口実与えたということだろう。

・『「絶対に戦争はしない」と誓って大統領に当選したルーズベルト…それなのに、なぜ戦争は始まったのか?国民を騙して戦争に引きずり込んだ、彼の裏の顔とは?』
 ヨーロッパ植民地主義国の昔ながらの列強戦争、アメリカ大陸干渉をアメリカが嫌っていたからこそ、モンロー主義を取っていたのである。が、ドイツ、日本という民主主義を否定する全体主義独裁国家が勝てば、次は民主主義国家としてのアメリカの存立も危うくなる。「モンロー主義を捨てて参戦」をどうしても国民に認めて貰わねばならなかったという情勢だった。
 そもそも、この戦争を始めたのは、ドイツと日本である。ドイツのポーランド電撃進入と、日本の中国・インドシナ南下作戦と真珠湾とが並んで起これば、アメリカが参戦しないわけがないのだ。日本の方が逆に、アメリカのモンロー主義を信じすぎたのかも知れない。ヒトラーと同じで、軍部独裁国家は政治理念、思想にはてんで弱かったということだろう。日本の中国・インドシナ南下作戦などに対してアメリカが「石油禁輸措置」を取ったのは、当時の日本政府にとって本当に驚きであった。自分の全体主義的軍事独裁はエスカレートするばかりだったのだから、アメリカ流民主主義死守の姿勢を信じられなかったのであろう。日本軍部はそもそも、アメリカの対英独立戦争から始まる民主主義思想をアメリカがどれだけ信奉していたかも信じていなかったのだろう。】


【 「日本の和平提案」? 「ハルノート」?  文科系 2018年04月02日

 拙稿の「太平洋戦争史」が気になる人々が多いようだ。藤井厳喜さんとやらの「日本人が知らない、太平洋戦争の大嘘」という本の広告がこのブログに再三掲載されてくる。調べてみたら、安倍首相のブレーンの1人のようで、国会議員選挙に2度も出て2度とも落ちているお人。政治学者とあるが、政治学よりもどうも保守政治家になりたいお方らしい。それも、安倍周辺の政治家。加えてこの御本、無料で配布しているとあった。どこかから金が出ているのだろう。
 
 さて、この本の概要が宣伝文句に書いてあって、その事を一つ一つ批判してきたその2回目である。『 』内は、その本の宣伝文句。

・『日本は終戦まで、アメリカに何度も何度も和平提案を送っていた。それを完全に無視し続けた上での原爆投下…瀕死の日本に、どうしてそこまでする必要があったのか?「原爆が正義だ」という狂気のデタラメを生み出した世界の力関係とは?』
 日本がアメリカに和平打診をしたかどうかなどは、ここでは大した問題ではない。現に、敗勢著しくなってもポツダム宣言を受けなかったという世界史的事実があるのだから。この全面降伏勧告を受けなかったことが、原爆投下という惨劇に繋がったという事の方こそ、日本国民も世界も周知の事実である。

・『日本人が戦争に踏み切るきっかけとなった「ハル・ノート」。なぜ、そんな重要な内容を私たち日本人は教えられないのか?アメリカ大物議員すらも「国民への裏切り」だと絶句した、その内容とは?』
 ハルノートが『日本人が戦争に踏み切るきっかけとなった』というのが、大嘘である。大嘘というよりも、「ハルノートに怒り心頭! 開戦やむなし」とは、当時の日本側が戦意高揚のための宣伝に使っただけのこと。
 この文書は、開戦原因として『そんな重要な内容』なのではない。ハルノートは、12月8日の開戦直前の11月末に日本に送られてきたもの。日本は既に、開戦準備を密かに、すっかり終えてしまって真珠湾に向けた出撃さえ始まっていた段階で届いたものである。戦争原因については、それ以前にこういう経過があった。満州事変・国連脱退から、中国南下を続けた日本に、国連、アメリカが再三の警告と、「制裁措置」を与えてきた。「国際不法行為」と「強制・制裁措置」とのエスカレートと言えば、今の北朝鮮と国連との関係のようなもの。「石油禁輸も含めて」日本がほぼ全面的に悪かったから起こったことなのだ。いきなりポーランドに進撃して非難されたドイツとの、兄弟国だけのことはある。

 以上の太平洋戦争の原因論争と、これについての右流ねじ曲げ論批判とは、このブログには無数にあるが、最も最近のものでは以下のエントリーを参照されたい。本年1月29日「太平洋戦争、右流ねじ曲げ理論に」】


【 日独は、国連も脱退した無法者だった 文科系 2018年04月06日

 さっき、こういうコメントを付けた。これをやや詳論したい。

『 戦前日本を庇う人が、その国連脱退を何も見ず、ハルノートのような太平洋戦争直前の「不当性」を問題にしているのが、笑える。要は、こういう話なのだから。
「国連をさえ脱退した国際的無法者が、それらの記憶も薄れた今になって何を言うか! その無法者ぶりには頬被りして・・・」
 大東亜共栄圏が出来たら、アジア人は日本天皇の臣民にされたろう。天皇制を批判したら、死刑である。これは、もしもドイツが勝っていたら世界がこうなっていたのと同じ事だ。ユダヤ人、身障者、黒人などの皆殺し。
 こんな世界を誰が望んだろうか。だからこそ、日独が負けたことが、世界にとってどれだけ良かったことか! 今の世界のみんながそう考えるはずである。』

 このコメント前半部分は、右論者の常道の一つ。1931~3年の満州事変、国連脱退を何も語らないのである。現代世界では、北朝鮮でさえ脱退していないのに。国連を脱退すれば、国連法に縛られなくなる代わりに、独立国として認められる国連の庇護が無くなるわけである。戦前日本はこれ以降の事実として、どんどん無法者になっていった。(今回つける文科系の注  こうして、現在アメリカが国連無視へとどんどん傾いていることは、極めて要チェック事項なのである。ここに書いた日独の歴史の全てをあげてそう言いたい。ちなみにアメリカのこの国連無視行為が、1930年代の日独と同じように、世界有数の軍事力に物を言わせているという、この点が重要なのだ。イラン、シリア、北朝鮮、そして中国・・・全てに対してそうなのである。)

 コメント後半の「もし日独が大戦に勝ったら」という問いも、大戦をどう見るかにとって極めて重要なものだろう。
 日本には国民はいなくて臣民(天皇の家来である民)だけが存在したのだから、大東亜共栄圏とはこういうものになったはずだ。日本の天皇が支配するアジアに。日本天皇制度を批判したら、先ず死刑という「共栄圏」である。まー今戦前日本が批判されている朝鮮や、中国の一部やのような有り様を考えてみればよい。安重根のようなその国の愛国人士が殺されたとか、南京大虐殺のように反日勢力は皆殺しにあったとか。
 また、ヒトラーの世界支配など今の誰が望むのだろうか。鬼畜と言われた米英は、日独にも自由を与えた。原理としては黒人も有色人種も安心して住める社会であったし、戦後社会は事実としてもどんどんそう進んでいった。日独が勝っていたら、とうていこんな世界は来なかったと思えば、ぞっとするのである。
 こういう事実を前にしたら、右論者がよく語るこんな理屈も全く噴飯ものもいーところとなろう。
「日本、太平洋戦争は、植民地解放に貢献した」】
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小説 「母が僕らに遺したもの」③終わりです  文科系

2018年08月15日 00時32分55秒 | 文芸作品
 この時また、籐椅子の父が見えてくる。するとそれを見た当時の僕の感じがさらにまた蘇って来た。いや、夢そのものが、当時のことになってしまった。夢の舞台は籐椅子だけ、登場人物はもちろん六十代の父だけだ。僕は当然三十代なのだが、夢自身には登場していなくて、この夢を目として見ながら、心として感じ、考えているだけの存在だ。
 まだ父の顔には精気が残っている。だけど、一日中そこに座っている。時に本や碁石の定石書なんかを開くが、それもあまり続かない。母が傍らのテレビを点けても、ドラマの途中で寝入ったりしている。母は、父のこの籐椅子姿がイヤでイヤで、「あれを見ていると、私が病気になりそうだ」と吐き捨てるような愚痴を言っていたものだ。僕が何か病的なものを感ずるほどの、ある種の感情がこもった愚痴だった。まあ、当時の母も加わったこんな場面が切れ切れのスローフィルムのように続いたのである。
 そして僕は考えている。父は、やることがなかった? 時間を費やす術がなかった? 度々行けるような外出先も碁会所ぐらいだし、友だちは居なかったし。家で暇な時にいつでも始められ、何時間かを費やせるというものがなかった? 
 するとそのとき、不意に思いだした。昔の「籐椅子の父」に因んで、当時の僕に湧いたある一つの想念、仮説のようなものを。要約すればこんな感じになるだろう。
 健全で、素直で、一途な父にとっては、職場での評価が人生の全てだったのだ。そもそも、辺境で恵まれない貧乏子だくさんの家に生まれたのに、職場最強学閥の大学院卒のような学歴を得ていたのだし、力はあったし、努力もしたし。事実として節目節目を最高の評価で乗り越えてきたみたいだし。戦前の若いうちから職場の周りの人々にも日々「そういう者として」接されてきたことだろうし。さてそれ以降、彼に「その刺激」に並ぶものがあったろうか。そもそも、それ以外の刺激を育くむ機会が、彼にありえただろうか。今はもう、この六十代半ばで父は既に余生を暮らしているのだ。母は父のこの「余生」に一時呆然とし、やがて怒りだしたんだろう、きっと。
 これが、三十代の僕が父の藤椅子姿を巡って感じ取ったものだった。
 
「余生でもいいよなー、父さん。母さん二人は怒るだろうけど?」
八十の心だけの僕がなぜか突然そう問うている。と、これも八十の顔に戻った父が僕の方に例のどこか恥ずかしげな微笑みを振り向けて、答え返す。
「母さんは、毎日怒ってたよ。それも八十前には、くるっと変わったけどな。急に怒らなくなったのは、多分自分をも嫌い始めたからだ、きっと」
「人は遅かれ早かれいつかどっかで、自分の老いと折り合いをつけなきゃということだね」
「そうそう、そんなに頑張らんでもええじゃないか。私はもう頑張ったし、やることもない、とね」
「母さんはもっと頑張りたかったんだよ。それに父さん、飯や洗濯ぐらいやれんと、そういう母さんを邪魔することになる。ずっと共稼ぎだったんだし」
「それは分かってますよ。だから母さんには最後までずっと頭が上がらなかった」
「そうそう、世話されてる限り結局言い負かされるから、よく『母さん、貴方は偉い』とか大声出して、ふてくされちゃってたね」
「おまえは何でもできるから、言い負かされないんだろう? 私らと違って仲も良さそうだし」
「母さんがそんなこと聞いたら笑うよ。いつも僕が負かされてるのを知って、不憫とさえ思ってたはずだから。やっぱりやることの絶対量が僕とはちがうし、女性は明治生まれより昭和の方が注文の口もうるさいし、きついきつい」
「そうだろうなー、生まれた時から参政権与えられることになっていた戦後昭和の共稼ぎ女というようなもんだからなー。でもな、明治生まれの共稼ぎ男には、特別な辛さもありますよ」
「そうだろうねー。・・・・うちの二人はとにかく特別。育った時の苦労というか努力というか、その質も量も違ってた」
「なるほど、なるほど。それじゃおまえもなかなか大変だったわけだ。はっはっはっ」

 おおむねこんな会話を残して、父の籐椅子姿は消えていった。
僕の眼前はまた秋の夕暮れ時で、「古い骸骨」の白木蓮が見えている。だだっ広い家に一人ぼっちの八十過ぎ、広縁に置かれた籐椅子に横になった夢の初めに戻っている。もちろん連れ合いが死んだばかりの、新米の男やもめだ。
〈父さんも、籐椅子の上ではいつも、昔の人たちとこんなふうにしゃべり合ってたのかなー。それでも父さんは、現実の母さんに甘えられたわけだし、晩年は僕らの家族も一緒だった。
 また訪れた慣れることのできないと感じている静けさの中で僕はそうつぶやくと、ふーっと小さく息をはく。
 こんな静かな一人よりも、いくらうるさくても少々労力が必要でも、連れ合いがいたほうがどれだけ良いことか。そんな情念を、うっすらと開けた目に天井をうつしながら何度も反芻している。そして、気付いた。籐椅子の上で目を開けたのではなく、朝の寝床でなのだと。目を覚まし、現実の天井を実際に見ていたのである。

   
 何かあわてて耳を澄ましてみると、連れ合いが起きている気配を感じる。ちなみに僕らは、別々の部屋に寝ることにしているのだ。すぐにダイニングへ飛んで行き、いつものように昨朝の出し殻が残ったコーヒーメーカーを外して、キッチンへ持って行く。これを三往復ほどして、コーヒーやトーストや既に器に用意されていた果物入りのヨーグルトなどを食机に並べ、やがて二人で食べ始める。僕はいつものように新聞を読みながら。
 しばらく後、「今日、ジム行こうか?」、これもそうすることになる日のいつもの僕の発言だ。「うん、五時半ごろね」。彼女は、テレビニュースに目をやりながら、いつものように応え返す。こんなふうにして、近所のスポーツクラブへ週一度ほど二人で歩いていくことになる。そして、一人で通うのが各一回ほどで、これらは彼女にとっては、糖尿病対策にもなっている。
 そしてまた、それぞれの沈黙。ほどなく、僕がまたしゃべっている。「今度の小説、一昨日やっと終わり方が見えてきたから、できたらまた読んでくれるかなー?」。彼女は母に次ぐ読者なのだ。ただ、母に比べたらうるさい、うるさい。母は本を受け取ったその日のうちに必ず読むくせに読んだということすらすぐには伝えて来ないのに対して、こちらはやっと読んだと分かったそのときには、ほとんど字句上のことを取り上げて細々と切りがない。僕は文法にはほどほどの自信があり、むしろ内容や構成上の話がしたいというのに。ちなみに、彼女は国語の教師で、退職した今も元の学校に週何日か通っている。
 今日に限ってなんとなく僕の話題が多くなって、さらに次の話を持ちかけている。
「ギター、やっぱりあの先生の所へ通うことにするわー」
 最近下見に行ったあるギター教師のことを持ち出したのである。
「開放弦を清んだ音で弾くというだけで一時間実演、講義してもらってあれだけ興奮できるんだったら、習いに行くのは幸せなことだよ。楽しみなんでしょう?」
「ホント、わくわくするとはこういうことだったなーってね。あの音を作るだけで、フルートなみに単音楽器としても通用すると言いたいぐらいだもんな。あーこれ、前にももう言ったことだった」
 ちなみに彼女は、あるフルート兼リコーダーの教室に通っている。その教室は、年に一度クリスマスホームコンサートを開き、僕も毎年聴きに通ってもう二十年近くになろうか。子どもとお母さんたちが中心の教室で、「古楽研究会」に属する先生やその友人も演奏するから、出演者の腕は年齢以上にバラバラで、それがまた楽しい。コンサートの後にはいつも欠かさずパーティーも待っている。関係する家族すべてが各二皿ずつ持ち寄った得意料理が洋食、和食、中華、エスニックなど色も様々に机に溢れ、各国のワインなども取りそろえられてあるというパーティーである。我が家がここ5年ほど提出しているのは「牛肉のワイン煮」二皿。作者は僕、盛りつけが連れ合い。表面を焦がした牛肉の塊四百グラムほどを、ワインと水にウスターソースと醤油を加えた圧力釜で三分ほど揺すらせ、肉とソースを分けて冷やしてからまた合わせて、一夜以上漬け置きするという僕の晩酌への定番だ。料理が多すぎてかなり余るという、全員の舌による優勝劣敗の試練のなかを5年も生き延びた作品である。もっとも、最初の時に連れ合いが「とーさんの作品」と触れ回ってくれたからつとに有名で、好奇心半分の試食者も毎年多いのだろう。
 お金をかけずにこれほど十二分に人生を楽しむ場所を作りあげ、持続させてきた賢いお母さんたち。こんな光景の展開を、僕は始終体を揺すってにこにこしながら毎年享受している。さて、すでにここで一番の古株の一人になっている我がかーさんであるが、母と同じようにこれから八十までこの場所に来ることができるだろうか。

 母が居なくなって半年、このごろふっと思うのだ。退職後の僕ら夫婦のこんな生活も、同居した晩年の母と父とを見ながらこの十数年かけて大小の取捨選択を少しずつ重ねてきた、その結果ではなかったか。


 (おわり)


注 ここに述べた僕のスポーツ観とそっくりと感じられるものに最近出会った。この作品をほぼ書き終わったころに。考え方の構造だけでなく、用語まで似ていて驚きかつ嬉しかった。そして、こういう分野に興味のある方全てに、この本を心からお勧めしたいと思いたった。NHK出版、玉木正之氏の「スポーツ解体新書」である。なお、僕の当作品該当部分を、玉木氏のこの著作によって一部でも修正するということは、あえてしなかった。断りを入れて、修正した方が分かりやすくなったのかもしれないが、僕のオリジナルを崩したくはなかったからである。


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小説「母が僕らに遺したもの」②  文科系

2018年08月14日 10時00分13秒 | 文芸作品
 週に複数回走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。こういう大切な快感は、何と名付けようか。イチローやナカタなどこのセンスが特別に鋭い人の話をする必要があるような時、このセンスを何と呼んで話し始めたらいいのだろう。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚、それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめるというそのことの結果と見るべきではないだろうか。そういう理念を現に噛みしめているつもりの者からすれば、不摂生のためすっかり体型がくずれてしまったかに見える体協の役員の方などを見るのは悲しい。勝ち負けには通じられていたかも知れないが、「身体のセンス」はどこか遠くに置き忘れてこられたように見えるから。その姿で「生涯スポーツ」を説かれたとしても、「言行不一致」を免れることはできないだろう。(注  その③の終わりにこの部分への注があります)

 長々とスポーツのことを語って来た。スポーツを巡る僕の幸せの略歴や内容を表現したかったからだ。そしてこれらが、厳しい「敵」、反面教師として、両親にその源のところで育てられたものだからだ。熱心な反対は無視とは別物で、良いものをそのように掘り下げていくエネルギーにも転化していくと、今なら言える。まなじり決した執拗な反対があったからそれだけ燃えたし、守ったものを大事にしてきたと言っても良かろう。ただ厳しい反対に抗って創造が続けられるためには、対立しあった双方が切れてしまわない限りという条件が付くのではないか。だからこそ今、僕のスポーツ生活全てに関わって、夜毎の修羅場周辺をうろうろしていた母自身が、懐かしい。その時の両親を表現するなら、父は何か狭くて、頑なだったけれど、母のこの「うろうろ」にはぎりぎりの所で情というものが感じられた。そしてこの時の情の感じが、時を経るごとに大きなものになっていき、看病の五年間で最も多く思い出された母との過去の一つになっていた。これは、母から観ても同じだろう。苦労した子ほど可愛いとよく言われるから、この夜毎の「うろうろ」が母の中でも太い糸になっていて不思議はない。
 三人兄弟一姉妹で次男の僕が結局、晩年の両親と同居することになったのは、今振り返ればこの太い糸が後にますます太く育っていった、その末のことだったという気がする。例えば、同居以前も我が家が母の避難場所であったという事実がある。母は晩年の父とよくけんかして家出をしたが、その逃げ込み先のほとんどが僕の家だった。あの母が子の家へ避難するというのはよくよくのことなのである。たまに人間くさい本音が漏れて出るように振る舞うことはあるが、普段は、また子どもに対しては特に、いつも襟を正しているというような所があったから。年を取って弱くなったということもあろうが、僕ら夫婦には自分の弱さを出すことができるようになっていたのではないか。それも、あの「うろうろ」を典型として感情がもつれたような場面に、誰よりも僕と出会わすことが多かったからのことではなかったろうか。


 さて、こんな生活が半年近く続いたある明け方、僕は夢をみた。冷夏の分を秋の入り口に来て取り戻そうとでもいうような、寝苦しい一夜の未明のことである。
 夢の僕は八十過ぎの老人だ。子ども二人はもう同居していない。一人は同じこの市に住んでいるようだが、もう一人はどうも日本にはいないらしい。そして何よりも、連れ合いがいない。亡くなったばかりなのだ。原因とかどんな経過でとかについては、糖尿病が絡んでいるらしいという以外には何の感じもなくて、ただ喪失したという事実だけが、僕の夢によくあるあのリアルな寂寥感とともに存在していた。こうしてつまり、両親から相続しただだ広い家に住んでいるのは僕一人。母の好みで花木ばかりが多い庭はまあ辛うじて見える程度には剪定され、父の生前から二階の窓際の定位置にある藤の長椅子に横になって、僕がそれらを見ているというシテュエーションである。
 十メートルほど向こうに、暮れ始めた秋の陽に当たって、背の高い白木蓮が見える。なぜか上半分ほどはもう葉がついていない。古い骸骨みたいだなーと感じている。ごつごつと曲がって痩せ細り、水気も感じられない灰色、おまけに所々に節くれはあるし。
 あの木は、母さん(母のほう)の剪定が悪くて、幹に穴が開いて死にかけてた奴。ぼくらが穴の手当をしたら、幹までどんどん太っていったんだった。同居を始めたばかりのころ、この手当はかーさん(連れ合いのほう)の提案だった。もう寿命なのかなー。

 と、突然、打って変わったように強い日差しがあって、白木蓮の太い枝の付け根に座り込んでいる五十前後の僕が見えてきた。すると、籐椅子にいる僕が晩年の父にすり替わっている。彼は珍しく目を閉じていなくて、木の上の僕を眩しそうに見ている。木の下でうろうろしてるのは、あー母さんのほうだ。やはり両手で目の上に日よけを作って僕を見上げている。かーさんが向こうに、何か道具をもって現れた。小刀のようだな。僕がさっき頼んだんだろう。ピアノが聞こえる。あの曲は、高校へ入ったばかりの娘の、・・・・発表会の直前なんだ、同じ一箇所がもう何十回も繰り返されている。これら全体を見ているようなもう一人の僕の耳に、この音が転がってしばらく止まない。

 と、また突然、木の上の僕もこれら全体を見ている心だけの存在であるような僕も、元の八十歳で一人住まいの籐椅子姿へと戻っていった。
「おーい、かーさん」、八十の僕が言いかけた。続くはずの言葉は「お茶しようか!」のようで、一瞬首を回して、もう腰をあげそうになっている。ちなみに、母も子ども二人も居た昔からお茶は僕の当番、煎茶も玉露も紅茶も。そして毎朝のコーヒーは、生前の母のベッドサイドに出勤前の僕がいつも持って行ったものだ。しかし、今はこの提案に誰の返事が合わされることもない。何を喋っても、独り言にしかならない家の中なのに、習慣的言動を条件の変化に合わせてなくするということがいつまでもできないのだと噛みしめている。こういう言動はどうもボケの始まりと言うらしいが、会話ゼロの深閑とした生活の中で急に深刻さを増しているのだという実感も、はっきりと湧いていた。 
 どんどん『昔を生きる人』の深みにはまっていく。そう言えば、同じこの藤椅子にいた父さんは、それが早かったなー。六十半ばからもう一日中ここに座ってた感じ。僕が声をかけるとゆっくりと振り向いて、にそっと笑い返してきたから、眠ってたわけじゃない。恥ずかしいというような、何か遠慮しているというような良い笑顔だったけど、あのときは例えば母さんとの新婚時代なんかでも思い出してたんだろうか?


(もう一回続く)
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小説 「母が僕らに遺したもの」①  文科系

2018年08月13日 11時22分35秒 | 文芸作品
 母が死んだ。僕ら夫婦の退職を待っていたかのように死んだ。左脳内出血の突発以来五年三か月と四日。右半身麻痺、感覚性全失語症という後遺症と闘い、麻痺はほとんど消えて、一時はほぼ自立というところまで持ち直したこともあったのに。歩行訓練や起立訓練など周囲が課すことにもちゃんとついてきて、母らしく頑張ってきたのに。僕らも同じ年月を、共働きを続けながら一緒に努めてきたというのに。僕らが定年を過ぎて同時に退職して十二日目で、居なくなった。
 こんな母の声が聞こえてくるようだ。
「お前も随分、家事に慣れてきたねぇ。体が自然に動くようになったもの。それを生かして、けんかを少なくして、自由になった時間を二人で楽しく暮らしていきなさい」
 九十二歳と七ヶ月ちょうど。人は大往生と言い、僕らもいちおう覚悟はしていたものの、死などというものはやはりどこまでいっても「突然」という他には表現のしようがないものだ。いわゆる痴呆ではなかったし、つい二日前までは僕と簡単な会話も交わしていたのである。病院生活などで家にいない期間が長かったからまだどこかに居るような気がして、朝の寝床で「さあ母さんとこ行かなきゃ」などと一瞬構えている僕が居る。生きている方からは、死んだ者への様々な「構え」がいつまでたっても抜けないようだ。

 二人分の年金があり、借金がないこともあって、働く気はもともとないから、いくつかの活動を準備してリタイヤー生活を手ぐすねひいて待ち構えていた。さらに、通夜、葬式、支払い、答礼、相続手続きの相談、母の持ち物の整理開始などなど、こんな一切が済んで、さて、一日平均して四時間ほどになっていた通院までが消えていた。ちなみに、母の所へ行くのは実子である僕の方が良いという決まりが五年間実行されてきたが、この仕事が突然なくなったというわけだ。こういう新生活になってから、以前より増えていったのがギターを弾く時間だった。
 退職の半年ほど前から、ぼろぼろになったカルカッシ教則本を引っ張りだして、昔から時々思い出したようにやってきた下手な一人習いのおさらいを始めていた。そして、この退職前のいわば準備段階で既に左手が故障した。指先はもちろん、関節や掌まで痛んで、マッサージをしたり、氷で冷やしたりしながらだましだまし弾いてきた。特に悪いのは左手薬指で、朝起きるとスムーズに動かず、延ばす時のある時点でバネが働いたような感じに跳ねる。母のことが済んで、まず早速医者に行った。薬指内側の付け根に注射を打たれ、その翌日からは、多少の違和感以外は全て何ということはなし、憂いなく弾き続けた。もっとも、それまでに身につけてしまった音の悪さや雑音の多さは自分でもどう直して良いか分からないという悩みはあったけれど。
 母に会いに行く時間が全てギタ-に消えていったという程度ではない。一日平均すると約五~六時間にもなろうか、それを二回ほどに分けて弾く。一日三回のときなど、八時間を越える日もあった。仕事がギター練習に転じたみたいなこんな生活がもう半年近く続いている。連れ合いからは「ちょっとおかしいんじゃない?」と言われ始め、あげくの果ては「どっか感情が狂ってるんだよ」と不思議がられても、「別に悪いことしとるわけじゃない。今日の家事はすんだよ」と答えては、そのまま続けるという調子だ。「日頃掃除し残した家の恥部のような部分も順番にぴかぴかにしたし、食事作りやその片付けなども二人並んでやってるんだから、その上でこれほどに魂が入った芸術活動、むしろ魅力と言ってほしいね」という、そんな積極的反論も言行ともに備えてあった。こうして、僕なりに、本当に僕なりにということなのだが、過去一番の腕前になったとは言える。しかし、そこでさて、考え込んだことがある。
〈それにしても、今までに覚えもないこの熱中。一体なんなんだろう?〉
 僕は確かに、この素朴で、憂わしい音色に引かれてギターを始めた。このたびはさらに、この音色を生かした和音や分散和音をよく聞きながら励んで、この多彩な六弦の協力のようなものにまた新たな良さを見つけられたような気もする。「なるほど、フラメンコダンサーがこの楽器を侍らせるわけだ!」とか、「ベートーベンが小さなオーケストラと呼んだ楽器だそうだが、わかるなー」とか、改めてつぶやいたりもした。しかしこれらだけなら、「感情の狂い」と診断されるまでには至らなかったと思うのだ。
 こういった自問自答の中から、ふっと浮かび上がってきた映像があった。母が八十歳近くまで三味線の発表会に出ていたときの、背中を丸めて小さく座ったその姿である。〈あれほど練習して、回りの人に四苦八苦でなんとかついていく。「生きなきゃー」って感じだなー〉と当時は見えたものだ。加えてもう一つの感慨、〈それにしても八十だ。いくつになっても「鑑賞」じゃ済まなくて、自分で「表現」して前進を確認していきたい人なんだなー〉。こんなふうに見えた昔の母と対照したとき、初めて今の自分が分かるような気がした。「時間さえかければ、まだまだなんとか」と、母を破壊し尽くしてきた老いの兆しを自分に見つけだしては、それを懸命に払い除けようとしているといった感じだろうか。それにしても、両手十本の指の速く、細かい動きから老いを払い除けて、「まだまだなんとか」を実証するのは、なかなかの骨だ。だから時間がどんどん飛んでゆく。それも七月に入ったころ全てテンポが遅すぎると気付いて、メトロノームのせめて八十ぐらいにはと改造作業が続いている、その真っただ中。さらに際限もなく時間が飛んで行き、挫折かさらなる前進か、こういった現在というようにも見える。
 これら全てが、母がいなくなったのと定年退職との前後のことなのだ。「感情の狂い」という連れ合いの診断はあながち的外れではないのかも知れない。そんな彼女が最近はこう宣告する。「ギターなんて細かい動き、そんなことすぐ進まなくなるよ。悲嘆に暮れてる貴方が見えるようだ」。それを聞いた僕、今度は一曲終えるごとにそれをテープに残し始めた。その時初めて意識したことだが、〈そう言えば、母自身の三味線稽古テープも十本くらいはあったかなー〉。

 リタイヤーに備えたもう一つの「表現活動」は、所属同人誌の文章創作だった。こちらは当初、僕にとっては全く未経験の白紙分野、この十年かけて準備してきたものである。これにちなんでも当然、母との想い出は多い。真っ先に浮かんだのはこんな場面だ。
 広島の江田島から原爆を見た後、僕ら家族は父だけを彼の職場に残して、母の故郷へ疎開した。僕の四歳の時、故郷とは渥美半島の田原である。三軒家と呼ばれたど田舎の森の中の家、裸電球の下、七歳と五歳(もうちょっと後だったかも知れないが、その後数年で名古屋に来たから、いずれにせよそんなころからのことだ)の少年が二人、ちょこんと座って母の読み聞かせにぽろぽろ涙をこぼしている。読まれた本は「小公子」、「小公女」とか「家なき子」とか、僕の文字、読書に関わる原風景で、年下が僕である。
 その後小学生の間、なぜか読書から遠ざかって年齢より三歳くらいは幼いような文章しか書けなかった僕を、この原風景に押し戻してくれたのが、また母だった。中学生の頃、日記を書く習慣を励ましてくれた。この習慣は、とぎれとぎれではあっても、基本的には今現在まで続いている。漫画でない読書の習慣が現れたのは他人よりも遥かに遅くて中学生後半だが、子どもの本は母が最も出費を惜しまない買い物の筆頭だった。
 僕自身のいままでの文章生活がこんなだったから、母の関与がどれか一つでも欠けていれば、やがて五十を越えて同人誌活動に加わるなどということは、まずなかったろう。これらも、この数年に母とのことを振り返ってみて、初めて気付いたことだ。親とは損なものである。ちなみに悪い親ならば、得しちゃったということも多いのだろうか。
 なお、僕の作品をこの世で最も熱をこめて読んでいたのが、発病前までのこの母だった。これは断言できる。僕の作品のみならず、僕の同人誌の全作品をなめるように読んでいたと思う。彼女がことさらそう報告したわけではなく、日常会話の話の端々にそのナメテイル様子がうかがわれて、驚くことがあった。気に入った同人の、性別、年齢、時には名前まで出てくることがあったのだ。

 リタイヤー生活に備えたもう一つの活動は、スポーツである。これも母と似て、「鑑賞」だけでなく「表現」であって、ここ五年ほどは年齢相応にランニングとスポーツサイクリングという有酸素運動の形で、現在の日常生活の中に残っている。ランニングはジムに週二回ほど通う。なんとか十キロ走って、最大五百メートルほど泳いで一回分、僕が泳ぐのは走り続けるためだ。自転車は一人でまたは仲間たちと、月に一、二日、三十キロから百キロほどロードレーサーをころがす。こういう僕のスポーツ活動にも母が関わってくるが、今度は「敵」、反面教師としての関わりである。
 四人兄弟のなかで、兄も弟も僕の記憶に間違いなければ、高校の時いったん入ったクラブを間もなく止めさせられている。確かそれぞれボート部と卓球部のはずだ。こんなに時間を取るのでは学業に障りがあるからということらしい。妹は卓球部をずっと許されたが、女だからということだろうと僕は解釈した。これも何か両親らしい。両親と言ってもこの場合、主導したのは父だ。母は消極的に父に賛成した。庇ってくれたこともあったから、そう感じた。確かめたわけではないが、まず間違いないだろう。
 さて僕の場合、山場では夜毎にけんかである。父の手が出たことも一度ではないといった、激しいけんかだった。そんな時の母は、僕と父との周辺を心配そうにただうろうろしていた。結局僕は、バレーボールを三年間守り通して、大学でも一年でレギュラーになった。その年、愛知の大学バレーボールリーグ一部中位に属するけっして弱くはないチームで。こうして当時の僕にとってバレーボールは、家からの『自立』であったと同時に、大きな誇りにもなった。ただそんな僕もスポ-ツを、今理解するような意味において捉えることはできていなかった。奇妙な表現だけれど、僕の頭の中では、僕の感情や行動におけるほどにはバレーボールを大切なものと意識してはいなかったのである。すごく好きだったし、行動上の熱中度も周囲の他の誰にも負けないという自信があったのだけれど、意識の上では当時それを、僕にとって数少ない「面白いこと」の一つと観ていただけだった。今だったらこんなスポーツ観を付け加えることができる。


(あと2回続きます)



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ニシノジャパン(38)やはり醜いポーランド戦  文科系

2018年08月12日 03時18分33秒 | スポーツ
ポーランド戦の「敗北による勝ち抜け狙い」に、やはり一言。

この問題についてその後、多くの専門家らの意見を読んでみたが、「当然」とばかりに賛成している人がほとんどで、それが気になって仕方なかった。言うならば、日本人らしい「専門馬鹿ばかり」と思えたものだ。つまり、思考、判断の領域が狭い。どのようにそうなのか? 一言で言えば「勝ち抜け至上主義」に偏っていて、スポーツにおける最も大切な物を見ることができていない。その最も大切なモノこそ、スポーツを人類文化(活動)たらしめている要素なのだと思う。

 さて、端的に問うてみたい。スポーツは勝ち抜けが全てなのか? 違うと思う。少なくとも勝ち抜けと同じほど大切なものがあるのだが、ポーランド戦ではそれが全く無視されてしまったと、そこを僕は強調したい。(チーム・スポーツ・ゲームの)勝利目指して人として最大限のプレーを行い、個人・組織の極限の力をだすという本質的側面が無視されてしまった。日本人が苦手な文化活動としてのスポーツということをこそ、ここで僕は強調したいのである。このゲームも勝つことによって勝ち抜けをも目指すべきだったのだと、その結果たとえゲームに負けて勝ち抜けに失敗することがあったとしても、そうすべきだったのだと、僕は強調したい。
 現に、あのゲームの観客が、途中で続々と帰って行く様がテレビで映し出されていた。「勝ち抜けのために、このゲームは敗退選択」ということによって、スポーツ自身を放棄し、これを観たい人を無視したのである。勝ち抜けにだけ拘る人々はテレビを観ていた世界の人人でも圧倒的に少なかったはずであって、そういう人々こそが、勝ち抜けではなく、スポーツを求めている人々なのだろう。他方、賛成した人々はやはり、スポーツを文化としてみないで勝ち抜けだけを見る人だったのではないか。特に多くの批判が西欧先進国から上がっていたのも、スポーツを人類の文化と見る観点からだったはずだ。


 ここでさらに一言追加をしたい。勝ち抜けだけに拘り過ぎる風習は、長い目で観ればそのスポーツ自身をダメにしていくのではないか。
「合法なものであっても、反則は見苦しい」
「ネイマールのダイブは見苦しい」
「一生反則をしなかったリネカーは、とても立派だ」
 米大陸流プロスポーツ主義が勝敗こそ全てという風習を作って、スポーツを汚してきたのではないか? 日本人は近代ポーツ発生時のアマチュアリズムをもう一度思い出すべきではないだろうか。レスリング、アメリカンフットボール、アマチュアボクシング、チアリーディング、相撲、柔道、バドミントン、などなど大変な構造的不祥事と思われるものが多発しているだけに、こういう論議が今改めてこの国で大切になっているのではないか。
『勝敗だけに拘りすぎると、スポーツはどんどん醜いモノになっていく』
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オウム一斉死刑、宇野重規氏の寄稿から   文科系

2018年08月11日 14時07分46秒 | 国内政治・経済・社会問題
「オウム真理教元代表の麻原影晃死刑囚を含む7人の死刑が執行された」が、同一事件のこれだけの多人数死刑執行は「大逆事件」以来百年ぶりの出来事とか、という書き出しで、宇野重規東大教授が昨日の中日新聞に寄稿されている。死刑というこの問題は、国の主人公である国民を、主人公らの生活手段として生まれたに過ぎぬ国家がどうして殺すことができるのかという重大問題を含んでいる。同様に、国の主人公の命を、国民のためにあるとされる国家が奪うことができるのかという問いを、宇野氏は発しておられるが、その中心部分はこんな文章になっている。
 なお、日本という国は先進国には珍しい死刑大国である。これは案外日本人の知らないこと、この点では中国や北朝鮮、さらにイスラム教諸国などに近い国なのである。

『多くの処刑者を出してきた欧州では、これを抑制するために、まずは個人間の私刑を否定して、死刑を国家の権限として一本化した。やがて民主化が進むにつれ、個人の権利を守るために作られた国家が、個人を殺す権力を持つのはおかしいとする意見も生まれてくる。私人はもちろん、国家もまた死刑に対する正統な権力を持たないという考え方の広がりは、民主主義発展の指標でもあった』

『その意味で、今あらためて考えるべきなのは、はたして国家は死刑を行う正統な権限を持っているか、という問いである。筆者自身は、民主主義国家において権力が個人を殺す正統な権限を持つとは考えていない。被害者の権利をより重視すべきだとの声があり、それ自体は正しいと判断するが、そのことは国家の死刑への権利を正当化するとは考えない。報復という私刑的発想はまして評価できない。
 今回の出来事を機に、国家による死刑の権限の濫用という人類の歴史を振り返り、今一度、死刑制度の是非について考えるべきではないだろうか』


 以上について、この問題理解が何をもたらすかということで、僕から一言を付け加えたい。死刑を肯定する人は一般に、主権者との比較で国家への尊重が昂じやすく、国家主義、全体主義に陥りやすい。否定する人において国家との比較で国民個人への尊重が昂じれば人間性悪説が剥き出しになると見る人が、この日本には他国比較で多いようだ。宇野氏が以下のように述べているのも、そういう日本の傾向を示していよう。

『死刑制度を廃止し、これを欧州連合加盟の条件にまでしているヨーロッパ・・・に対し日本では、死刑制度廃止に対する世論はそれほど大きくないようだ。世論調査を見ても、死刑制度を容認する意見が圧倒的多数を占める』

 なお宇野氏がアメリカはちょっと例外と述べて、こんな解説を加えられていた。
『それでは同じ民主主義国家の米国で、なぜ死刑制度が存続しているのか。・・・・・米国では、むしろ市民間の正統な裁判によって死刑を執行するという発想が強かった。国家に死刑を委ねないという意味では、民主主義と言えなくもないのである』


(7月15日拙稿の再掲です)
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掌編小説  国家暴走   文科系

2018年08月11日 14時00分01秒 | 文芸作品
 二〇一八年七月一六日夕方、小さな居酒屋の半分ほどが座敷になったその一角の座卓で、連れ合いと飲み始めた俺。すぐ隣の机で、三〇前後らしい三人の男性にちょっとした討論が持ち上がるところだった。教祖初めオウム真理教関係者七人の処刑が十日ほど前に執行されたばかりとあって、そのことについてである。

「あれだけの殺人事件じゃ当然だよな。弁護士一家三人皆殺し場面を読んだことがあったけど、まー酷いもん。子どもだけでも助けてという奥さんの哀願なども全く無視されたようだし」
 最初にそう切り出したのは、仮に目がね君と呼んでおこう。これを引き継いだのが、小さな顎髭を付けた細身の男性だ。
「でも、あれだけの人数の一斉死刑って、先進国世界はもちろん日本でももう希有なことらしいよ。EU、ヨーロッパ連合では死刑廃止が加盟条件の一つともあったし、日本でもA級戦犯処刑などの例外を除いて、明治末期の大逆事件以来の人数だそうだ」
 この顎髭君のニュースソースで、今度は太めのおじさん風が解説を加える。
「そうそう、俺もそんなネット記事読んだけど、大逆事件って政府がでっちあげた明治天皇暗殺計画で、一一人死刑という大事件だそうだ。先日は七人だから、A級戦犯処刑数と同じだよね。俺も何となく嫌な気分になったな」。
 この二人に目がね君が改めて反論する。
「テロや難民問題などこれだけ世界が荒れてるんだから、EUの方がむしろ時代遅れなんだと思う。大量処刑実施って確かに良い気分になれんが、『最大多数の最大幸福』とか『公序良俗』維持のためやむを得ず……とか、大学で習ったような……」
「確かに俺らはそう習ったね。そういう大目的のために、個々人が自制すべく契約しあって作ったのが国家だという社会契約説」と、顎髭君が付け加える。この三人、どうも大学の同窓生らしいが、法学部の学生でもあったのだろうか。さてここでこの話は一段落したようで、暫く無言時間。やがて、おじさん風がぼそっと語り出した。
「でも、明治末期以来では日本史上ほぼ初めてのことを今やったっていうのは、やっぱり引っかかるなー。もうかなり前から『死刑大国日本』とも言われているらしいし。明治末期って、国民主権国家とも言えなかった時代だろ? その時以来のことを民主主義国家になって半世紀をとっくに過ぎた今やるって……どういう理屈を付けるのか?……麻原らだって立派な主権者なんだろ? 主権者らがその幸せの手段として作った国家がその主権者を殺すって、改めて考えてみればやっぱりおかしくないのかな?」
 目がね君がまた答える。
「そこがそれ『最大多数の最大幸福』を目指し続けるためにやむを得ず『こういう方には死んでいただかねばなりません』という理屈。さっきも言ったけど、この数十年、世界もどんどん荒れてきたしね」
 これに同調するように顎髭君がウーンッという感じで一つ頷いたその時、おじさん風がウンウンと小さく相づちを打ちながら、またもぼそっと呟きだした。
「上手くまとめてくれたけど、そう解釈すればこそ全く理解できない政府の態度が、あるネット記事に書いてあったんだよ。こんな内容だった。『死刑執行の前日五日夜のことだが、自民党若手議員四十人ばかりが集まった二七回目という恒例の宴会に片山陽子法相も出席。会合の締め間際らしい全員写真も別記事に載っていて、その最前列真ん中に座った安倍首相の左手隣に上川氏が正座して、にこやかに右手親指をたてている光景があった』って。これって、明日の死刑執行を前にして、その決済書類に判を押したばかりの法相の態度かと問われているわけだ。この政府から見ると、めったになかったようなこれだけの大量処刑に異例という感じがまるでなかったことになる」

 さて、急いで家に帰った俺、酔いも残っていたが、ネット記事を猛然と漁り始めた。まず、自民党議員・片山さつきさんのこれ。
『今日は27回目の #赤坂自民亭 @議員宿舎会議室、若手議員との交流の場ですが、#安倍総理 初のご参加で大変な盛り上がり!内閣からは#上川法務大臣 #小野寺防衛大臣 #吉野復興大臣 党側は #岸田政調会長 #竹下総務会長 #塩谷選対委員長、我々中間管理職は、若手と総理とのお写真撮ったり忙しく楽しい! 22:58 - 2018年7月5日』 
 次いで、ジャーナリスト斉藤貴男氏のこんな文章。
『死刑をリアルタイムで見せ物にすることで、国家権力の強大さと毅然とした態度を国民に見せつけた。意図的な公開処刑であり、死刑が政治に利用された』
 ここに言う『リアルタイムで見せ物に』とは、こういう異例なやり方の数々を指している。先ず死刑の予告がマスコミを通して国民に流れた。しかも、これが既に前日に流されていた。加えて、再審請求中だとか、国会会期中だとかには執行無しという諸慣行にも全て反していた。つまり、従来慣行を文字通り無視する形をさらに開き直らせるようにして、国家の力を国民に見せつけるという挙に出たわけである。というように、近代国家理論の諸原則を全て無視する形で改めて主権者の遙か上にそびえ立って見せた今の安倍流日本国家って、一体全体何物なのか?

コメント (1)
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