『アーサー王の死-トマス・マロリーの作品構造と文体』より-アーサーの盛衰⑤~⑥ - たんぽぽの心の旅のアルバム (goo.ne.jp)
⑦栄光へのかげり
『ライオネスのトリストラム卿の書』
1230年頃書かれたとされるフランスの『散文トリスタン』を種本としている。
題名が示すように、作者の関心は主としてトリスタン、トリスタンと関わる多くの騎士の行動にある。この点はアーサー王物語とは別個にヨーロッパに広く伝えられていたトマ=ベルール系の『トリスタンとイゾルデ』の悲劇性・運命的愛の伝承とは全く趣を異にしている。ここで表舞台に出るのは騎士ばかりである。まさに男性文化と秩序の世界である。
マロリーはトリスタンとイゾルデの愛の問題をどう考えているのか。トマ=ベルール系の物語の主要な構成要素はトリスタンの異常な誕生、竜退治、刃こぼれによる仇敵の判明、媚薬、初夜の身代わり、三人のマルク王の悪臣、あいびきの露見、トリスタンの脱出、神明裁判、モロアの森での逃避生活、トリスタンの追放、白い手のイゾルデとの結婚、白・黒の船帆とトリスタン・イゾルデの死・・・、
マロリーの物語では、これと共通した構成要素は少なく、全体的に軽く収めている。この愛の問題を全体のなかで重要視していないということになる。この愛の物語にみられる構成要素のもつ根源性・元型性に気づいていないともいえる。
竜退治による賞としてイゾルデを貰うという深い伝承性・根源的な形の代わりに、イゾルデの父王を裏切りのかどで告発するアーサー王に対して、トリスタンは父王の潔白をかけて代表して戦い、それに勝ち、命を救った報いとしてお嬢を得るという騎士的行為を強調する。
叔父を殺したトリスタンに対して頑固に心を閉ざしているイゾルデが、たまたま誤って媚薬を飲んでしまったために敵を愛してしまうという運命的な媚薬の効果はここで薄められる。イゾルデは父を救ってくれたトリスタンをすでに深く愛していたのである。
「一日会わなければ狂い、七日たてば死ぬ」という媚薬の効果とは無縁。船上で二人が媚薬を飲む描写はまさに《散文的》
マルク王についても《モロアの森》で二人の眠っているところを見て、太陽が顔に当たらないように日除けをしてその場を立ち去るマルク王ではない。ここでは徹頭徹尾、卑劣臆病な王として扱われ、そのためにトリスタンとイゾルデの愛はアーサー王・ランスロットなど多くのすぐれた騎士から不倫を非難されるどころか暖かく迎え入れられ、また賞賛さえ受ける。アーサー王とグィネヴィア、ランスロットの愛とは全く対照的。しかもこの愛はアーサー宮廷の崩壊には全く関与しない。
マロリーがイゾルデの愛にからめて、この物語全体を縦糸のように貫いているテーマはパロミデスとトリスタンの長い熱い争いである。
激しい愛の競争相手でありながら、命が危うくなれば救いの手をのべる奇妙な友情。パロデミスはトリスタンの騎士道精神に負け、キリスト教徒しての洗礼をうける。真のすぐれた騎士パロデミスの誕生。
すぐれた騎士は結局すぐれた騎士が仲間となり、強い友愛で結ばれる。
騎士が甲冑に身を固めてしまえば見分けがつかなくなる。手強い相手に出会えば名前を聞きたくなる。すぐれた騎士同士ではなかなか勝負がつかない。相手が誰であるかわかれば、試合場から突如姿を消して相手に勝ちを譲るか、また戦いを止めて相手に降る。トリスタンとランスロットの出会いはまさにこれである。
すぐれた騎士道の代表はランスロット、トリスタンとするなら、反騎士道の代表はガウェイン兄弟。ロット王を殺したペリノーレ王が円卓騎士になって以来続いている≪ロット-ペリノーレの宿恨≫が爆発する。
復讐の機会を狙っていたガウェイン兄弟は遂にペリノーレを殺害した。ペリノーレが娘の必死に助ける声を無視し、結局死なせてしまったことに対する神の報いが下ることにもなる。
さらにペリノーレの息子ラマロックがガウェイン兄弟の母(ロット王妃)と愛し合うようになると、ロット一族への侮辱とばかりラマロックへの憎悪を集中する。
彼らは一度はラマロックがモルゴースと一緒のところを打ち損じ、母の首だけをはねてしまっていた。今度は馬上槍試合の後、ガウェイン・ガヘリス。モルドレッド・アグラウェインの4人は一度にラマロックに打ってかかり、まず馬を殺し、それから前後から攻め立て、ずたずたに切り殺す。
マロリーはこの非道な反騎士道的攻撃について、作品の中で3度取り上げているほどである。作者はこの行為を反騎士道の典型とみる。ガウェインの弟ガレスは、反騎士道的な兄弟と完全に袂をわかってしまう。この反騎士道の集団はラマロックの殺害をもって《ロット-ペリノーレの宿恨》の終焉とはみない。さらにラマロックと親しい者達へとその怨恨の矛先を向けていった。トリスタンが去った後、もっぱらランスロットと一族に向っていく。反騎士道集団のすぐれた騎士道集団への憎悪という形に発展する。
『ランスロットとエレーヌの話』
ガラハッドの誕生、ガラハッドの出現が《栄光へのかげり》に決定的な因となる。聖霊降臨祭に隠者が宮廷に現われ、《円卓の危険の席》に坐れる騎士が生まれるだろうと予言する。ここに坐れる騎士はこの世の最高の騎士、つまりランスロットを越える騎士の出現を意味する。
聖杯探究-《聖杯探究》が《栄光のかげり》とどう結びつくか。
聖杯はすばらしいあらゆる食物、飲み物と結びつく。つまりケルトの世界に見られる豊穣、死と再生を支配うる地母神への犠牲、人間の生首をのせた大皿、あるいは大釜と関わりのあるものだろう。大釜信仰はマビノキオウンのプランでは大釜は戦死した者をいれると生き返らせることができる魔器となり、死と再生あるいは豊穣を生み出すこの魔釜を異界に求めに行くという物語となる。
聖杯はアーサーの世界に入るとキリスト教的になり、キリスト教のお守りを入れる器、それからキリスト受難の時の流れる血を受けとめた器という、もっと明確な形をとる。それがまた《最後の晩餐》でキリストが「わが血なり」と言いながら弟子たちに与えたぶどう酒を入れた杯になったともいわれる。そして聖杯をアリマデアのヨセフがイギリスに持ち込んだということになる。
ケルトの世界からキリスト教の世界に移ればこの大釜探求は聖杯探究に変わるのは極めて容易である。聖杯探究に成功する絶対条件は厳しく限定され行い正しく純粋な者に限るということになる。
聖霊降臨祭の日、見事な剣がささった大石が川岸に流れ着く。ガラハッドはやすやすと剣を抜き取り、自分の鞘に収める。「この剣はベイリン卿のものであった。彼の兄を殺しぺラム王を傷つけた剣でもある。私がぺラム王の傷を治すであろう」と宣言する。不具王のテーマのサイクルの完結の予告である。
アーサー王は石から剣を抜き取ることができ、地上の王としての資格があることを証明した。
ガラハッドは石から剣を抜き取ることができ、聖杯探究の成功者として天に召される最高の騎士であることを証明する。アーサーの地上に王に対する天上の王(第2のキリスト)である。このアーサーとガラハッドを結ぶ中間的存在がベイリンとその剣である。ベイリンは同じように婦人の腰から剣を抜き取ることに成功しながら、その剣を「正当な者」に返さず自分の者にしようとする。この人間の業-我欲はまわりの人間に対して危害と荒廃をもたらすほかはなかった。そして残されたその傷を回復するにはガラハッドの登場が不可欠である。
聖杯の到来-広間を通過すると、急にどことはなしに消えていった。
ガウェインが聖杯探究の口火を切り、ほとんどの騎士が後に続く。
円卓にただひとつ残されていた《危険の席》もガラハッドの到来で満たされ、それと共に神の恩寵に恵まれる。つまり円卓はこの小宇宙の完全性を意味していたが一か所欠けていた。ここにガラハッドの登場で完全なものとなり神の恩寵にもあずかったのである。しかしこれも一瞬であり、瞬く間にこの地上の完全性が崩壊することになる。聖なる人も物もこの罪に汚れた場に長く留まることはできない。しかもこの聖杯探究の口火を切ったものが神を怖れぬ最も罪深い非道がガウェイであってみれば、この聖杯探究の行く、聖杯探究の結末は明らかである。
アーサーはこの結末が逆に無知で信をもたない騎士達にもたらす悲運が予感し悲しみ憂えていたのである。宮廷の嘆き悲しむなかを騎士は出発する。この探求を通常の冒険としか見ていない騎士達にたいして僧服をまとった老騎士が現われ「聖杯探究という崇高な使命に婦人を伴ってはならない。罪に汚れた者はけっしてイエス・キリストの神秘を排することはできないだろう」と早々に段を下す。
騎士が聖杯探究に成功する鍵は、聖杯騎士として運命づけられているガラハッドに出会い、行を共にすることができるか否かにかかっている。そこで騎士はみなガラハッドの後を追っていく。
ガウェインの旅はすぐれた円卓騎士を殺害していくことでしかない。邪悪な騎士ライオネルも同じである。すぐれた仲間の騎士や僧さえも殺してしまう。神を怖れぬ者があえて崇高な使命に挑むことの報い。彼らはガラハッドの消息さえきくこともなく冒険は終わる。
ランスロットはロウソクを中に見ながら入口をみつけることはできない。聖杯の奇蹟を間近にみながら自らは近づく力をもつことができない。(僧院での告白の場面)
ランスロットは「ひとりの王妃をこよなく愛している」と告白しながらグィネヴィアの名前をあげる勇気はもてない。
「こよなく愛する」(love out of measure)のout of measureはすでに二人の関係がのっぴきならないところまできていることを示している。またランスロットは自分が「よかろうが悪かろうが」戦ってきたこを再三繰り返し述べているが、「正しい戦いのみをせよ」という騎士道精神にも反している。
(剣・武具・馬を持ち去った騎士と出会い、戦い倒し、全てを取り戻す)-神より与えられたものの代わりに自分のものを取り返し身につけるということは、自分の元の生活、罪のある生活に戻ることを意味する。
(馬上槍試合で劣勢の黒騎士側の見方をして負ける)
ランスロットは自分の《おごり》のために悪い者の味方をしたのであり、神の怒りを受けて負け聖杯から遠くなったことを意味する。これまでの道を悔い改めるようにまた警告される。「弱いものの味方をする」という騎士道的行為は、天上の世界ではなんの価値ももっていない。罪に汚れた者の《おごり》にすぎないという。これまでの道を悔い改めよということは、王妃との関係を清算せよというだけでなく、これまでの価値体系を捨てよという意味である。アーサーの世界の価値転換を求めていることでもある。地上の栄光への挑戦であり、それがそのままかげりを生む。
ランスロットはガウェインと異なり、ガラハッドと半年共に過ごすことができ、聖杯探究もぎりぎりのところまで成就しかける。しかし悔い改めを徹底することができないため、完全な成功には至らなかった。ランスロットにとってもその見返りは大きいものになる。
ホルス・パーシバル・ガラハッドの3人は初めから聖杯探究に成功することが予告されていた。天上の騎士ガラハッドは別として、この二人の探求の旅は他のアーサーの騎士のものとは異なっていた。聖杯探究予定者に対して、魔女・悪魔がいかに二人の成功を妨げようとするか、それを二人がいかに切り抜けていったかを描いている。
二人ともひたすら神を信じ、神の思召しのままに動き、禁欲生活に徹した。そのため悪魔の誘惑を最後にはねつけることができ、純潔を守り通せた。ガラハッドとの合流を待つだけになる。
ガラハッドに対しては悪魔の誘惑が全くない。天上の騎士にたいしては、初めから勝敗は明らかであった。ガラハッドの旅はイエス・キリストと同じように、奇蹟を行っていく旅である。
聖杯への案内者であるパーシバルの姉が自ら命を犠牲にしている人を救う。わが身を顧みないけなげな行動は騎士だけのものではないことを訴えている。また、最初の物語に出たパーシバルの姉により治るという予言の実現。
《不具王の治癒》の達成
マロリーの描くガラハッドの昇天-作者のゆっくり動くカメラアイは非現実、幻想的なものをも一種のリアリティに変えてしまう。
「この世が定まりがたいこと、移ろいやすいこと(unstable)」にランスロットの注意をひかせている。
⇒ランスロットがグィネヴィアとの関係を断ち、罪の道に立ち戻らないという神への誓いを守り通せないunstableな態度をさしており、このことがアーサー王国崩壊への因になることを怖れている。作者は《定めがたいこと(unstable)》がこれからの物語、崩壊のテーマのキータームとみている。
作者はこの曼荼羅的ともいえる聖杯探求成就の絵巻のなかにおいても罪深い弱い人間の業、この《定めがたい(unstable》本性から目を離すことができなかったともいえる。
聖杯探求の世界は純粋無垢性という絶対性に価値体系の基準をおいている。騎士道の世界の求める徳は通用しない。騎士道を振りかざすことが単なるおごり、我欲にすぎないことを教えている。罪深く神を怖れぬ者がはじめた聖杯探求は、はじめから失敗することが定められていた。そしてこの《おごり》の報いが、結局アーサー宮廷の栄光のかげり、崩壊への道に関わっていく。
⑧崩壊への道
アーサー王国を象徴する円卓は、ガラハッドの到来でこれまで欠けていた部分《危険の席》も満たされ、完全なものになり、聖杯の恩寵にもあずかることができた。しかし、聖杯は地上の罪の汚れたところに長く留まることはできない。たちまちのうちに消え、聖杯騎士も去り、恩寵も失せてしまう。聖杯探求の冒険は純潔完徳の騎士のみに成功が許される冒険であって、罪に汚れ悔い改めない者には許されるはずがなかった。地上の最高の騎士ランスロットも例外ではない。
聖杯探求の失意の冒険から宮廷に戻ったランスロットは、どんな行動をとったか。これがどうして崩壊の道につながるのか。
『ランスロットとグィネヴィア』の主題
その頃ランスロットのところに多くの婦人がやってきては、自分たちのために戦ってほしいと頼む。ランスロットは神の御心に叶うものと毎日それに当たっていた。また人の中傷、悪口を避けるためにもできるだけ王妃と一緒にならないようにした。それに対して王妃はランスロットが冷たくなったとなじる。グィネヴィアは伝説の女神はもちろん地上の王アーサーの王妃としてのプライド、権威も忘れ、ただ《歴史的》人間、さらに嫉妬に狂う生身の女の位置になりさがっている。生身の女になり下がった王妃とランスロットの愛は結局、アーサー王国を崩壊の道へ引きずり下ろしていく。
《ロット-ペリノーレの宿恨》は決して消えていない。騎士団分裂の土壌となっている。また、ランスロットと王妃の関係が深まれば深まるほど、王妃は嫉妬に狂う生身の姿をあらわにしてくる。
『アストラットの美姫』の話の中
ランスロットはガレスを誉めそやす。最後の物語で、ランスロットはこれほど讃え可愛がっていたガレスを気づかずとはいえ殺してしまう。皮肉な結末を迎える。またそれだけにこの物語のもつ悲劇性を深化あせている。皮肉性と悲劇性の合一である。作者の意図であろう。
嫉妬、難話、詫び、和解の繰り返し-その度に二人の愛はますます引き返せないところに来る。
『大馬上槍試合』の話の中
アーサーのガレスへのほめことば-ここでも「立派な」「名誉」にworshipを繰り返しているが、アーサーの、また作者マロリーの「立派な人間」への讃美であると共に、まもなく消えようとするすぐれた騎士への鎮魂、送別のことばでもある。この物語のかくれた意図ともいえる。
『荷車の騎士』の話
二人の関係はますます進み、広く人の口にのぼっている。また、それにつれ生身の人間の知恵がますます働いてくる。
メリアガウンス「最高の騎士といえども、悪い戦いをすれば神罰が下されるだろう」
⇒これはただしい、作品の後半でしばしば作者は、ランスロットが「良かろうが悪かろうがその戦いを引き受ける」ことに言及しているが、本当は騎士道に反する行為である。この争いも真実と争う戦いではない。たしかに王妃は供の騎士とは不実を犯していない。しかし王妃の不実は事実であり、神を怖れぬおごり、または強弁である。
『ウルリー卿の治癒』の話
・宮廷にいた110人の騎士ひとりひとりの名前をあげる。もうすぐにこの騎士たちが敵味方にわかれ戦い死ぬという円卓騎士崩壊を前にして、すぐれた騎士ひとりひとりをあらためて読者に紹介したいという作者のかくれた意図が感じとれる。まさに失うことへの愛情、また哀悼、鎮魂の名乗りである。
・最後に至ってランスロットはただひたすら神のみに縋り、自らをへりくだる純粋そのものの姿を初めて提示している。ランスロットの最も美しい姿すべてが消え去る前の最後の輝きというべきか。この態度がはじめからあれは聖杯探求にも成功し、アーサーに悲劇をもたらすこともなかったといえる。全てがめでたい喜びの生活の中で、マロリーはこの物語の最後にまた不気味な情景をつけ加えた。
灼熱地獄、朝早い、右足、変形性膝関節症末期の杖使いで無事に池袋まで時間どおりに辿り着けるという感覚が全くもてない。朝が白むまで眠れなかったのがまだ暗いうちに眠ることができるようにはなんとかなってきたなれぞ朝早い練習はできずじまい。ネットで道のり検索、知らない場所にいくのは昨年の東京ガーデンシアター以来一年ぶりの大冒険。間に合わずとも二幕だけでも劇場の中にいることができればわたしにとっては御の字かもしれない。お披露目公演、配信はみることができない。
絶望日本、これ以上生きていくことはできそうにない。これ以上どうすることもできない。どうしたらいいのかわからない。。9月の花組東京宝塚劇場までチケット当選中。まだ死ぬわけにはいかんそれだけだ。