『アンナ・カレーニナ(中)』-第四篇-19より
「公爵夫人ベッチィを玄関まで見送り、もう一度手袋をはめた手の、少し上の脈の見えるあたりに接吻して、夫人がおこったものか、笑ったものか見当のつかないような、いかがわしい冗談をいってから、オブロンスキーは妹の部屋へはいって行った。見ると、アンナは涙にくれていた。
オブロンスキーは今にも踊りあがらんばかりの上きげんであったにもかかわらず、すぐさま、妹の気分にふさわしい、なにか詩的な興奮した、同情あふれる態度に早変りした。彼は容体をたずねてから、朝のうちはどんなふうに過したかときいた。
「とっても、とっても悪いんですの。昼も、朝も、今までずっと、これからもずっと、いつまでも」アンナは答えた。
「どうやら、気が滅入りすぎてるようだね。もっと気をたしかにもって、生活をまともに見なくちゃね。そりゃ、つらいだろうが、しかし・・・」
「女の人って相手の欠点のためにさえ、男を愛するものだって、いつか聞いたことがありますけど」不意に、アンナはしゃべりだした。「でも、あたし、あの人のことはその善行のためにかえって憎みますの。もうあの人といっしょに暮してはいけませんわ。ねえ、わかってくださいます?あたし、あの人を見ただけで、生理的にやりきれなくなって、前後の見境を忘れてしまいますの。もうどうしてもあの人といっしょに暮すことはできませんわ。できませんわ。ねえ、いったい、どうしたらいいんでしょう?あたしは不幸な女で、もうこれ以上不幸にはなれないと思っていましたけれど、今のように恐ろしい境遇を、想像することもできませんでしたわ。兄さんには信じられないでしょうけど、あの人が親切な、りっぱな人で、あたしなんかあの人の爪の垢ほどの値うちもないってことはちゃんと知っていながら、それでも、あたしはあの人を憎んでいるんですの。あの人があまり寛大だから、憎らしいんですの。ですから、もうあたしに残されているものといったら、ただ・・・」
アンナは『死』といいたかったが、オブロンスキーは相手に最後までいわせなかった。
「おまえは病気だから、気分がいらいらしているんだよ」彼はいった。「ねえ、おまえは少し物事を誇張しすぎているんだよ。なにもそんなに恐ろしいことはないじゃないか」
そういって、オブロンスキーはにっこり笑った。だれでもオブロンスキーの立場にあって、そんな絶望的な様子を見たら、とても微笑などもらすことはできなかったにちがいない。ところが、彼の微笑には、あふれるばかりの善良さと、ほとんど女性的とさえいえる優しさがこもっていたので、それは相手を侮辱しないどころか、かえってその心を和らげ、落ち着かせるのだった。彼のおだやかんあ、落ち着かせるような話しぶりと微笑は、扁桃油のように、相手の心を和らげ、しずめる働きをした。アンナもじきにそうした感じを味わった。
「いいえ、スチーヴァ」アンナはいった。「あたしはもう身を滅ぼしてしまったんだわ、ええ、滅ぼしてしまったんだわ! いいえ、それより、もっといけないのよ。あたしはまだ滅びちゃいないわ。なにもかも終ってしまったとはいえませんわ。いいえ、その反対に、まだ終ってはいないってことを感じますわ。あたしは張りつめたいとみたいに、いつかは切れなくちゃならないんですわ。でも、まだ切れちゃいないんですわ・・・切れるときは、さぞ恐ろしいでしょうね」
「なあに、たいしたことはないさ、そのいとを少しずつゆるめればいいんだから。救いのない境遇なんてものはありゃしないよ」
「あたしもさんざん考えに考えたんですけど、やっぱり救いはただ一つ・・・」
彼は再びこの唯一の救いが、妹の考えによれば、死であることを、そのおびえたようなっ目つきで、見てとったので、今度も相手に最後までいわせなかった。
「なにも心配ないさ」彼はいった。「いいかね、おまえはぼくのようには、自分の境遇をはっきりながめることはできないんだからね、ざっくばらんにぼくの意見をいうとだね」彼はまた例の扁桃油のような微笑を浮べた。「まあ、一番のはじめからいうとだね、おまえは20も年上の男と結婚した。愛情もなく、というよりか愛 というものを知らないで結婚したわけだ。まあ、かりにこれがまちがいだった、としておこう」
「とんでもないまちがいだったんですわ」アンナはいった。」
(トルストイ『アンナ・カレーニナ(中)』昭和47年2月20日発行、昭和55年5月25日第16刷、新潮文庫、353-357頁より)