たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『夜と霧』より_生きる意味を問う_続き

2015年06月30日 21時51分56秒 | 本あれこれ
「強制収容所にいたわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁ではなかった。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。わたしたちは生きる意味というような素朴な問題からすでに遠く、なにか創造的なことをしてなんらかの目的を実現させようなどとは一切考えていなかった。私たちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない。苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。

 苦しむことはなにかをなしとげること

 苦しむことの意味が明らかになると、わたしたちは収容所生活に横溢(おういつ)していた苦しみを、「抑圧」したり、安手のぎこちない楽観によってごまかすことで軽視し、高(たか)をくくることを拒否した。わたしたちにとっては、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようとは思わなかった。わたしたちにとって、苦しむことはなにかをなしとげるという性格を帯びていた。詩人のリルケを衝き動かし、「どれだけ苦しみ尽くさねばならないのか!」と叫ばせた、あの苦しむことの性格を帯びていたのだ。リルケは、「やり尽くす」というように、「苦しみ尽くす」と言っている・・・。
 
 わたしたちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。ものごとを、つまり横溢(おういつ)する苦しみを直視することは避けられなかった。気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証(あかし)だからだ。しかし、このことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあると折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。

 たとえば、あるときわたしがひとりの仲間に、なぜあなたの飢餓浮腫(ふしゅ)は消えたのでしょうね、とたずねると、仲間はおどけて打ち明けた。
「そのことで涙が涸れるほど泣いたからですよ・・・・」

(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、131- 132頁より)

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今日は月末でした。
新幹線で火災が起きたり、箱根の大涌谷で噴火が起こったりと落ち着かない日でした。
次の場所と出会っていくために動き始めましたが、なかなかにエネルギーが要ります。
心が少し動くものはお金がまったくついてきません。一番の壁。
今日出向いたところは、まったく話にならないぐらいについてこないので、悲しくなってしまいました。人が足りないところは予算がつかないから人を充足できない。人を充足できないところは予算がつかないから人が足りないまま。
なんだか負のスパイラルを感じただけで希望がみえず、すごく悲しい気持ちになってしまいました。涙が出そうなぐらいがっくりきてしまいました。
いつ終わるのかわからないことを続けていくのはきびしいです。
心から休むことがないままなのできついです。
気力が続いていくのか。この日々に終わりがくるという感じが全くしません。
こうして動こうという気力が生まれてきただけ前進ですが、険しい道のりのあとにはまた険しい道のり。想いはいろいろとあれど結局おれてしまいそうな・・・。

「それでも人生にイエスと言う」

『エリザベート』の場面の数々。「わたしだけに」「闇が広がる」

心の中で繰り返しながらの一日でした。


夜と霧 新版
ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房

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