近所の禅寺で座禅会があり、初めて座禅をした。ちょうど蓮の開花するこの時期に座禅会をやる昭島茶道連盟に便乗させていただいた。
映画「禅」を今年見たけど何が何だか判らないままに見終わった感じで座れば何か判るかと思ったのだが・・・普段座り慣れないせいか足腰、背筋が痛くて何か感じるとか反省とか何もできなかった。要は修行が足りないということか
しかし座禅の前に住職から聞いた講話は座りながら反復した。その話は本堂の前に見事な大賀蓮が咲いていて、住職の蓮と仏像に関するうんちくであった。
インドでは蓮は民衆にとって大切な植物で崇められている。蓮はどんな汚い沼地からでも芽を出し、天にも昇る勢いですくすくと育ち、沼地が地獄とすると花の中は天国にたとえられている。お釈迦様も蓮に座っているし、法華経も蓮の花を意味する。人も蓮のように天国を求めても地獄のしがらみから離れられない。
私流に解釈すると人間誰でも一人幸せを求めても浮き世のしがらみとは繋がっているということだろうか
映画「禅」を今年見たけど何が何だか判らないままに見終わった感じで座れば何か判るかと思ったのだが・・・普段座り慣れないせいか足腰、背筋が痛くて何か感じるとか反省とか何もできなかった。要は修行が足りないということか
しかし座禅の前に住職から聞いた講話は座りながら反復した。その話は本堂の前に見事な大賀蓮が咲いていて、住職の蓮と仏像に関するうんちくであった。
インドでは蓮は民衆にとって大切な植物で崇められている。蓮はどんな汚い沼地からでも芽を出し、天にも昇る勢いですくすくと育ち、沼地が地獄とすると花の中は天国にたとえられている。お釈迦様も蓮に座っているし、法華経も蓮の花を意味する。人も蓮のように天国を求めても地獄のしがらみから離れられない。
私流に解釈すると人間誰でも一人幸せを求めても浮き世のしがらみとは繋がっているということだろうか