伊達政宗の命により1613年支倉常長が180人の大使節団を引き連れ仙台から欧州に出航してから今年は400年たつ、最初に上陸したスペインの港町コリア・デル・リオで周年行事をするので皇太子様が出席されるとのニュースを聞いた。セビリアに近いその港町にはハポン(スペイン語で日本)性を名のる人達が600人いるとのこと、何人かの日本人が居残ったという説が有名で彼らは日本人が祖先だと信じている。
常長らの一行は太平洋を横断し、メキシコのスペイン領アカプルコに上陸し、陸路で大西洋岸のベラクルスに移動、ベラクルスから大西洋を渡り、コリア・デル・リオに上陸した。出発してから2年後、ようやく1615年1月30日にスペイン国王フェリペ3世に謁見し、通商交渉をした。1615年11月3日にはローマ教皇パウルス5世に謁見している。ところが日本国内ではキリスト教禁止となり、通商交渉は失敗し、失意の内に7年後の1620年9月20日に帰国した。こんな状況だから、帰国を諦めスペインに残った伊達藩士がいても不思議ではない。ロマンを感じる使節団だが当人達は家族を残し、言葉も不自由での7年間、辛苦の旅路であっただろう。
支倉使節団に比べると、目立たないがそれより30年前、九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として天正遣欧少年使節団が1582年、イエスズ会の肝いりで4名の少年がアジア経由でローマへ派遣され1590年に帰国した。滞在8年の間、ローマ法王グレゴリウス13世、スペイン王フィリッペ2世に謁見、また欧州各地を訪問、この使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になった。支倉使節団の先遣隊的な役割を果たしている。印刷技術者も同行し、持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた。
昨年訪問した北イタリアのヴィチェンツアのオリンピコ劇場では、入口の欄間に最初にこの劇場を訪れた外国人として、天正遣欧少年使節団が劇場の最前列に座っているレリーフが飾られている。1585年に日本の少年がここに来たとしるされてるが、当時としては大変な冒険だっただろう。これまたロマンを感じるが、帰国後の使節団はキリスト教弾圧で悲劇的な最期を遂げている。
どの時代にも、勇気ある日本人が先駆者として地球をまたいで活躍している。