あの未曾有な過酷事故を危機一髪のところで止めた吉田昌郎所長の生の声を聞きたかったが、残念ながら脳内出血で亡くなり、その機会は永久になくなった。しかし、門田隆将による「死の淵を見た男」吉田昌郎と福島第一原発の500日は「事実は小説よりも奇なり」を地でゆくドキュメントだ。
原発特有の専門用語がかなり出て来るが、一般の人でも原子炉格納容器が如何にして爆発を防げたかが理解できる。もし、一基でも原子炉格納容器が爆発していたら高度に汚染され、人は近づくことはできず、他の核燃料が熔解しつつある5基の原子炉暴走を防げない。結果、格納容器が次々と爆発し、東京はもちろん本州の過半が避難対象地域になると想定された。吉田所長はその想定を頭に入れ、何としても原子炉の暴走を止め、格納容器の爆発を防ぐことに命をかけた。
最初の巨大地震ではジーゼル発電機が機能して冷却機能が働き、原子炉を冷やすことができた。ところが10mの津波ぐらいの対策であったために、その後襲った大津波でジーゼル発電機も配電盤も機能不全となった。電源を失い冷却機能が働くなった原子炉は止めることができても燃料の熔解は進み、いわゆるチャイナシンドロームに突き進んだ。
電源のない状態で、原子炉を冷やし、中のガスを外に出し(ベント)、格納容器の爆発を如何に防ぐかは、全く初めての体験だし想定も訓練もしてなかった。吉田所長やコントロール室当直担当責任者の極限の闘いぶりは読んでいて引き込まれる。原子炉建屋の汚染は進んでおり、核燃料が熔解していることは判っているが人間が近づけるかどうかは行って見ないと判らない。ベントは電源があればコントロール室での操作でバルブを開けられるが電源がないと格納容器まで行って手動で開けなければならない。あびる放射能を測定しつつの作業で、要員を交代しながらベントを何とか実行した。
そうした大変な時と場所にのこのこと菅総理がヘリコプターでやって来て、怒鳴り散らして帰って行った。防護服も用意しないで来たので現場はてんてこ舞い。
原子炉の暴走を防ぐにはベントを実行し、冷やすしかないことは自明であったが、冷却水を原子炉まで持って行くにはホースとポンプがなくてはならない。吉田所長は所内の消防車を先ず使うが、絶対数が足りず、自衛隊に協力を要請、関東地域の自衛隊消防隊が出動した。放射能汚染下の自衛隊出動はこれまた初めて、隊員の覚悟は大変なものだった。その間、水素爆発が原子炉建屋の上部を吹き飛ばしたが、その衝撃と瓦礫の飛び散る様は当時の報道以上だった。
福島第一原発に働く東電社員はほとんど福島在住で家族も周囲の市町村に住んでいる。吉田所長をはじめ社員の念頭にあったのは住民のことで、高レベルの放射線をあびてでも格納容器爆発を何とでも阻止しようとした決死隊の経験は今後に活かされなければならない。