床のひし形印が遭難の現場(東京駅構内)
8月26日は
大正・昭和期の官僚政治家
浜口雄幸(おさち)が
亡くなった日。
死去に至った
直接の経緯は 東京駅構内
中央通路案内所近く
8番乗り場の手前にあった。
柱の説明文には
「浜口首相遭難現場
昭和5年11月14日 午前8時58分、
内閣総理大臣浜口雄幸は、
岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、
午前9時発の特急「つばめ」号の
1等車に向かって
プラットホームを歩いていた。
このとき、一発の銃声がおこり
浜口首相は腹部を
おさえてうずくまった。
かけつけた医師の手によって
応急手当が加えられ、
東京帝国大学医学部付属病院で
手術を受け、一時は快方に
向かったが
翌昭和6年8月26日死去した。
犯人は、立憲民政党の浜口内閣が、
ロンドン条約批准問題などで
軍部の圧力に抵抗したことに
不満を抱き、凶行に
およんだものといわれている。」
浜口雄幸は
1870(明治3)年
高知県・土佐に生まれ
浜口家の養子なる。
第三高等学校をへて
1895(明治28)年
東京帝国大学政治学科卒業後
大蔵省に入り 山形県収税長
松山 熊本の各税務管理局長
東京税務監督局長などを歴任。
1904(明治37)年
以降は 煙草専売局に勤務
1907(明治40)年
専売局長官になった。
この間 後藤新平の知遇を得る。
1912(大正1)年
第3次桂太郎内閣の
後藤逓相のもとで
逓信次官に就任。
1914(大正3)年
第2次大隈重信内閣の
大蔵次官となり
立憲同志会に参加。
1915(大正4)年
第12回総選挙に
高知市から立候補して当選。
以来 6回連続当選した。
1927(昭和2)年
内閣総辞職で辞職。
6月憲政会と政友本党との
合同で成立した
立憲民政党の初代総裁。
1929(昭和4)年7月
大命により内閣総理大臣
1930(昭和5)年
金解禁を中心に産業の構造改善
ロンドン海軍軍縮会議の成功に
よる対英米親善外交に努めたが
軍縮や政党の腐敗などを
非難する勢力の攻撃を受ける。
同年11月
右翼の青年にピストルで狙撃され
臨時首相代理をたて治療に専念
1931(昭和6)年
やや回復して職務に復帰したが
4月 後事を若槻に託し辞職。
8月26日 死去。
謹厳実直 頑固一徹な性格と
眼光鋭いその風貌から庶民からの
人気はとても高く
「ライオン宰相」と
親しみを込めて呼ばれた。
城山三郎著「男子の本懐」は
浜口雄幸が
第一次世界大戦後の慢性的不況を
脱するために 多くの困難を
克服して 昭和5年に断行した
金解禁政策に生命を賭けた
長編経済小説。