(咸臨丸難航図・横浜開港資料館)Webから
前回の遣米使節記念碑文に
「 日米修好通商条約批准書
交換の使命をおびて江戸竹芝より
米艦ポーハタンに搭乗
初の使節として米国に赴いた。」
とあり 使節団一行は
“米艦ポーハタン”に搭乗とある。
当方は 咸臨丸で
赴いたものと思っていたが
咸臨丸は
ポーハタン号の“護衛艦”として
共にアメリカへ渡り
サンフランシスコまでを
往復しただけであった。
使節団が ポーハタン号により
サンフランシスコに着き
そこから ワシントンまで進み
大統領との謁見や
日米修好通商条約の
批准書交換などを行っている。
つまり 咸臨丸一行は
○軍艦奉行
木村善毅摂津守
(1830-1901・30歳)
○艦 長
勝 麟太郎
(1823-1899・38歳)
○通弁主務(通訳)
中浜万次郎
(ジョン万次郎/1827-1898・33歳)
○教授方 8名
また 木村摂津守従者として
福沢諭吉
(1835-1901・26歳)も乗船していた。
○その他
水夫、大工、
水焚き(料理人)医者等
日本人総勢 96人。
○米国側
ブルック大尉ほか
アメリカ人船員
11人が乗船した。
(往路:38日間)
万延元年(1860)1月19日
遣米使節より1日遅れて浦賀を
日本人による操作で出港する。
2日目はジョン万次郎を除く
日本人すべてが船酔いで
倒れてしまう。
そのためサンフランシスコまでの
航海は米国側が操作を行い
また航海術を経験している
中浜万次郎の助力が
大きかったという。
ポーハタン号がハワイに
寄港する間も単独で航海を続け、
37日間の航海を経て
ポーハタン号より12日前の
同年2月25日
サンフランシスコに入港
日本からの日米修好使節団は
熱烈な歓迎を受ける。
(復路:45日間)
同年3月19日
サンフランシスコを出港
途中ハワイへ寄航(4/4~7)
同年5月5日
浦賀に帰着。
○咸臨丸
江戸幕府の軍艦
オランダで建造
安政4 (1857) 年進水
同年長崎に到着
10万ドルで購入
長さ 49m 幅 7m
三マスト
100馬力の蒸気機関
内車型汽帆併用船
*参照
・ウィキペデア
・「咸臨丸病の日本人」事例集